吃音:心を開く(たびたび再掲載:初掲載は2013年12月27日)

 どもりを持っていて(それも、日常生活や学校生活、仕事上でも明らかな支障が出るくらいの)どもりの場合・・・、  
 または、第三者から見てなかなか気づかない軽いどもりでも、そのどもりを気にして結果的に日常生活に支障が出ていて、精神的にもギリギリの生活を送っている場合・・・、  
 このような場合には、吃音者のこころは次第に追い込まれていき、場合によってはうつ病などの心の病にかかり苦しむことも希ではありません。
*私がそうでした。  

 学校に通っていた子供は次第に休みがちとなり、ついには引きこもりになります。  
会社に通っていた人はどもることにより業務に支障が出てきても(学生時代とは違い責任もあるので)ぎりぎりまではがんばりますが、そのがんばりが災いしてほんとうにギリギリまで無理して、気がついたときには重いうつ病になっていることも希ではないでしょう。
*これくらいになると多くの場合自殺を考えます。  

 私もそうでしたが、「死んだ方が楽」などと、狭いほうばかりに考えを巡らし自分を追い込んでしまいます。  

 もしも、いま、これを読んでいる方でそういう状態にある方がいらっしゃったら、そうなりそうだったら、いや、そこまで追い込まれる前に・・・、  
少しずつで良いので「自分の心を開く」ことをしてみてください。  

 自分の(どもりやどもりにまつわる悩み)を隠さず話せる(聞いてくれる)友達いればいいのですが、実際にはなかなかいないでしょう。  

 どもりのセルフヘルプグループに通えば比較的見つかりやすいかかもしれません

 が、追い込まれていてパニック状態かそれに近い緊急事態では、その前に、精神科や神経科などのこころの専門家にかかって、医師や臨床心理士に自分のことを話して少しでも楽になってください。(医者の判断で精神安定剤などの投薬を受けられるかもしれません。)  

 セルフヘルプグループはそれからでも同時にでも通えば良いと思います。  
*うつネットなど、WEB上で情報収集できます。  
*各県にある「精神保健福祉センター」に相談する方法もあるでしょうが混んでいるかな?  

 少しでも楽になったところで、次のことを考えれば良いのではないでしょうか?  
こころが固くなっていると良い考えも浮かびません。  
 固いこころでは、自殺などというしてはいけない取り返しのつかないことを考えてしまいがちです。  
 まずは自分のこころを少しでも解放していくために、自分のことを聞いてもらえる環境を(自分で少し努力して)作りましょう。

「就職・仕事・職場」などの人生の「現実」を踏まえた吃音の論議が必要です(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2008年6月9日)

 どもり、特に思春期以降の「おとなのどもり」の現実は、専門家と言われている人が「治せない」ことです。
*いまの医学の限界です。仕方がありません。

 一方、矛盾するようですが、思春期以降まで持ち越したどもりでも「改善」されるケースはいくらでもあります。それは、医療の領域ではなくて、吃音者自身が積み重ねてきた民間療法の領域です。

 しかし、その「改善」も、
「どもりでない人と競争しながら働く一般的な企業の事務職や営業職などでの仕事」という位置で考えてみると、一時的なものであったり気休めでしかないことが多いのも事実です。
*治ったか・改善されたかに見えたどもりが突然ぶり返し、場合によってはいままでよりも重くなり、いままでできていた電話や交渉ができなくなること(それで仕事上で追い詰められる)は良くあることです。
*そもそも、どもりとの戦いばかりに心の力を費やしていると、うつ病などの心の病にかかってしまうこともありますので注意が必要です。

 今回はどもりを「仕事」という観点から考えます。

 その仕事は、時給が千円くらいの「アルバイト」ではなくて、
 結婚し家庭を支えて子供を育てていけるくらいの収入を得るための「正社員としての仕事」と「どもり」について考えていきます。
 これは、きわめて現実的な問題です。
*どうして取り上げたかというと、そういうふうに生きられていない吃音者が多いからです。

