吃音者が本来希望する仕事に就くために、ことばの流暢性を高める工夫をすることと、努力しても希望通りにいかないときに諦めて別の生き方見つけること(プラクティカルな見地から) その1からその4 まで(再掲載一部改編:初掲載は2010年5月18日)

その1**********

 今回は比較的軽い吃音者を想定して書いています。

 そもそも「比較的軽い吃音」とはどういうことか。
定義など存在しませんが、ここでは仮に・・・、
★日常会話において、基本的な意思疎通に障害が生ずるまでには至らない。
★症状に波があり、日常のコミュニケーションに支障がないくらいまで軽くなることも定期的にある。
★面接を受けたり電話をかけるときに、名前や会社名その他の決まり文句を言うときに、ことばが出るまでに数秒から数十秒かかったり、かならず激しくどもる(ことばが出てこないか、繰り返す)ほどではない、
 または、症状に大きな波があり、どもらない人に近いようなの電話応対をできることもあれば、どもりでことばが出ないこともある。

 なぜ、今回、「比較的軽い」にこだわるかというと、
 何気ない日常会話においても常に激しくどもるような重い吃音をもっているケースに同じ考え方(希望する仕事に適応するために言葉の流暢性を高める努力をする)をすることは、かえってその人のこころを追い込んでしまうと思うからです。

 こう考えること自体吃音者の差別化ととらえられてしまうかもしれませんが、それは私の本意ではありません。
 あくまでも、今回のような設定状況において「自分の本来希望する仕事にできるだけ就けるようになる」ために、プラクティカルに考えたいということで読んでいただければと思います。

 どもりを原因としてその人の人生にに起こる様々な問題は、症状や重さの違い、本人を取り巻く心理的・経済的環境(特に子供~思春期後期くらいまで)の違いにより大きく変わってくると思います。
*同じ「どもり」ということばでくくってしまって良いのか迷うほどです。

 どもりには、生活にはほとんど影響を及ぼさないようなごく軽いものから、人生を大きく変えてしまう深刻なものまであります。

 どもりを持っていても、一般的な職場でどもりを持っていない人と同じ内容の仕事ができるくらいの方もいれば、それが無理な方もいらっしゃり、その中間、つまりボーダーライン上の方もいます(私はこれに当たると思います)

 時間の経過によるどもりの重さや症状の変化も見逃せません。
 吃音の症状は、長い人生のなかでは、かなり軽くなる場合もあれば、突然のぶり返しや予期せぬ悪化も(あたりまえのように)あり、
それによって順調になっていた人生が突然、どん底に落とされるようになることもあります。

 思春期~20歳代くらいまではそれなりに重い吃音であったのが、いろいろな人生経験を経て、一般的な仕事にも影響しないくらいに改善される例もありますし、その同じ人が、ある日急にぶりかえし、いままでしていた仕事ができなくなるような場合もあります。

 学業や仕事の本来的な能力には問題はないのに・・・、
 いざ、人と話すとき(直接や電話で)や人前で発表する場面になると、いきなり躊躇したように激しくどもったり、自分の名前や会社名などの間違えようもないことばが、なかなか出てこない。
または大きくつまずくように発音するなどのいわゆる「どもる」ことや、それにまつわるストレスで、
結果的に学業や仕事、ついには日常生活まで悪影響を及ぼす(仕事や勉強に手がつかなくなる。うつ状態になり日常生活がこなせない。)ことは、結果的にその人の社会的な立場を弱くしますし、生きていくことすら困難になる場合もあります。

 世界有数の先進国である日本においては、障害を持っている方も健康で文化的な最低限の生活が保証されるように、各種訓練や治療、カウンセリングを安心して受けられるようにしなければなりません。
 持っている障害に応じて働くことができるように、公的機関が最大限のサポートをすることは、本人にとっても周りにとってもとても良いことだと思います。

 前置きが長くなりましたが、今回からは、
「比較的軽い吃音者が希望する仕事に就きたいのに、どもることがネックとなって就けないことや、就いた仕事が長続きしないことをなんとかしていきたい」というテーマで書いてみたいと思います。

 現実の仕事に適応できるように、できるだけ言葉の流暢性を高めるための方法論として、医者などの専門家の選択、カウンセリングの受け方、言語訓練の仕方、本音を言える仲間の作り方、どもりを苦労をしながらでも自分の心を安定した状態で保つ工夫などを書いてみます。
 また、最大限努力しても、どもりのために自分の希望がどうしても達成できない場合の「自分のこころの処理の仕方」についても考えます。
 今回は序論で終わらずに、何回かに分けてがんばって書いてみます。(汗)

 テーマには以下のようなことがあるのではないかと思います。
★「どもりにこだわらないこころ、考え方」と、「ときには思いっきりこだわってよい」という相反する心の動きを自分の中で認めてあげること。

★現実(どもりの重さや症状の現状と、家族の精神的・経済的バックアップ)を踏まえた上で、できるだけ自分の希望する人生を歩んでいくには?

★「社会に適応するためにいろいろと努力するという考え方生き方」を受け入れて動いていくことができるか?

