吃音で悩んでいる人が「悪者」になる現実(たびたび再掲載:初掲載は2013年5月23日)

 このブログには簡単な閲覧状況の解析ツールがついています。
 1日の閲覧数やどんなキーワードでここに来たかがわかるくらいの簡単なものですが、「どもり 親 怒る」という検索ワードで見に来てくれた例がありました。

 吃音者の私はすぐピンときます。
「どもりくらいで〇〇ができないなんて甘い」
「世の中にはもっと厳し環境で生きている人がいる」

 もしかしたらこんな言葉を親から投げかけられたのでしょうか。
*さらに程度が悪い親の場合(場合によっては学校の先生も=私が経験しました)は、どもっている我が子をからかってみたり怒る場合もあります。

 どもりは障害です。しかも医学的に原因が分かっていないので、根治療法(投薬、手術)はもちろん確実なリハビリテーション法もありません。

 言えて当たり前の自分の名前がなかなか出てこなかったりします。
 例えば「エート、エート、エート、エート・・・すすすずきでですっ」という感じです。
*それでも、ある程度の時間で言えれば良い方ではないでしょうか?

 家族から、我が子が・兄弟が・孫が「どもらない」か「ごく軽いどもり」見られてしまうのは、どもりそうなことばを避けているか(比較的軽い場合)、最低限のことしか話さないからです。
*家族の前では、どもりそうな「名前や会社名」は言う必要はありませんね。

 家庭内での日常会話レベルではわからないないような軽いどもりの(に見える)場合でも、いざ学校や職場に行くと一転、「ある程度以上の重さのどもりを持つ吃音者」となる場合もいくらでもあります。
 仕事の電話や顧客との面と向かっての交渉において、自分の名前や会社名を言い出すまでしばらく時間がかかったり要件を伝えるのに必要以上に時間がかかり、それもどもりどもりということになれば、仕事にもはっきりと支障が出るでしょう。
*会社にも居づらくなってきます。

 学校で先生から指名されるたびに、どもりながらか、最初のことばがなかなか出てこないような状況ならば、本人のこころが追い込まれることはもちろん、陰湿なからかいやいじめに会うこともまれではないでしょう。
 どもっている本人の心はいたたまれません。
*「どもりのために仕事で失敗をする」「どもりを職場で同僚・上司・顧客から指摘される、笑われる」「家庭でもどもりのことで怒られる」、こんなことが重なるとついにはうつ状態からうつ病となり自殺を考えることにもなります。

 もしもいま、こんな状況に置かれているのなら・・・、いや、追い込まれる前に、
★セルフヘルプグループなどに参加してどもりのことを遠慮なく話せる友人を作り、
★心やことばの危機管理をしてもらえるホームドクターとしての精神科医や臨床心理士、言語聴覚士をさがし、
★吃音にまつわる、家庭の問題、学校の問題、職場での問題(過度ないじめ・からかい、パワハラなど)があるならば、その解決を手伝ってくれるソーシャルワーカー、弁護士などを見つけましょう。
*職場でのトラブルなら「労働基準監督署」「弁護士会」「法テラス」、心の問題でどこに相談して良いか迷ったら各県の「精神衛生センター」の利用も考えましょう。あ

 自分をこれ以上追い込まないように(追い込まれないように)してください。
あなたが悪いのではなくて、ことばの障害で苦しんでいるのですから・・・

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「どもりから逃げている」「どもりながらも社会のなかで生きている人がいる」という言葉は、時として吃音者のこころを奈落の底に落とし苦しめる

 「どもり」や「吃音者」についてよく言われること、昔から言われてきたこと・・・、
 どもりを持ちながらでも学校に通ったり仕事をしたりして生きている人がいる一方、
(それほど重い吃音ではないのに)そればかり気にして仕事をしたり学校に通ったりできない人がいる・・・ という考え方、見方

 このブログには数こそ少ないのですが、吃音者の生の声が寄せられます。
*どもりの苦しみを語る友がいない家族の理解が得られない方々が、意を決して書き込んでくれたものもあります。このブログの宝です。

 このブログは、まさにブログが載っているページと、管理人自己紹介の2ページ構成になっているのですが、「管理人自己紹介」のページにも別立てでコメントが表示されています。
「管理人自己紹介」のコメントにはより生々しいというか、どもりを持つ人の苦悩が鮮明に出ているような気がします。

 それらのコメントをあらためて読んでみましたが、どもりを抱えながらも真摯に生きている様子がうかがえるコメントがほとんどです。
 評論家でもない、大学教授でも芸術家でもない普通の「どもりを持つ人」が、一生懸命に毎日の仕事や学業に取り組もうとしているが、どうしてもどもりであることでそれがうまくできない、または全くできない・・・、人生につまずいて追い詰められる、自殺まで考える。