 学生時代までは、それなり重い場合でも、いじめなどでひきこもらなければ、なんとか卒業まではもっていくこともできるでしょう。
*陰湿ないじめによるひきこもりはどれくらいあるのでしょうか?統計などはありませんが、現実には、どもりを理由に引きこもっている人、つまり、学校にも行っていないし仕事もしていない人は相当数いるのではないかと思われます。

 学生時代まではなんとか形が付けられていた場合でも、学校を出て就職するときには、また、職場では、そういうわけにはいかないのです。
 ある程度以上の重さのどもりを持つ人のほとんどは、仕事に就くときに大きな壁にぶち当たるのです。
*傍から見て気がつかないような軽いどもりでも、自分で悩んで人生に支障が出ていればそれは「重いどもり」です。

 成人の吃音については(いつも書いているように)公的専門機関によるサポートは事実上なく、一般の病院でも有効なサポートは「ほぼ無い」と考えて良いでしょう。
*日本に数カ所あったとしても通えませんね。

 悩んだあげくに、苦し紛れに門をたたくのが、戦前から綿々と続いてきた「民間無資格どもり矯正所(のようなもの)とネット時代のその変化型」か、吃音当事者の集まりである「どもりのセルフヘルプグループ」です。

 どもり矯正所(のようなもの)についてですが、
 そこに通い「改善」されたかに見えても、いざ独力で就職活動をはじめようとして電話をかけたり交渉したりすると、「改善」は気休めでしかなかったことに気がつきます。
*誰かの力を借りて、いわゆる「コネ」で就職しても、入ってからは独力で就職した以上に苦しむと思います。

 それでも「なんとか生きていくため」に無理して頑張るわけですが、ここからが、どもりとの本当の戦いになるのかもしれません。

 就いた(就こうとする)仕事の種類によって言葉を使う場所や頻度は大きく違いますので一概には言えませんが、職場では、あたりまえのように電話をし難しい交渉もします。
特に厳しい競争にさらされている民間企業の営業職などについた場合(ついてしまった場合)には、どもりを持つ人にとっては相当なプレッシャーのはずです

 そのような「仕事の現実」にさらされている人は、「どもってもよい」などという哲学的な議論や矯正所に通って多少の言語訓練をしたところで、それが無力だということをイヤというほど経験させられるのです。

 しかし、またも矛盾するようですが、就職するまでの第一歩としての「民間矯正所での経験(そこの内容ではなくて、そこで知り合った友人たちとの関係です)」や、「セルフヘルプグループで同じ悩みを抱えている方たちとの語らい」の効果は否定できない価値があるのです。

「学校を出ても就職できずに引きこもってしまった場合」や、
「どもりからうつ病になって苦しい思いをした場合」から徐々に立ち直って、重い腰を上げて就職活動をはじめ、はじめて働き始めるくらいまでには、どもりでない人にはまったく想像がつかないくらいの「心の力」を必要としますが、同じ悩みを持つ友との何気ない語らいがそれを与えてくれるのです。

 どもりについては机上の空論ではなくて、
 どもりで悩んで自信をなくしてしまったり引きこもっている人がリスタートし、安定した仕事に就けた時にはじめて「どもったままで良い」という哲学的な議論ができる余裕が出るのだと思います。

「仕事」には、言葉を主に使う仕事もあれば、そうでない仕事もあります。
いわゆるサラリーマンにしても、営業もあれば、技術系、工場勤務もあり、言葉を使う頻度や場所も様々です。
その他、福祉関係、農業・漁業と、仕事は実にたくさんの種類があることを我々は忘れているのではないでしょうか?

 人生は、「こうでないといけない」という世界ではなく、「正解」はありません。いろいろな生き方が可能なのです。
 あまり思い詰めないで、「自分らしく自分なりの生き方をすればよい」、ということも忘れてはいけないと思います。

 ご家族や近くにいる方も吃音者本人を暖かくサポートしていただければ、どもりで悩んでいる人が過度に精神的に追い詰められずに生きやすくなるのではないでしょうか。

吃音:親を恨むこころは・・・(たびたび再掲載:初掲載は2013年6月20日)