★自分にとってギリギリの人生を生きていくか楽な人生を指向するか?

★こころを病まないように注意しながら生きていく方法

★仲間の大切さと、グループのなかの人間関係で傷つかないようにすること

その2**********

その1からの続きです。

 さて、生きていくために、現実の仕事に「適応」できるように、できるだけ言葉の流暢性を高めるため、心を平静に保ち病的にならないための方法論として、
★医者などの専門家の選択、カウンセリングの受け方、
★言語訓練の仕方、
★本音を言える仲間の作り方、
★どもりを苦労をしながらでも自分の心を安定した状態で保つ工夫
 などを書いてみます。

 また、最大限努力しても、どもりのために自分の希望がどうしても達成できない場合の「自分のこころの処理の仕方」についても考えます。

 まずは緊急対応の話から・・・、
 どもりを持っている状態、それも比較的軽いといっても、家庭内の会話、電話を使うとき、学校や職場での会話や、発表、会議などで少なからぬ支障があるはずです。
 また、昨日は比較的調子が良かったが、今日は朝から絶不調でおはようの「お」すら出てこない。どうしよう、なども日常茶飯事のはずです。

 そんな状況下で、どもりがネックとなって仕事上の問題が出たり、学校や職場でいじめにあったり、また、まわりに本音を言える人がいなかったりすると、ストレスが限度を超えてしまい「うつ病」などのこころの病気になってしまいます。
そうなる前に、精神科・神経科の病院にかかることをおすすめします。

 神経科・精神科のほかに、心療内科というような名前もありますが、大病院はともかく個人病院の場合は、「精神科」としてしまうと敷居が高くなってしまうので、実態は精神科でもそのように名前を付けている場合が多いようですね。
*「うつ病」が、バブル崩壊後に国民病と言われているほど一般的になり、精神科にかかるための敷居もそれほど高くはなくなってきていると思います。

 どもりで悩んだ方が思いきって精神科医にかかったとしても、先生のどもりについての知識のなさに驚くと思います。ほとんど知らないのです。

 ですから、こちらから教えてあげましょう。
 どんなに悩んでいるか、ことばではなかなか伝えられないはずですから、日常生活でどもりによりどんなふうに悩んでいるかを日記などに記録しておいて、それを読んでもらうのです。
 こころの病気の専門家という立場からできる限りのアドバイスをしてくれると思います。
*精神科・神経科はにかかるには、大学病院のような大病院にかかると診療時間が短くてゆっくり話ができないし、また、街なかの個人病院の場合には先生と患者が合わなくても先生を替えることができません。
 理想は、中規模の病院で、精神科医が複数いて自分と合わなかったら替えられることと、医師の下に臨床心理士がいてたっぷりと時間をかけてカウンセリングしてくれることです。いまはインターネットでも病院情報はとれますので、良い医者選びをしてください。
 先生を替えてばかりもいけませんが、自分とは合わないな、とか、信用できないな、と感じたら、早めに先生や病院を替える決断も必要です。

その3**********

 今回は、
「相変わらずどもりの原因はわからず、確実な治療法やリハビリテーション法も分かっていない今でできることは、できるだけ管理された(心理的、経済的なバックアップがある)環境で自分で工夫しながら無理をすることかもしれない」
 というテーマで書きます。

 これを書く背景は、私が認識できる昭和40年代後半くらいから「いま」に至るまでの半世紀くらいの長い間、悩んでいる吃音者(児)が日常的に相談する公的な機関が事実上ないという状態が続いているからです。

 子供から大人までのどもりについての学識と豊富な臨床経験を有する言語聴覚士と臨床心理士、その背後にはスーパーバイザーとしての精神科医や言語障害の専門家などを擁するチームがいて、全国どこにいても同じような治療や相談が受けられるというユニバーサルサービスがあるのならばそれなりの効果も望めるでしょうが、現状ではそれは夢の世界の話です。

 そのような状況が続いていることが、吃音者が自助するしかないというセルフヘルプグループができる要因のひとつとなったり、いつまでも、民間の無資格どもり矯正所(のようなもの)がなくならない要因ではないでしょうか。

 「無理をしないで今のままで淡々と生きるという生き方・考え方」もありますが、現実には、コミュニケーションの手段である「ことば」にそれなりの障害を持つことが、日常生活、学業、仕事に与える影響、吃音者自身のこころに与える重圧は計り知れないものがあります。

 また、どもりながら生きることが「無理をしない生き方」かというと、私には??です。
*しかし、ここでも、どもりの重さの違いの問題が決定的に関わってきます。苦手なことばを言い換えれば対応できるくらいの軽いどもりの場合と、日常生活や仕事などに明らかに大きな影響が出るどもりの場合は、考え方が全く違ってきて当たり前です。

「管理された環境で無理」をしてどうするのか?
ズバリ、生きていくために(大人の場合は自分で稼いで生きていくために)、自分が生きている環境(生きていきたい環境)に最大限適応することです。

 自分にはやりたいことがある、就きたい仕事がある。
 小さな頃からどもりに苦しみながらも目指すものがあり、学業をがんばりそれなりの成績を上げ目標に進んで行く。
どもることがその将来の目標にどれくらい悪影響を及ぼすかは棚上げして進んで行く。