 そのような人たちの「どうしようもない苦しさ」「ツメで曇りガラスをひっかくような苦しさ」が表現されています。

 「吃音者が生きやすくなる社会へ世の中を変えないといけない」とか、「多様性を認める社会へ・・・」などの言葉はもっともで間違っていませんが、我々は評論家ではいけないのです。傍観者でもいけないのです。
 現実を直視しない吃音論はかえって吃音者を苦しめます。

吃音を持った子供さん、まずは疲れを取りこころをほぐしてあげることです(たびたび再掲載:初掲載は2013年1月17日)

 子供の頃からどもりによる様々な苦労を重ねていると、つとめて前向きを指向している人のこころも次第に疲れてきがちです。
 ついには疲れ果て、心の張りが失われて否定的な感情ばかりが出てきてしまいます。

 どもりだした小さな子供の頃から、思春期を経て就職くらいまでの家庭環境が劣悪ならば、学校などの外の世界での(どもることによる)様々な出来事やこころの疲れを家に帰ってからも癒やすことができません。
 場合によっては家の中でもさらにこころの緊張感を高めることとなり、遂にはうつ病などのこころの病気さえなってしまいます。
*朝起きてから夜寝るまで(場合によっては夢の中まで)どもりによる苦労を続けることは、まだ確立していない自我に与える悪影響は計り知れません。

 どもりの子供のいる家庭でできること、すべきことは・・・、
まずは「安心でき、落ち着ける環境」を作ることです。甘やかす必要などありません。むしろ質実剛健が良いと思います。
 ただ、温かい家庭が必要です。子供が安心して自由にどもれる環境といえば良いのでしょうか。
*学校での授業中に、また、友達と接するときにどもったこと(場合によっては笑われたことなど)を、子供の方から親兄弟に笑いながら(時には泣きながら)話せるような雰囲気が家庭内にあれば良いのですが、現実は真逆な場合がほとんどです。多くの場合、家庭はどもりの悩みを話せるような雰囲気ではありません。

 どもりについて具体的にアプローチしていくのはその次の段階なのではないでしょうか。

 日本では20年ほど前にやっと言語聴覚士という国家資格ができたところです。
 その資格にしても、吃音専門のものではなく、どちらかと言えば大病院やリハビリ専門病院のリハビリチームのスタッフとして、脳梗塞後のサポートや、嚥下障害のサポートにあたるというところが現実なようです。
 吃音については養成する学校(専門学校、大学)の授業でも、国家試験においても、多くの時間を割かないようです。

 こんな状況ですから、日本においては、虫歯になった子供が街なかの歯医者にかかるように、どもりに精通している言語聴覚士が開業しているクリニックに気軽に通えるなどという環境はありません。夢の世界です。

 現在では、インターネットを使えば国内外のどもりに関する情報が取れるようになりました。
 しかしその情報は玉石混淆ですから(ほとんどがインチキ情報と思った方が良いでしょう)、親御さんは、(研究者、病院に勤務する言語聴覚士、どもりのセルフヘルプグループなど)、何人も何カ所も渡り歩いて調べるくらいの熱心さと覚悟を持って、お子さんに合った相談機関や専門家を探してほしいと思います。

*お子さんが学校の「ことばの教室」に通っている場合も、学校任せにせずに自分でそのクォリティ(先生の資質、子供の満足度)をチェックしてください。

*どもりの原因は医学的に解明されていません。日本にも、ごく少数ですが、少ない研究費で恵まれない環境下でも頑張っている研究者がいますが、考え方はまちまちです。そのことを知ったうえで「専門家」に接するべきです。

*どもりの人の集まりである「どもりのセルフヘルプグループ」が主宰する相談会や行事(キャンプなど)に参加してみるのも良いことだと思います。「どもりを持ちながら生きていくということはどういうことなのか」ということが分かります。そしてそこで、同じくらいの年齢のどもりを持ったお友達がみつかれば本人にとってどれほどこころが救われるでしょうか。親御さんどうしの交流もとても良いことです。

 どもりを持っているお子さんは表面的にはいくら明るく振る舞っていても、こころの中では悩んでいます。(学校では陰湿ないじめにあっているかもしれません。)
もしかしたらその小さなこころで自殺さえ意識しているかもしれません。

*決してオーバーな話などと思わないでください。お子さんのどもりを真剣に考えて冷静に対処してください。そして、お子さんと接するときには穏やかに・・・

 まずは温かい家庭をつくること、そのうえで具体的な対処が必要と思います。

大きく悩む吃音者の背後に見え隠れする「機能不全家族」 (定期的に再掲載一部改編:初掲載は2008年1月27日)

