吃音の、「言わなければいけないことが言えない、言いにくい」ということ(再掲載一部改編:初掲載は2010年3月26日)

 どもりには、話すたびに最初の言葉が出ない(出にくい)か、発する言葉がことごとくどもり特有の繰り返しになるようなかなり重いものから、
普段の何気ない会話はあまりどもらず話せるが、学校や職場で、仕事上の電話、会議や授業中に発表するときなどには一転してどもることが多くなるようなもの、
 また、「まわりから見ると、むしろ能弁な人と思われてしまうほどよくしゃべるが、自分の名前など特定の言葉を言うときのみ、いきなり重症のどもりになる」というような症状まであり実に多様です。

 言わなければいけないことが言えない、言うべきとき(時間、場所)になかなか出てこない、大きくどもりながらでないと出てこない、というのがどもりの症状ですが、
現実的には「かなりの頻度で破壊的に大きくどもるようでは(一般企業の事務系・営業系の職場)で仕事を遂行する(できる)」ということは考えることができません。

 小学校の低学年くらいまでの子供に対しては、「どもっていいんだよ」と、学校でも家庭でも安心してどもらせてあげるべきだと考えますが、
大人になり社会に出れば、ある程度以上のことばの流暢性が要求される場所では、その場所に応じた水準以上の話ができることが当たり前のように求められるのが現実です。
*どもることで職務ににはっきりとした支障がでると、潜在的な能力があるのにもかかわらず「仕事ができない」と評価される=「結局は仕事ができないということになる」

 その「自分の想い」と「現実」とのギャップを思春期以降にどのように無理なく埋めていくか、
できれば吃音者のこころの中で軟着陸させていくかということが、ある程度以上の重い吃音(表面的な症状は軽いが精神的に重い吃音者も含む)を思春期以降に持ち越した人が人生を大きく踏み外すことなく生きていくために必要になります。

 ことあたりのことは、不完全でありながらも存在する小学校(一部中学校)までの公的サポート(言葉の教室)の問題でもあります。
 なぜならば、吃音の問題は、実はそれ以降(中学、高校から大学)のほうが深刻になることが多いにもかかわらず、現実には、公的なサポートなしの世界に放り出されてしまうのです。

 そのサポートなしの世界では何が起きるかというと、たとえば以下のようなことがあります。
★家族との軋轢
どもることで悩んでいることが、家庭の中で家族からも「甘えである」と言われることが、吃音者の孤独感を倍加させ、悩みを心理的に重くする。
★進路を考えるときに、「どもりを持ったままの自分」で人生設計をしていくべきなのか、「将来は治る」と仮定して考えていくべきなのかわからず混乱してしまう。(それに答えてくれる専門家がいない=余計に孤独になる)

 結局、どもりで大きく悩んでいるときに、気軽にそして継続的に相談に行けるような経験豊富な専門家が存在しない状況で、ひとりで悩み苦し紛れに民間のどもり矯正所(のようなもの)に駆け込むしかないと言う状況が、21世紀に入り10年以上たった今でも延々と続いているのです。
*もちろんセルフヘルプグループもありますが、どちらかというと、「どもりで悩んで試行錯誤した末に駆け込むところ、どもりの「玄人」が通っているところ、敷居が高い」というイメージは未だにあります。
 ネット時代になったいま。悩んでいる本人や家族が情報を得るために使うツールは圧倒的にインターネットです。悩んでいる人が、WEB上の「治る」という言葉に惹かれて、民間の矯正所(のようなもの)に足が向くのは自然なことです。

*ある程度以上の重いどもりを持った人にとっては(そして、心理的に重いどもりであればあるほど)、かつての高度経済成長やバブル期でさえも、就職難、だったのです。多くの場合は(私もそうでしたが)、「本当に就職できない」のではなくて、「怖くて就職しない、就職活動に踏み出せない」のですが、それを、ただ「甘え」という言葉でくくってしまってはどもりの本質はまったく見えてきません。
しかし、勇気を出して始めた就職活動においてもどもりの厳しさを散々と味わうはめにはなります。
 いま、日本中のサラリーマンなどを襲っていて「国民病」とまで言われている「うつ病」の問題も、これと同じ構図ではないでしょうか。

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いまの日本で、吃音を持ちながら苦労している方々に対してのプラクティカルなサポートはあるのか? (再掲載一部改編:初掲載は2008年8月23日)