 どもりについて、子供の頃から親にも理解されずにひとりで悩んでいた私は、高校のころになると、いま思うと、明らかにうつ病の症状でした。
 その後大卒後も就職できず(せずに)に、いままでの無理がたたったのか急に力が抜けたように約2年間引きこもりました。
 その後、少し元気が出始めたころ、なんとか通うことができた民間のどもり矯正所において、はじめて、どもりという同じ悩みを持つ友を持つことができました。

 人生ではじめて、家族にも友達にも話すことのできなかった「どもりの悩み」を心ゆくまで話し合えるようになった(友を持った)ときの開放感は、ことばでは表現できるものではありません。
 自分のこころのなかには、どもりに対する想いがこんなに多く詰まっていたのかと驚いたものです。
 また、こどもの頃からどもりに関する想いを無理やり自分のこころのなかに押し込んできたことが、自分のこころとからだに大きな悪影響を与えてきたことをあらためて実感し、確信し、これからも影響を与え続けるだろうことを予感しました。
*10年ほど前に吃音者の会合で、50歳代の女性(客観的に見るとかなり軽い吃音)が、人生ではじめて自分のどもりについて話せた!と号泣していたことを思い出します。

 その中のひとつが、「こどもの頃からこころのなかに押し込んできた想い」
・・・「親に対する根深い恨み」でした。

 どもりの悩みは人それぞれですが、いろいろな吃音者に接するうちに、それなりの割合で「親に対する恨みの感情を持っている人」に会いました。

★こどもの頃、どもることで学校でも笑われたり、からかわれたり、いじめられたりしていたのに、そして、それを親に訴えたのに相手にされなかった

★それどころか「どもりくらいたいしたことはない、もっと苦労している人はたくさんいる」と説教をされてしまった。

 「家族にすら理解されずにどもりの苦しみのなかで生きてきた話」を仲間から聞きました。なかには話しながら泣き出してしまう方もいらっしゃいました。

 こどもの頃からいままで、自分のこころのなかだけで持っていて誰にも言えなかった感情が、共感をもって聞いてくれる人の前で話すことによりあふれ出てしまったのでしょう。
*このブログにも、子供の頃からのどもりを理解してくれなかった(むしろ厳しい意見を言ってきた)親に対する根深い恨みを訴える、40歳代~50歳代の方のコメントがいくつか寄せられています。(個人的な内容なのでほとんどが非公開で直接メールでのやりとりとしています。)

少し冷静になって背景を考えてみます。
★親はどもりのことが分からない?
 こどもの多くは、自分のどもりを知られたくないので、家庭のなかでさえも極力隠そうとします。
 特に、言いにくいことばは言わないようにします。会話も最低限のものにします。
ことばの調子の良いときにだけ話すようにすれば、親からは「だいぶ軽くなったね、良かったね!」などと頭をなでられるかもしれません。

 しかし、これでは親は、自分の子供がどもりで悩んでいることをしっかりと把握できません。
*学校でいじめられているにもかかわらず、家ではそのそぶりさえ見せないで、ある日突然自殺してしまうことに似ているかもしれません。

 ここで考えなければいけないこと・・・
★世の中にはどもりに対する正確な情報がほとんどないし(ネット上、世間話ともに)、どもりのことで気軽に相談に行けるこころやことばの専門家のいる公的な専門機関も(ほとんど)ない。 これが致命的かも知れません。
 せめて、住んでいる街のなかに(日常的に気軽に通える範囲に)、一カ所でも良いから吃音に関心を持って取り組んでいる臨床心理士、言語聴覚士などが常駐している施設があれば、状況はだいぶ変わってくるはずです。
*学校の通級教室である「言葉の教室」も、その量・質ともに問題がかなり多いようです。

 親を憎んでいる場合はどうすれば良いか?
★同じどもりを持つ友人(親友)を、ひとりで良いので作り、いままでのことなどを打ち明けることにより、こころの中にある負荷を下げていく。
★どもりのセルフヘルプグループの会合に参加して、いろいろな立場(性別、年齢、育った環境の違いなど)の吃音者に接することにより、自分を俯瞰できるようにする。
★自分の「いま」や「これから」を充実していくことにより、過去にとらわれない(とらわれにくい)ような状況に自分を持っていく。(生き直し)