 ネット上で「私がどもりになったのは劣悪な家庭環境で育ったからだ!」というような文章を目にしたり、かつて参加した吃音者の集まりでも、それに類する意見を聞くことがありました。
*近頃は どもりになる原因(どもり始める原因)は、人間の発達途上での中枢神経系の何らかのトラブルらしいということが言われています。
以前書きました(2013年2月20日)、アメリカが国家プロジェクトとして行なう「脳活動マップ計画」という10年がかりの巨大プロジェクトにより、どもりの原因に一歩迫れるかもしれません。

 そうはいっても、何かのきっかけで始まったどもりが、うつ病などのこころの病気を併発したり、また、不登校や引きこもりになるなどの深刻なものに推移していくかどうかは、幼少期から思春期くらいまでの家庭環境や学校環境に大きく左右されることは間違いないでしょう。
*「個人の気持ちの持ちよう」も大きな要素ですが、子供のころの環境は、子供自身の努力の枠を超えています。

 さて、最近、「機能不全家族」という言葉がよく使われるようになってきました。*心理学にも「家族心理学」という分野ができています。

 よく言われる「アダルトチルドレン」を生み出すような家庭が「機能不全家族」ということになるのでしょう。

 親が酒を飲んで暴れる、毎日のように夫婦喧嘩を繰り返している、必要以上の権威主義、家族間の無関心、過剰なまでの親の子供への介入など・・・、

 もちろん、我が子のどもりについての「無関心」、「どもる度に怒る」、「どもる度に言い直しをさせる、ゆっくり言いなさいと神経質に注意する」などもその類ですね。

 近所からみると「立派な両親が揃っていて、豪華な家もあり・・・」、
 でも、「なんでも揃っているが、何もない空っぽの家庭・・・」というセリフが出てきそうな家族や家族関係のことです。
 近所から見ても、明らかに異常な家庭もいくらでもあるでしょう。

 どもりをもった子供に接するときは、その背景、特に「家庭環境はどうか。親は協力的か」、「学校でのいじめはないか。先生は協力的か」などをきちんと調べていかないと、へんなアドバイスをしてしまう可能性があります。

*最近もありましたが、自分の子供を殺す事件が起きたときに「自治体の児童相談所」の無作為が報道されます。テレビでは、役所側の責任逃れのような会見が報じられ、「これじゃ防げないよね」と思ってしまいます。スタッフの量と質が足りていないことが原因かと思っていましたが、自分のところだけで解決してしようとする?のか、警察と協働したがらないという考えられないような動きをしている児童相談所の体質があることに驚いて(あきれて)しまいます。体制を大幅に強化して、警察と密接に連絡を取り合い、問題のある家庭には早期に強力に介入できるようにしなければなりません。

吃音と自殺願望(絶望を超えて生きるということ)(定期的に再掲載:初掲載は2008年8月6日)

 年度や季節の変わり目に掲載することが多いこの書き込み。
 しかし、どもりのために学校や職場に行けなくなり引きこもっている、引きこもりまでには至っていなくてもどもりのためにギリギリのところまで追い詰められている方にとっては、生きている時間24時間が常に苦しい苦しい時間です。

 いまは障害のない人でさえ生きていくのが困難な時代です。
 どもりを原因として学業や仕事がうまくいかなくなり、また、学校や職場でいじめを受けて引きこもりになったり、学校や会社に行けなくなる方も少数ではないと思います。

 障害のない新卒の人にとってもかなり難関の正社員への就職は、どもりを持っている人(とくに日常会話や電話に明らかな支障が出るような人)にとっては、くじけてしまいそうなほど大きな壁となります。
 こんなときには、「自分の人生はこの先何の望みもないのではないか」と絶望的な気持ちになることもあるでしょう。
 そのような気持ちの行き着く先はうつ病であり「自殺」を考えることです。

 自分で「なんとかなる」と楽観的に考えたり、友人や家族が元気づけることも必要ですが、根拠(これからの見通し)のない楽観はかえって不安を招きます。
 いろいろと工夫して自分を守りながら少しずつがんばっていきましょう。

 どもりを持っている人と仲良くなり食事をしたり飲んだりすると、
「過去に自殺しようと思った、または、実際に自殺未遂をした」という方がそれなりの数いらっしゃるのです。
 これは私にとっては不思議なことでもなんでもなく、すんなりと受け入れられる話でした。なぜならば、私もそうだったからです。

 思春期の子供にとって、どもって授業中に答えられない、うまく話せない、教科書が読めない、友達に電話ができないなどのことが日常的に起こると、生きていくの がつらくなるほどの感情を持ちます。
*現在では、陰湿ないじめの対象にされているケースもかなりあるのではないかと思います。

 しかし、「どもりは恥ずかしい」「かっこの悪い」と文章にしたとしても、第3者からみて、それほどでもないような印象を持たれがちです。
 また、「多少のどもりを気にして何かができないなどというのは甘えではないか」と思われることも多いようです。(家族も含めて)