 私がどもりで悩みまくりの少年~青年だった70年代から、大学卒業後に就職に失敗し、引きこもりになりうつ病を経験して、なんとか自力で就職できて小さな会社のサラリーマン(営業マン)としてもがきながら生きた80年代末から90年代

 その当時(70年代~90年代)、どもりで悩んでいる私をサポートする体制は私の手の届くところには存在していませんでした。
*当時も言友会などのセルフヘルプグループは存在していたはずですが、インターネットがなかった時代に存在を知るチャンスは限られていたことと、たとえ知っていたとしても、セルフヘルプグループというものへの漠然とした不安や情報不足などから、戸をたたくことはできなかったでしょう。

 手に届くところにあったものは、民間の「どもり矯正所」でした。
*いまではインターネットを使った宣伝をし、セミナー形式や個人面談形式など矯正所の形はだいぶ変わりましたが、悩んでいる吃音者を囲む状況は似たようなものです。
*かつては、街なかの電信柱に貼ってある怪しげな無資格民間吃音矯正所の広告や、週刊誌やマンガ本の隅っこに載っている広告が唯一の情報源でした。限りなく怪しげでしたが、悩んでいる身としては常に気になっていました。

 私は、子供の頃からのどもりの苦しみも家族にも理解されず(多くはそのようです)、大卒後も就職できず、
そこのところで、ひとりで突っ張って生きてきた自分の心が燃え尽きたかのようにぷっつりとこころが折れて1年以上引きこもりました。

 20歳代中ごろにもなってひきこもってしまった私が、やっとの思いで通いだしたのは「民間のどもり矯正所」でした。

 そこでの「訓練」は、医学にも心理学にも素人の私にさえわかるほど「子供だまし」でした。
 しかし、そこには、「どもりの友人」ができる環境がありました。私の人生ではじめてどもりについて安心して話せる人と出会ったのです。

 私はここで救われました。自殺せずに、この世に踏みとどまることができたのです。

 10人くらい入る小さな部屋に同じ「どもり」という悩みを持った人が全国から集まるわけですから、自然と友達になりました。
 会ったその日から10年来の友達のように話せるのは自分にとっても驚きでした。

 同時に、どもりと言ってもその重さや症状は実に多様で、吃音者が置かれている家庭環境や学校・職場環境によって心理的なバックボーンが大きく異なってきて、吃音者に様々な影響を与えることが分かりました。

 かつての私と同じような立場に置かれているいまの若い人たちは、どのようにこの厳しい時代をしのいでいるのでしょうか?
*私とて、他人事ではなく常に厳しい状況の中にいますし、40代、50代の壮年層の吃音者のかたでも「人生が落ち着かない方」が大勢いると思います。

 今では、インターネットでどもりのセルフヘルプグループの存在も知ることができるし、いろいろな人のどもりに対する思いや経験談を見ることができる。便利な時代になったものです。
 特に、ここ15年ほどは、web上の様々なサービス、SNSやブログなどで、誰もが簡単に自分の考えかたや経験を世界中に発信できるようになりましたので・・・、
 かつてはどもりのセルフヘルプグループで知り合って、ある程度親しくなってからはじめてできたような深い話に、(場合によっては)ネット上で簡単に接することができるようになり、情報や意見も簡単に交換できるようになりました。

 しかし、どもりの人を取り囲む客観状況、特に就職については、私が悩んだ70年代後半~90年代半ば頃よりも遙かに悪くなっています。
*バブル崩壊後の失われた20年、そしてリーマンショック後の就職事情の劇的変化が背景にあります。

 社会が、急速に進んだIT化とは裏腹に、「言葉による高度なコミュニケーション」をますます重視していること。
それは何を意味するかというと、(ある程度以上の重い)どもりでは、他の能力は高くとも正社員として(それなりの企業)に就職できにくくなったことです。

 アルバイトで時給1,000円くらいの給与を得ていても、社会保険もつかないし、いくつになっても親の庇護下の生活しかできず、結婚はできません。

 一般の会社は、採用する際に、実務に支障が出なければ、つまり他の社員と同じ結果を出せるような人ならば、「どもろうがどもるまいが」それほど気にしないでしょう。
 しかし、(かつての私のように)、どもりで悩んでいる人というのは「ある程度以上重いどもりでコミュニケーションに支障が出ている」から悩んでいるのです。