 なんと言っても、自分のことをこぼせる信頼できる友人を(ひとりで良いので)作ることが第一だと思います。
*なんでも話せるホームドクターとしての精神科医や臨床心理士を持つことも良いことです。(どもりで極度に悩んでいてどうにかなってしまいそう、でも、相談相手は誰もいないという場合には、まずはこちらにかかり、少し落ち着いてからどもりのセルフヘルプグループに参加して仲間を作ることが良いと思います。)

吃音:理解してもらえない人たちのなかで自分(の人生を)を見失わないためには(たびたび再掲載:初掲載は2014年12月23日)

 どもり、それも日常のコミュニケーションに支障が出るような重さや症状のどもりか、傍から見て気づかないくらいの軽いどもりでも自分として深く悩んでいる場合は・・・、(どもりでない人にはなかなか理解できないことですが)一年中、24時間が辛い人生かもしれません。

*私の場合は、小学生(3年生くらいかな)の頃から、発表時や教科書を読まされるときの恐怖から、少しの間だけでも逃れられる時間帯である週末や夏休みなどの長期の休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです。しかし明日は学校のある日曜の夜や長期の休みの最後の日はとても辛い時間でした)
就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました

 さて、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが・・・、
子供の頃からのどもることによる様々な悩みを、いちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)が、実はいちばん分かってくれていないことが多い、ということについて考えます。

 生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。

 特に子供のうちは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあるでしょう。

 自分の努力の外にある「どもる」ということ。
 日常の簡単な挨拶から、様々な場面で自分の名前を言うこと、授業中に指名されて教科書を読むこと、指名されて質問に答えること、など、日常、当たり前のように繰り返されることができないかできにくいという「どもりという言語障害」の性質を考えるときに、
まじめに努力しようとしている人ほどそのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせるのではないでしょうか。

「下手な治す努力」は、吃音者をかえって落ち込ませます。
 
 戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた民間の無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。

 いっぽう、どもり矯正所は、そこでの「訓練」よりも、同じ悩みを持った多くの仲間と人生ではじめて出会えて、こころのなかをなんのためらいもなく語り合えるという意味では「結果的にですが」大きな意味がありました。

 しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)
*いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。

 残念ながらいまでも、どもりを持つ子供や大人を取り巻く環境は大きく変わっていません。
 街なかには、どもりで悩んでいる人が日常的に気軽に通えるような・・・、
「どもりに精通した言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などがかかわり、どもることによる生きずらさをサポートするソーシャルワーカーなども関わってくれる」
言語クリニックなどは存在しません。
*たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的美通える範囲にないと、それはないのと同じことです。

 こんな環境のなかで我々吃音者ができること。
★子供の場合は、学校(小中学校)の通級教室である「ことばの教室」のサービスですが、しっかりと受けられているでしょうか?

 そこではどもりに精通した専門家の指導が継続的に受けられていているでしょうか?
 子供本人ははもちろん親御さんもしっかりとしたカウンセリングや相談が受けられる体制になっていますか? チェックしてください。

★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える自分のことを話せる友人を作ることです。
 そして、必要に応じて彼らと小グループを作りいろいろと動いてみることでいろいろと見えてくるものがあります。
 こども(小・中・高校)の場合は、セルフヘルプグループが主催するこども向けの集まり等を利用して同じ悩みを持つ友人を作ることができますし、親御さんも交流できるでしょう。

★どもりで悩んでいる自分のこころが危機に陥らないように(うつ病などのこころの病気や、不登校や引きこもりにならないように)、危機管理のために、ホームドクター的な精神科医や臨床心理士、(言語聴覚士)を見つけて日常的にカウンセリングを受け心の健康を保つことができます。

★家庭内や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ることができます。

 工夫して、少しづつで良いので良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。

どもりを持った人のいまの時期(入学・進級・就職の時期)その2

 どもりを持った人、それもある程度以上の重さのどもりをもっている場合は、新学期、入学、入社、転職後に大きな困難が伴います。
*いつも書いていることですが、どもりの重さとは、傍から見てどもっているその重さだけではありません。傍から見てほとんどどもっていないか、むしろ饒舌に見えても、名前などの特定のことばを言うときに突然、おおどもりになる場合もあり、それで仕事や学業に自分として支障がでていて自殺を考えている場合もあります。