 「かっこわるい」「恥ずかしい」と思う子供のころから刷り込まれてしまった感情は、「明日からはそう思うのはやめよう!」として簡単にやめられるものではなく、どもりの症状そのものと相まって人生を苦しいものにしています。

 ひとつの方法として各種の心理療法(日本発のもの、欧米のもの)があります。私も専門家(精神科医・臨床心理士)のもとに行いましたが、毎週のように指導を受けながら継続的に長期間行うという環境でも、いわゆる「効き目」は、こと、どもりに関しては、ありませんでした。
 ましてや1回や2回、専門家の講演会 を聞いたり本を読んだりするくらいでは、一時的に気持ちが楽になるかもしれませんがそれ以上のものはありません。
 興味を持って行ってみようという方は、民間療法ではなくて、(精神科医、臨床心理士、または専門に研究している大学教授など)の指導のもとに長期間継続的に行って行く必要があるでしょう。

 現在、メール、ブログ、SNSなど、ITによるコミュニケーションが発達したわりには、学校などの教育現場では今まで以上に「自分の意見をまとめて人の前で上手に発表すること」の重要性が語られています。
 背景には、産業界からの「話し言葉によるコミュニケーションスキルの向上」が求められている事情があるのでしょう。

 その結果として、多くの学校で、プレゼンテーションのまねごとなどが行なわれています。
*実際にプレゼンテーションの教育に携わってみると、教わる生徒よりも、むしろ、教える側の先生のプレゼンテーションの下手さにあきれてしまいます。

 そのような、「話すことを重視する」環境下で、学校に通っている、どもりを持っている少年少女は、今まで以上に生きづらさを感じているかもしれません。

 かつては、学校が終われば大都市圏内でもどこかに空き地があり、カバンを投げ捨てて野球をしたり鬼ごっこをしたりなどのアウトドアでの遊びがありました。
言葉も使いましたが、同じくらい体も使って遊んだものです。
 しかし、いまは限りなくインドア。外でスポーツをする場合でも誰かに管理されていますね。「おおらかさ」が日常からなくなっています。

 人間はいろいろなことで、とことんまで追い込まれてくると、最終的には「死」を思います。
*最近は他人を巻き添えにしようとする人も増えてきました。

 どもりの場合でも、ある程度以上の重いどもりを持ちながら、まわりの環境(家庭環境、学校・職場環境)が本人にとって厳しいものならば、次第に心理的に追い詰められてきて「うつ状態」になり、「自殺」を考えることもまれではないでしょう。

 また、明らかにどもりによるものと思われる失敗、学校や仕事上の日常的な失敗から、就職の面接、進学の面接などの人生の節目における大きな失敗が重なってくると、人が生きていくための「心のリソース」が欠乏してしまいます。
 そして、うつ状態になり、突発的に自殺を試みる場合も出てきます。

 私の場合は、とことんまで精神的に追い詰められて、死にそこなって、そこで、「目覚めた」。「絶望することで目覚めた」という、なんとも危険な経験をしています。
 もちろん、こんなことは絶対にお勧めしません。

 なぜならば、自殺の悪いところは、死んだ自分よりもまわりの人々(家族・友人・同僚)に長く続く精神的な苦痛を与えるところだからです。
 自殺を考えるときは、自分ひとりで心が迷走しています。
普段は決して行かない細い道にあてもなくどんどん進んでしまっています。

 そのような状態からは自分だけではなかなか抜け出せませんから、家族や友人のサポートが必要なことはもちろん、そうなる前に精神科医やカウンセラーに相談することが必要です。日本でも精神科医にかかることの敷居が低くなってきたので、躊躇しないで病院に行ってください。
*初期のパニックから脱して少し落ち着いたら、是非どもりのセルフヘルプグループに参加してみてください

 

吃音:親を恨むこころは・・・(たびたび再掲載、一部改編:初掲載は2013年6月20日)

 子供の頃から親にも理解されずにひとりでどもりに悩んでいた私は、高校のころになると、いま思うと、明らかにうつ病の症状でした。
 その後大卒後も就職できず(せずに)に、いままでの無理がたたったのか急に力が抜けたように約2年間引きこもりました。

 その後、少し元気が出始めたころ、なんとか通うことができた民間のどもり矯正所において、はじめて、どもりという同じ悩みを持つ友を持つことができました。

 人生ではじめて、家族にも友達にも話すことのできなかった「どもりの悩み」を心ゆくまで話し合えるようになったときの開放感は、ことばでは表現できるものではありません。
自分のこころのなかには、どもりに対する想いがこんなに多く詰まっていたのかと驚いたものです。