 学生時代に日常生活レベル、つまり友達や友達の家に電話をするくらいの簡単な電話でも支障が出るくらいのどもりであった場合には、就職したときに日常の業務に支障が出てくることは間違いありません。
 このような状態では、たとえ強力なコネを使い就職したとしても、新人研修でパニックになり会社に足が向かなくなるかもしれません。

 家庭的に裕福で、学校を出てもしばらくは就職しなくても良い環境でものを考えられるような立場にいたり、専門学校などに通わせてもらい、資格を取れるようなモラトリアムが与えられる人、
 就職についても、いわゆるコネで「言葉を使わなくても良い(言葉を使うことが仕事の主要な部分でない)仕事」に就けるような環境に居る方は良いかもしれませんが、多くの方はそのような恵まれた環境にはありません。
*かつての私のような、そのような人たちの問題こそどもりの問題の中核です。

 このような「現実」に対して、誠実に、そしてプラクティカル対処していかないと、どんな哲学的な言葉を掲げたとしても、なんの救いにもなりません。
 30年、50年という長期的な視野でどもりについて考えたときには、大学医学部や国立の研究所などでの本格的な研究が必要で、何十年後かに最終目標を設定し基礎研究から計画的に行なって行く必要性があるでしょうし、
短期的に見たときには、「どもりで就職できない人」や「引きこもりになっている人」などに対して、心理カウンセリングや就職指導を行なうことや、また、希望があれば現在できる最良の言語療法を受けることができるようにすべきです。

吃音は、「そのうちには」よくならない

 子供の頃、親からよく言われたこと・・・「どもりはそのうちによくなる、大人になればよくなる!」

 そんなものだと思って、または、そう夢見て、
「大人になってすっかり治った自分」を思い浮かべていた小学生の頃
*いまどきの小学生はいくらでもネット等で調べられるので、そんな幼い考えかたはしないでしょうね。

 しかし、よくはならない
 それどころか思春期に向かってメンタル的な要素も大きくなり、ますます重くなる。
*いまどきは、どもることによる陰湿ないじめもいくらでもあるでしょう。
そのうえ、学校や教育委員会、児童相談所があのていたらくでは、陰湿ないじめにあっている子供はますます追い詰められるばかりです。

 それでは、なんで「そのうちによくなる」と言われることがあるのでしょうか?
 それは大人になれば、「できないことはしなくなる(できなくなる)から」でしょう。

 学校では、どもろうが、言葉に障害のない普通の人と同じ教室で学びます。
*ある程度以上の重さのどもる子供は、先生が指名しないとか、本をひとりで読ませないなどの配慮をする(こちらからお願いする)場合もあるでしょう。

 しかし、社会人は違います。
 どもっていて自分の名前も(なかなか)言えない、電話もきちんととれない・できない、交渉やプレゼンが(うまく)できない(内容ではなくてうまくしゃべれないという意味)では、(厳しい言い方ですが現実なのであえて書きます)社会人として使い物になりません。
*「使い物にならない」とは、言葉(電話、交渉など)をフルに使う企業などの営業系や事務系の仕事においてのことです。ほんとうは仕事といっても実に多様なはずです。言葉をほとんど使わない職種から、言葉で生きていく職種まであり選択肢はかなり多く幅広いはずですが、学校を出て働くところといえば「会社」「公務員」が一般的なのが現実です。
*新人の頃の緊張による言葉のつっかえであれば慣れとともにとれるので、それはどもりとは別物です。

 現実問題として、言葉の面で適応できない職種には就けないので(就かないので)、
そして、そもそも本当に重い場合は社会人として活躍する場が、なかなかないので・・・、
言葉を使わなくなります、結果としてどもりが外から見て目立たなくなります。
 それで、第三者が外から見て「大人になればどもりは次第に軽くなる・・・」という見方になるのでしょう。

 これくらい現実を厳しく見て、そのうえで今後、どもりを持った人をどのようにしっかりと(家庭で、学校で、社会で)サポートしていくかを考えていかないと、いつまでたってもどもりの問題は良い方向に進みません。
*公的なサポートの悪さは、最近の千葉県野田市の父親が我が子を殺した事件で、あらためて証明されてしまいました。

吃音:話したいことが(うまく)言えないというストレスとの闘い(再掲載一部改編:初掲載は2011年3月24日)