 もっとも、それ以前に、どもりを原因として、それら(入学・進級、就職・転職)がうまくできずに、どうして良いかわからない状態(でも家族からは非難されている)か、引きこもり(がち)になっている方もそれなりの数いらっしゃると思います。私もそういう経験があります。

 ここでのキーワードが、「いまの自分に合った環境なのかどうか?」ということです。
入ったのが名門の学校か、有名会社かということではないのです。
 いまの自分のしゃべりのレベル(流暢性)が、いまの学校や職場で必要とされているそれに合っているかどうかということなのです。

 向上心のある方ほど無理をします。また、前向きな生き方を提案している文章や他のひとの考え方に影響されて、がんばればなんとかなり道が開けると考えてがんばってしまうと、無理がたたってこころが疲弊してしまい、気がついたときにはこころの病気になり追い詰められているということはよくあることです。

 どもりは言語の障害であり、原因が不明、治療法も確立されていません。

 せめて、ことばの問題の国家資格者である「言語聴覚士」、それも子供から大人までのどもりに幅広い知識と臨床経験を持つ方がいて、吃音者が住む街で日常的に通える範囲で開業しいるか、その地域の総合病院にて気軽にかかれる吃音外来をしているような状況であれば相談できるのですが、そういう状況ではありません。

 そういう前提のもとで我々ができることは、21世紀の2024年現在でも・・・私が80年代末から90年代初め頃にしていたのと同じように、
 どもりのセルフヘルプグループに参加して、いままでは誰にも打ち明けられなかったどもりの悩みを分かち合って、疲れ切ったこころをほぐし、
必要に応じて仲間内での様々な工夫で流暢性を確保する、
このような、何十年も前の過去から行われてきた「苦しまぎれの民間療法」をすることくらいです。

参考:
「吃音者が本来希望する仕事に就くために、ことばの流暢性を高める工夫をすることと、努力しても希望通りにいかないときに諦めて別の生き方見つけること(プラクティカルな見地から) その1からその4 まで」

「真面目で向上心のある吃音者がむしろ追い込まれる」

吃音:オックスフォード流吃音、サンダーバード、そして、白洲次郎(たびたび再掲載:初掲載は2011年1月7日)

 昔、予備校生の時に、英語の先生がケンブリッジだかオックスフォード卒のイギリス人でした。
 若くて背が高くて着こなしも良くて、初めて身近で定期的に接したガイジンだったためにそれなりのカルチャーショックでした。

 彼はどもりながら授業を進めていくのだけれども、それがなかなか格好いいんです。(子供の頃からどもりで悩んでいた私にはカルチャーショックでした)

 それから少し経ってから、たまたま何かの本かTVで、イギリスの教養人はすらすらしゃべるのではなくて、むしろどもりながらしゃべるのを好むらしいということを知り、またまたショックを受けました。本当だろうか?と
 オックスフォード流のどもり、らしいですね。

 それから、かなりたってから(つまり現在に近い過去)ですが、
 こどもの時に熱中した人形劇「サンダーバード」に出ていた「ブレインズ」という名前の科学者は、オリジナルの英語版で聞くと結構どもっていることを知り、これもまたカルチャーショックを受けました。

 またまたちょっとたってから、たまたま正月番組で、
 みのもんたさんかさんまさんが司会をしていた、「すごい日本人」みたいな番組で「白洲次郎」のことを知りました。(白洲次郎について書かれた書物をお読みになることをおすすめします。日本人もこんなにかっこのいい生き方ができる人がいたことを知ることになると思います。)
 白洲次郎ブームが始まるきっかけとなった番組をたまたま見たわけですが、彼が子供の頃からどもりであったことを知るとともに、GHQから「従順ならざるただひとりの日本人」と言われていて、ケンブリッジ仕込みのタフな交渉力で対等に交渉をしていくというカッコイイ逸話も知りました。(あのマッカーサー元帥さえしかりつけたという・・・)