 また、こどもの頃からどもりに関する想いを無理やり自分のこころのなかに押し込んできたことが、自分のこころとからだに大きな悪影響を与えてきたことをあらためて実感し、確信し、これからも影響を与え続けるだろうことを予感しました。
*10年ほど前に吃音者の会合で、50歳代の女性(客観的に見るとかなり軽い吃音)が、人生ではじめて自分のどもりについて話せた!と号泣していたことを思い出します。

 その中のひとつが、「こどもの頃からこころのなかに押し込んできた想い」
・・・「親に対する根深い恨み」でした。

どもりの悩みは人それぞれですが、いろいろな吃音者に接するうちに、それなりの割合で「親に対する恨みの感情を持っている人」に会いました。

★こどもの頃、どもることで学校でも笑われたり、からかわれたり、いじめられたりしていたのに、そして、それを親に訴えたのに相手にされなかった

★それどころか「どもりくらいたいしたことはない、もっと苦労している人はたくさんいる」と説教をされてしまった。

 「家族にすら理解されずに苦しみのなかで生きてきた話し」を仲間から聞きました。なかには話しながら泣き出してしまう方もいらっしゃいました。
こどもの頃からいままで、自分のこころのなかだけで持っていて誰にも言えなかった感情が、共感して聞いてくれる人の前で話すことによりあふれ出てしまったのでしょう。
*このブログにも、子供の頃からのどもりを理解してくれなかった(むしろ厳しい意見を言ってきた)親に対する根深い恨みを訴える、40歳代~50歳代の方のコメントがいくつか寄せられています。(極めて個人的な内容なのでほとんどが非公開で直接メールでのやりとりとしています。

 少し冷静になって背景を考えてみます。
★親はどもりのことが分からない?
 こどもの多くは、自分のどもりを知られたくないので、家庭のなかでさえも極力隠そうとします。
 特に、言いにくいことばは言わないようにします。会話も最低限のものにします。
ことばの調子の良いときにだけ話すようにすれば、親からは「だいぶ軽くなったね、良かったね!」などと頭をなでられるかもしれません。

 しかし、これでは親は、自分の子供がどもりで悩んでいることをしっかりと把握できません。
*学校でいじめられているにもかかわらず、家ではそのそぶりさえ見せないで、ある日突然自殺してしまうことに似ているかもしれません。

 ここで考えなければいけないこと・・・
★世の中にはどもりに対する正確な情報がほとんどないし(ネット上、世間話ともに)、どもりのことで気軽に相談に行けるこころやことばの専門家のいる公的な専門機関も(ほとんど)ない。

 これが致命的かも知れません。
 せめて、住んでいる街のなかに(日常的に気軽に通える範囲に)、一カ所でも良いから吃音に関心を持って取り組んでいる臨床心理士、言語聴覚士などがいる施設があれば、状況はだいぶ変わってくるはずです。
*学校の通級教室である「言葉の教室」も、その量・質ともに問題がかなり多いようです。

 親を憎んでいる場合はどうすれば良いか?
★同じどもりを持つ友人(親友)を、ひとりで良いので作り、いままでのことなどを打ち明けることにより、こころの中にある負荷を下げていく。

★どもりのセルフヘルプグループの会合に参加して、いろいろな立場(性別、年齢、育った環境の違いなど)の吃音者に接することにより、自分を俯瞰できるようにする。

★自分の「いま」や「これから」を充実していくことにより、過去にとらわれない(とらわれにくい)ような状況に自分を持っていく。(生き直し)

 なんと言っても、自分のことをこぼせる信頼できる友人を(ひとりで良いので)作ることが第一だと思います。
*なんでも話せるホームドクターとしての精神科医や臨床心理士を持つことも良いことです。(どもりで極度に悩んでいてどうにかなってしまいそう、でも、相談相手は誰もいないという場合には、まずはこちらにかかり、少し落ち着いてからどもりのセルフヘルプグループに参加して仲間を作ることが良いと思います。)

 

吃音の研究や臨床の現状(医学的な研究の進歩状況、公的なサポートの仕組みと問題点など)をありのままに伝えて、あとは個人の選択に任せる(再掲載一部改編:初掲載は2010年10月15日)

 小さな子供から大人まで、吃音者は実に様々です。
 子供といっても、幼稚園、小学校、中学校、高校・・・と成長するにしたがって、友人関係、クラブ活動、授業内容などの本人を囲む環境は大きく変わります。
 さらに、受験を控えているとそれだけでもストレスがあるのに、そのうえにどもりの悩みがプラスされる訳です。

 心と体が成長していく大事な時期に、(ある程度以上の重さの)どもりで大きく悩んだり苦しんだりすることは、いまと将来の人生に直接的・間接的な大きな悪影響を与えることは間違いありません。
*どもりの苦しみとは、客観的に見た重さだけで計れるものではありません。傍から見てごく軽いどもりでも、その人は自殺を考えるほどに追い込まれていることもまれではありません。