 子供の頃~思春期後期くらいまでの身体も心も若い頃には、いろいろな面での無理がきく時期でもありますから、がんばりもきくかもしれません。
*どもっているという現実を棚上げして、どもらない(治った)将来に照準を合わせて人生設計をすることの危険性は「自己不一致」ということで何回も書いていますが、そのリスクを抱えながらということになり、そうならないようにするためにも、管理された(バックアップのある)環境が必要です。

 さて、吃音者にとっての人生の一大事「就職」
 就職は吃音者でなくても一大事ですが、どもり持ちにとっては、実はそのまえに学生は当たり前のようにする「アルバイト」という難関があります。

 アルバイトの応募の電話です。
*ネットでの応募の場合でも、会えば言葉を交わします。

 家庭教師をするにしても、接客業をするにしても、求人誌を見て問い合わせの電話をする場合、ネットで応募をしていざ会社に行ってみたら受付に電話機が置いてあって自分の名前を言って担当者を呼ばなければならない場合など・・・関門だらけです。

 電話や人前で自分の名前が言えない。なかなか出てこない。
 受話器を持ってもひと言も出てこない、やっと出てきてもどもりながらではまず採用されないでしょう。(ことばを使わない現場系のバイトなら別ですが)

 私は、学生時代、初めてのバイトの応募に行くときは応募先にアポなし訪問したものです。「近くに用事がありましたので失礼を承知で直接来ました」と
もちろんしゃべることがメインでない現場での作業の仕事への応募でした。

 このような時のために、失敗したときにへこんだ心を聞いてくれる精神科医や臨床心理士がいる環境を自分で作ることです。
 そして、その先生方は大概どもりについての知識はほとんどありませんから、こちらから教えてあげることです。少しずつ吃音のプロになってもらうべくこちらで先生を育てるのです。

 家庭内でも、自分がどもりで悩んでいることをアピールしましょう。
電話ができないことを見せてあげましょう。

 家族の前でおおどもりをしながら電話をしていれば、どんなに鈍感な家族でも何かを感じるでしょうし、それでもだめならば泣きわめいても良いし、「もう死んでしまいたい」とうつむきながら家を出て、しばらく近所を散歩してから家に帰るくらいの芝居は必要ですね。

 電話が苦手ならば、どもりながらの電話練習をさせてくれる友人を複数確保することです。
 最初は友人の携帯にかけるのも良いのですが、やはり家族が出るかもしてない家の電話にかけるのが練習になります。
友人の家族にはあらかじめ事情を説明し協力を求めます。そういう友人関係を作る努力も必要となってきます。

管理された環境で徐々に無理をしていくということを今回は書きました。

その4**********

「がんばってもできないことがある」ということは、人生をある程度生きてくれば、誰でもいくらでも体験することです。

 その仕事につくには、絶対的に能力が不足している。
 能力もかなりあり努力もしたが、その仕事の定員は少なく基準に達しなかった。
能力もあるが、会社側の意向に合わせることができない。いろいろなことがあり得るでしょう。

 しかし、吃音を持っている人の場合はちょっと違います。
 どもることで、自分の努力の外側にある原因で、何かをあきらめなければいけないということを子供の頃より連続的に経験する(させられる)からです。

 (重さの違いにより事情は大きく異なりますが)子供の頃からのどもりによる苦労の連続により、その子本来の良い部分や向上心が削がれて、心が腐ってしまうことも現実には多くあり、私もそういう場面や友人多く見てきました。

 平成の時代に入って、というよりも21世紀に入ってしばらくたったいまの日本でも、残念ながら未だに昭和的な「あきらめの効用」に頼らざるを得ない現状があります。

 子供の頃からどもりで苦労してその苦労の結果「良い意味でのあきらめ」「諦観」に達したから、どもりながらでも自分の人生をそれなりに生きていけるようになったり、また(あくまでも結果としてですが)どもりが改善され企業等で活躍できるようになる、というようなあり方や考え方に頼るしかないのです。
*2006年12月の書き込みにありますが、当時放映されていた「五木寛之の百事巡礼」のなかで、あきらめるとは仏教用語で「明らかにきわめる」ということということから、私の「あきらめ」について書いています。

 子供の頃からどもりによる人には言えないような苦労をして、それでもなんとかしぶとく生き残って、その末に得られた境地「良い意味での諦め」により、余計な肩の力が抜けてそれなりの人生を歩み始める、という「リ・スタート」

 しかし、そろそろ、こういうやり方に頼るのではなくて、
 子供の頃(どもりはじめ)から、吃音に対する豊富な知識と臨床経験のあるSTが街中にいて、臨床心理士や精神科医とチームを組んで継続的に看てくれるという形にしていきましょう。
 日本は先進国なのですから、これくらいのことは当たり前にしていきたいものです。
*保険適用の有料でも良いと思いますので、子供が街なかにある歯科医院に気軽に通うように、子供だけで日常的に通えるところにきちんとした言語クリニックが必要です。これくらいのことを実現することは、たいしたことではないはずです。

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