 その白洲次郎が新憲法の起草に関わっているときにGHQの高官に出した手紙というのも印象に残っています。
 山の絵を描いて、ふもとから頂上にまっすぐに進む線と、もう一つは、ふもとから迂回しながら徐々に上っていく曲がりくねった線を引き、
Your Way(つまりアメリカ側はアメリカ的に最短距離を論理的かつ効率的に進もうとするが)、Our Way(我々日本人は遠回りして「いろいろ寄り道して」同じ頂上に達する)というような説明の手紙でした。

 どもりについても同じようなことが言えるのではないか。
 原因がわからず、従って確実な治療法がない現在、いろいろ寄り道しながら頂上を目指すしかないのではないか?
 そして、その頂上もひとつではなくて、いくつかの頂上があり選んでいけるような形にしたいものです。

 時間軸にそっていくつかどもりにまつわる話を書きましたが、
 勘違いされやすいのは、どもりは気が小さかったり神経質だからなるのではないということ、
最初に「どもり」という症状があり、結果的に神経質になったり、どもり始めた子供の頃からの家庭環境の悪さからどもりが神経症的・うつ病的な症状を呈してきたりするのですね。

 白洲次郎の話にしても、オックスフォード流のどもり(こちらはわざとどもり風にはなすらしい)の話でも、
 彼らが比較的軽いどもりだからそれが逸話になるのであって、自分の名前を言うのにもいちいち大きくどもってしまう、電話口でもただ口をパクパクさせているだけでことばが出てこないような重いどもりだったり、比較的軽いにしてもそれによりうつのような症状になりこころが傷つき毎日生きていくのが苦しいような状態ならば、それは話しが全く大きく違ってくるということです。勘違いしないようにしなくてはいけません。

 親がどもり始めた我が子へ「ゆっくりしゃべりなさい」「落ち着いてしゃべりなさい」とアドバイスしたり、どもったことばを言い直しをさせたりすることは、
どもりを持った人のこころをかえって傷つけ、そのどもりを重い固定化されたもの、メンタル的にも複雑なものへと進めてしまうような危険性があります。

どもりを持った人のいまの時期(入学・進級・就職の時期)

 今年は私が住む東京圏湾岸地域でも何年ぶりかの桜の花がしっかりとある入学・就職シーズンです。(9日の雨でだいぶ散りそうかと心配しましたが、結構、もっているようですね)

 さて、ものごごろついた頃からのどもり持ちの私は、いまの時期は良い思い出がありません。とてもつらい時期です。

 いちばんの悪い思い出は大卒後就職できず(せずに)に迎えたいまの時期です。
*「せずに」と書き加えたのは、ことばをほとんど使わない(ことばが主で仕事をしない)職種に就けば就職できたのでしょうから・・・

 言うまでもなく事務系・営業系、そして医療系・技術系の仕事においても、
その濃淡はかなりありますが、話すことでコミュニケーションをとることが仕事の大前提です。
*学校で言えば、新入学やクラス替え後の新学年は自己紹介がありますし、新しい先生にはまだ、名前を覚えてもらってもいませんし、先生は私がどもりであることも知りませんので、授業中のそれなりの配慮もありません。
結果的に自分のどもりをもろに同級生の前でさらすことになります。

いまはどもり持ちにとっては特につらい時期です。
つらさが限度を超えないように自分を守ってください。

精神科医や心療内科医、カウンセラーの利用、どもりのセルフヘルプグループの門をたたく(自分のつらさを打ち明けられる人を持つこと)
こころのつらさが極限に達する前にその仕事を辞めるのも、自分を守るために必要なことです。

卒業式のシーズンの吃音者(どもりを持つた人)は

 いま頃になると、1980年代末、大卒後も就職できずに民間のどもり矯正所に通っていた自分を思い出します。

 その時期は暗かった時期かというと実はそうでもないのです。

 なぜかというと、いままで誰にも言えなかったどもりの悩みを思う存分話し合える仲間をはじめて見つけたからです。
*私がどもりを自覚しはじめた(悩み出した)のは小学校の3年くらいです。親が言うには3歳くらいからどもり始めたようですが、学校で本をよまされたり、発表をするたびにどもるので笑われたりしているうちに3年生くらいになって悩み出したのでしょう。