 どもりを持つ子供に接する親やどもりを持つ子供をサポートする各種専門家側には、どのような心構えが必要でしょうか?
★まずは、本人の「いま悩んでいること・素直な想い」を、ひたすら傾聴することではないでしょうか。

 大人が(たとえ同じ吃音者でも専門家でも)相談に乗るときに気をつけなければいけないことは「決めつけないこと」です。
どもりを持った先輩の「どもりを持ちながら生きてきていろいろ経験したことを伝えたい」という気持ち、吃音者をサポートする側の「自分の専門領域から役に立つアドバイスをしたい」という気持ちはよくわかりますが、吃音の原因もわからない(したがって確実な治療法もない)現在、それはひとりの吃音者としての経験や、ある領域の専門家としてのひとつの意見でしかありません。
*吃音者の強力なサポート役になるはずの専門家、例えば言語聴覚士ですが、残念ながら、どもりについては言語聴覚士の教育や臨床実習においても割かれる時間や内容はお寒い現実のようです。(特に思春期以降の対応)

 ここ10年~20年の社会環境(学校・仕事・就職)の変わり方には革命的なものがあり、結果として吃音者を取り囲む環境(家庭、学校、就職、職場)も大きく変わっていますので、吃音者の過去の経験が役に立ちにくくなっています。
 吃音(経験者)の大人が、「自分が経験してきてそれなりに高めてきたと考えているどもりに対する想い(哲学?)」は、自分の時代や自分のケースでしかないと考えるべきです。
「どもりの経験とそれから派生する問題は受け継がれない」と考えておくべきでしょう。

 なぜならば、医学的な治療法・対処法がない(投薬・手術・効果的なリハビリ)確立していない現在において・・・、
「どもりに対する想い、哲学」はそれ自体では「治療法」にはならず、あくまでもどもりを持つ個人が生きていく上での指針であり、
「それぞれの吃音者が人生のなかで、どもりをどのように位置づけて、試行錯誤しながら自分なりの人生を生きていくか」ということだからです。

 それにより、「結果としてどもりが軽くなったり、ほとんど治ったと同じようになった」としても、それは、あくまでも「結果」なのです。
 その過程を無理に類型化して、どもりを持っている子供にチャートを示すように導こうとしても、子供の自然な気持ち・自由な想いを妨げてしまうだけに終わるかもしれません。

 子供は大人には逆らえませんから=特にどもりで悩んでいる子供は、「自分は大人の意見とは違う」と心のなかでは思っていても、ほとんどの場合、意見することはできないでしょう。
または、意見することをあきらめてしまい、「わかった振り」、をするかもしれません。

 今の時点で、どもりは医学的にどこまでわかっていて、どこがわかっていないか。
日本ではどんな体制(病院、他の専門施設など)で子供やおとなのどもりに対応しているか、どこに問題点があるか。
 どもりに対する確実な医学的治療法(投薬、手術)がなく、また、確立されたリハビリテーション方法もない現在、無資格民間療法を含めてどんな対処、サポート方法があるかをすべて開示して、あとは、個人の選択に任せる。
*小中学生くらいまでの子供の場合には、家族を含めての、より丁寧な説明とカウンセリングなどによるサポートが必要です。

 今後のあるべき姿ですが、どもりを持った子供が悩んだり問題にぶつかったりしたときに、学校の帰りや休日に、歯医者さんにかかるような気軽さで相談に行ける街なかの言語クリニックなどを置くことです。また、学校でいじめに遭ったときには的確にサポートしてくれるソーシャルワーカーが必要です。

*アメリカなどではあたりまえのように行なわれているようですが、ひとりの言語聴覚士や一カ所の言語クリニック、ひとつの学校のことばの教室で問題を抱え込まずに、精神科医、臨床心理士、大学などの研究者などにスーパーバイザーとしてサポートしてもらうようなチームとしての体制を構築する必要があります。(どもりに精通《特に思春期以降》している言語聴覚士、精神科医、臨床心理士は少数派のようですから)

吃音が原因で、現実に「生きることに困っている人」のことを考える(再掲載一部改編:初掲載は2009年7月3日)

 どもることが原因で、いま、
「学校に通えなくなっている方(不登校・ひきこもり)」、
「働けなくなっている方(出社できない)(就職できない)」
 のことを基準にしてどもりの問題を考えることは・・・、
ごく軽い吃音者や、いまはかなり改善された(一時的な可能性があります)方からすると、ついつい忘れがちなのですが、実はそれが「基本」なのです。

 いまは何とかなってはいるが・・・、
 かつては、なかなか就職できなかったり学校に通えなくなった経験をお持ちの吃音者は大勢います。
*しかし、「治っていた・軽くなっていた」と思っていたどもりが、いつ、また悪くなるか予測がつかないのがどもりの特徴です。どもりの悪化により、またそれに付随して学校でいじめに遭ったり職場でパワハラにあうことにより、いまできている仕事ができなくなったり、通えている学校に通えなくなることが現実にあり得るのです。

 それは、「労働問題として障害を理由に解雇するのは・・・」という次元の問題ではなくて、
職場でどもりを原因として「通用していない」苦しみを自分として感じていることと、
たとえ「まわりがいろいろと配慮してくれる」という幸運な環境にいたとしても、自分の心の中にある「やりきれなさ」でもあります。

 そういうときに、「どもりを気にしない」「どもっているままで生きていく」という考え方の「無力さ」を痛感させられますが、
それでもあえて心の中にそのような考え方を持つことの必要性とともに、
吃音者が、家庭で、学校や職場で、地域社会で、「自身の心の中に持っている自己矛盾」を抱えながらどう生きていくか、
また、サポートする側はどうすれば良いかという「吃音問題」に真摯に取組んでいく必要があります。

普通に生きるのがつらい吃音者の苦悩(再掲載一部改編:初掲載は2007年9月28日)

 どもる人には、日々の生活のなかでことばを使ううえでの、さまざまな耐えがたい不都合があります。
 だからこそ辛い「障害」だし、人によっては人生そのものがつらい(生きるのがつらくいっそ死んだほうが楽だ)のです。
*いつも書いているように、どもりには軽いどもりと重いどもりがあり、この違いによる人生に与える悪影響の差には天と地の開きがあります。
また、第三者から見て軽く見えるどもりが、本人にとっても「軽いどもり」であるとは限らず、自殺を考えるほど追い込まれている場合もまれではないのです。

 「努力した末に就職し活躍している」という比較的軽いどもりの人が、どもりの人が集まる会合などで自分の経験を話すときには、たいていは自分のどもりは実際よりは重く語られます。
「いかに『重いどもり』を乗り越えていまに至ったか」を語りたくなるのは人間らしいと言えばそれまでですが、いま悩んでいる人にとってはそれは自慢話としか感じられないこともあり、苦痛にすらなることもあるでしょう。

 どもらない人は、私的、または仕事上の電話をすること、電話をかけて話したい本人以外が出た時には呼んでもらうことなど、言葉によるコミュニケーションを当たり前のように繰り返しながら毎日を過ごしています。
 営業マンであれば、他社を訪問するときには入口で受付嬢に、または、入り口に置いてある受け付け用の電話で、ドアを開ければ即事務所のような中小零細企業の場合は入るなり元気よく大声で、自分の社名と名前を告げて取り次いでもらいます。
 また、売り上げをなんとか増やそうと競合他社の製品を使っている現在は取引のない会社に入り込んでいくために、歓迎してくれない相手に対しても、無理をしてでも電話等でアポイントを取って新規開拓をしていく必要があります。
*あたりまえですが、お得意先のみをまわるルートセールスで食べていける時代ではありません。また、「飛び込み営業」などというのは、ある程度以上の企業に対してはもはや昔話です。たいていは入り口でカットされます。

 吃音者は、どもらない人が日常的に行っているこのような行為が、できないか、できにくいのです。
言葉というコミュニケーションの手段をうまく使えずに、人生につまずいてしまうのです。
 どもらない人にとっては何気なくやっている(話すという)行為が、(ある程度以上の重いどもり)にとっては地獄のような苦しみなのです。

 どもりを理解しようとする家族、また、どもりに関わろうとする治療者にとっては、どもりの人のこんな想いをどこまで理解できるかが、本質がわかり適切な対処ができるのかの分水嶺になるかもしれません。

吃音のために○○ができないということ(再掲載一部改編:初掲載は2011年9月28日)

 「どもるために○○ができない」ということ。
 ある程度より重い、つまり家庭での日常生活や学校生活、就職活動、仕事に支障が出るようなどもりを持っていると・・・、
どもるために○○ができなかったり、
また、実際に何かをするまえに「○○ができないと思ってしまい」、その恐怖心から必要以上に心と体がこわばってしまい、結果としてさらに「ことばがなかなか出てこなかったり大きくどもってしまう」、という経験をしている方は多いと思います。

 こんな状況が続けば、学校ではからかいや陰湿ないじめの対象になり、うつ症状から不登校・引きこもりにったり、
 職場においては、社内や、社外の顧客とのコミュニケーションに大きな支障が出て、仕事にならなくなってきます。行き着く先は出社拒否・引きこもりです。
(私はその経験者です)

 これが「どもり」というものの本質かもしれません。

 どもりはその症状や重さの違いにより、人生に与える悪影響の度合いは大きく違ってきます。
軽いどもりが人生に与える影響と重いどもりのそれとでは天と地の開きがあります。