 1990年代中頃くらいまでは、都内には民間のどもり矯正所(無資格のものです)が数カ所ありました。
 その多くは昭和30年代くらいからはじまったのでしょうか。
 なかには戦前からあった有名な?矯正所もあり、漫画雑誌や週刊誌に小さな広告が載っていたり電信柱に広告が貼ってあったりもしました。(なんともアナログな時代です)

 卒業の時期の3月や夏休みになると、全国から泊まりがけで都内のどもり矯正所に来る人たちがいて彼らと仲良くなったりしたものです。
 当時の民間矯正所については、いままで何回も書いてきたように、多くの問題を抱えていましたが、ひとつだけ良かったことはどもりについてなんでも話せる友が得られたことでした。
*いまでは、どもりのセルフヘルプグループがその役を果たしているのでしょう。

どもりの原点、自分の名前が言えない

 梅や早咲きの桜も満開のいまは受験シーズン

(人生に影響が出るくらいの重さの)どもりを持つ人にとっては、受験、就職、転職は大きな壁として立ちはだかるので、つらい思い出をお持ちの方も多いかと思います。(私がまさにそうです)

 さて、どもることにより、自分の名前が(うまく)言えないということは、どもりを持つ人にとっての苦しみの原点と言えるかもしれません。

 受験や就職の面接では、あたりまえですが、名前を言わなくてはなりません。

 当たり前にできることがいちばんの問題点であることはどもりを持つ当事者でないとわからないことで、(傍から見てむしろよくペラペラと話すように見える人が自分の名前を言うときになると突然口ごもったり、肩を揺らして絞り出すようにそしてつっかえながら自分の名前を言おうとしていることすらあります)

 名前すら言えないという事態に、聞き手の方はどのように反応してよいかわからず、素直に笑うか、吹き出してしまうか、困ってしまうと思います。
 緊張して口ごもっていると思い、「落ち着いてゆっくりしゃべって」と言われてしまうとこちらのどもりはまさに「絶好調」となります。

吃音の苦労によりかたくなになりすぎたこころをほぐして生きやすくしていくこと(再掲載一部改編:初掲載は2013年11月7日)

 人はどもりによる耐えがたい苦労を積み重ねれば積み重ねるほど、自分を守るために、そのこころをかたくなに閉ざしていくことがあります。

 結果として、自分の意に反したような生き方(職業の選び方、友人関係の結び方)をしてしまうこともあります。
*セルフヘルプグループなどの吃音者の集まりで、和やかに話していた方が自分のことになると突然ことばが少なくなることがあります。

 自分のこころのなかでは、不自然な(無理な)考え方・生き方とわかっていても、そのように思い、そのような生き方をしようとすることにより、こころがどもりによる苦労のために崩れてしまうのをギリギリのところで防いでいるのかもしれません。

 その形(無理をした生き方)は人により様々です。
★「私はこういう生き方なんだ」と、傍から見てどう考えても無理な(無茶な)生き方(考え方)をしようとしている方
★「私はこれでいいんだ」と、いまの不自然な生き方(ライフスタイル)を(端から見ると)無理に肯定してそこに逃げ込んでいる方

 ほんとうは良くない考え方、無理な考え方・生き方とわかっていても、そうせざるを得ないところまでこころが追い込まれているのかもしれません。

 どちらの場合も、一時的にはこころの平衡が保たれているかのような錯覚に陥りますが、中・長期的にはさらに追い込まれてしまいます。

 こんなことにならないように・・・、
例えば、
★どもりのセルフヘルプグループに参加して、いろいろな症状や重さのどもりを持ち、いろいろな環境で生きている様々な年齢層や立場の異なる吃音者と接して、自分(のどもり)を客観視できるようにすることです。
そして、そこで、何でも話せる友人(親友)を(ひとりで良いので)作るように努力しましょう。

★ホームドクターとしての精神科医・臨床心理士を見つける
ぴたりと自分に合った先生を見つけるのは難しいですが、先生に頼り切るというよりも、「自分を客観視できるように」第三者的な目を提供してもらうのに役立ちます。

★これはいちばん難しかもしれませんが、家族にも最低限の理解をしてもらえるように働きかけていきます。(しかし家族には大きな期待はしないことも自分の心を守るために必要です。)