 しかし、傍から見て軽く見える・ほとんど気づかないようなどもりでも、本人として深く悩み生活に影響がでていたり、自殺まで考えるほど追い詰められることもまれではありません。
*育っている家庭環境(精神的・経済的)の違いや学校でのいじめなどの有無により、少しでも良い方向に向かうか、さらに神経症的なものも伴った苦しい状況に陥るかが違ってくるでしょう。

 どもるために○○ができないということを具体的に挙げてみると・・・
★授業中に答えが分かっていても(どもることがわかっているので)手をあげることが出来ない。クラスで役員をしたくても言い出せない
*勇気を出して手を上げてみても、結果としてどもってしまいさらに自信をなくすことがあれば、案外うまくできることもあります。しかし、できたりできなかったりが予測できないのです。

★買い物ができない、寿司屋で注文ができない、電話で予約ができない、など

★仕事で、顧客の新規開拓のために、いままで取引のなかったところへの積極的な動きができない。(電話でのアポイントメントなど)、仕事でトラブルが生じたときに顧客とのコミュニケーションが上手にとれない。

★親が死んでも、どもるために葬式で挨拶ができない。

*どもりは、まったくしゃべれないのではありません。重さや症状により様々ですが、「最初のことばがなかなか出てこない」、「つまりながらしゃべる」、「顔を歪ませおおきくしゃくり上げるような仕草を伴いつっかえながら」、または、「繰り返しながらしゃべる」、「意味のないことばを発してからいいたいことばがやっと出てくる」など様々です。

 ある程度以上の重さのどもりを持っていて、不断の努力の末「治った、良くなった、どもりを残してはいるがそれなりに仕事に対応できるようになった」という人にも以下のようなことが起こりえます。
・・・自分に合った、生きる・働く環境を不断の努力の末に作ってきて、仕事にも自信がついて精神的にも安定し、結果としてことばの方でもかなりの自信がついた。
 たまに参加する吃音者の会合でも、自分の経験をもとにしてそれなりのサクセスストーリーのひとつも言うようなことが多くなってきた。
そんなときに突然の職場環境の大きな変化。(転勤・転籍、自信を付けての転職など)

 いままでは当たり前のように言えていた会社名や名前、会議での発言がうそのように詰まりだしてきます。
その後はどんどん悪化し、日常会話にも影響が出てくる。
 こんな経験をしてはじめて、どもりで苦労している人の心が「こころから分かった」という「吃音者」にも会ったことがあります。

 どもるために○○ができないということ。
 あえて無理してトライしてみたら、心配していたほどではなくて案外うまくいき、その後自信をつけて結果的にどもりの症状もだいぶ緩和された例、
 逆に大失敗してしまい「トライするんじゃなかった」と後悔するばかりか、今まで以上に悪化する場合もあります。

 こういうふうに考えていくと、おとなが、どもりで悩んでいる子供に対して・・・
「どもっても良い」という呼びかけは正しいのか?
「どもりながらでもなんでもしよう、していこう」ということは妥当なのか?
 という疑問がわいてきます。

 もしも、こどもに対してこういうことばを発するのでしたら、発したおとな(親、先生、その他どもりの子供をサポートする専門家など)は、どもりで悩んでいる子供が家庭内や学校などで、どもりながらでも必要以上のストレスを感じたり、陰湿ないじめを受けないように最大限のバックアップを「日常的に」行なっていく必要があります。

 また、これも意見が分かれるところですが・・・、
「少しでも軽くしたい」「治したい」との本人の希望があれば、いまの時点でできる最善の言語訓練も提供するべきでしょう。
 心理カウンセリング(本人の、また、家庭に問題があれば家族も)、いじめなどがある場合にはソーシャルワーカーの介入などをタイムリーに行なうことも必要です。

 このようなことが行なわれて行けば、どもりをもって生きていくうえでの「本人の納得感」、そして「良い意味での「諦め」と、現実をかみしめた上での生きていく力の獲得」、さらには、矛盾するようですが、「どもりが治り切れなくても自分なりに生きていこう」というという生き様を「結果的」に獲得できるような気がします。

 ものごとは、子供でもおとなでも「本人がこころから納得してこそ、良い方向に進むもの」なのです。
*東日本大震災から続く大規模災害が続く国難の日本、経済的にもその指標の良さとは裏腹に人間関係はとげとげしくなり貧富の差が拡大しています。
仕事の世界でも「具体的な結果」を求められるだけという厳しい現状であること。
そして、それは家庭のあり方や家族の人間関係、学校内の人間関係にも少なからぬ悪影響を与えていることを考えたうえでの行動が必要です。

 いまの我々に必要なのは・・・、
 「こうあるべき」という考えかたを硬直的に語ることではなくて、どもりを持って悩んでいる人が、いまの「現実の人生」をできるだけ気持ちよく生きていけるようにしていくことです。
*もちろん、甘やかされて楽に生きていこうということではありません。