 この書き込みの初回は2011年3月24日です。
そういえばもう少しで東日本大震災の日です。
 あの日、東京近郊の湾岸地域に住む私は花粉症の治療のために5階建てのビルの4階の耳鼻科に入ったところでした。ゆっくりと大きな揺れでビルが倒れるかと思いました。その後はテレビで東北の津波の様子をただ見つめるばかりでした。
 花粉が飛ぶこの頃になると思い出します。
亡くなられた方のご冥福と、残されたご家族の心の平安を祈ります。
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 「どもりを持っている」といっても、その重さ・症状、置かれている(経済的、精神的)環境により、本人が考える「人生に占めるどもりの大きさと位置」は大きく違います。
これが前提ですが・・・

 今回は家庭内や学校、または職場で、どもることにより言いたいことが言えないということがどれくらいのストレスになっているのか?ということについて考えます。
 これはある意味でどもりの本質かもしれません。

★自宅で(家族の前で)かかってきた電話に出る、
★学校で授業中に指名されて本を読む、
★友達(の家)に電話する、
★職場での日常的な電話、会議、顧客との折衝、

 これらはごく当たり前に行なわれている「話す」行為ですね。
生きていくために重要なことです。
 これらが、できないかできにくいのが「ある程度以上の重さの吃音者」の悩みです。

 学校で必要なときに必要なことが言えない、
 例えば教科書を読みなさいと指名されても最初の言葉が出てこないか、どもり特有の詰まりながらの読みになってしまう、

 職場でどもってしまい、必要なときに必要な言葉を話せない
 例えば、電話がかかてきても、自社の会社名すら出てこない、
他の人に転送するときや直接伝えるときに「なになにさんから何番にお電話です」などと言えない・タイムリーに言えない、
 こんな感じだと、たとえ潜在的な仕事の能力は高くても「仕事ができない」と評価されたり、結果として自分やチームとしての仕事が円滑に進められない(仕事ができない)ので、その職場に居づらくなることもあります。

 そのような生活(人生)を続けていると、どもっている本人は毎日、劣等感を持つ場面に数限りなく遭遇させられて、慢性的にストレスにさらされ続けます。

 それでもストレスが発散できる場所(人、場)や時間帯があれば良いのですが、それがないかきわめて少ない場合は、私がそうであったように、こころが追い込まれてうつ病になったり自殺を考えたりします。

 そうならないようにしていくにはどうしたらよいかを考えることが、どもり対策の根本であると思います。

吃音で学校をやめる、会社をやめるという選択はアリか? (たびたび再掲載一部改編:初掲載は2012年12月4日)

 (ある程度よりも重い)どもりのために学業や仕事に支障が出てきてしまい、「学校をやめる」、「会社を辞める」ということは、吃音者の間では良くあることです。
*80年代末に大卒後も就職できずに民間のどもり矯正所に通っていた私の経験では、同じ矯正所に通っていた学生が中途で大学や専門学校をやめるのを見るたびに、とても残念に、また、悔しく思ったものです。
*「ある程度よりも重いどもり」ということについてですが、傍から見てほとんど気がつかないような軽く見えるどもりでも、本人としては自殺を考えるほど深く悩んでいる場合もあたりまえのようにあります。また、どもりどころかむしろ雄弁に見える人が、特定の語、たとえば自分の名前になるとどうしても大きくどもってしまい言えないということも良くあることで、この場合も生きていくうえには(特に事務系・営業系、その他接客するような社会人としては)かなり生きづらい・苦しいこととなります。

 さて、吃音者本人から「学校をやめたい、会社を辞めたい」と突然聞かされた家族はたいていは猛反対します。
「なんでやめるんだ!」という話しとなります。

 子供の頃から悩んでいて、でも家族にもその悩みを言えなかったし理解してもらえなかった・・・
一生懸命に、「どもりで苦しんでいる」と説明したとしても、「その程度のことでやめるとは何事だ!」と怒られるくらいなものです。
 残念なことですが、家族でさえも、どもりという障害についての認識はその程度です。

 私が大卒後に就職できずに民間の無資格どもり矯正所に通っていた80年代末ごろは、どもるために学校をやめたといっても、多くは専門学校や大学だったように思いますが、今はどうでしょうか?
 小学校・中学校・高校において、昔とは明らかにちがう陰湿ないじめにより、「不登校」そして「引きこもり」にまで至っているどもりを持った子供は多いのではないでしょうか?
 いじめを受けている子供たちが十分なサポートを受けているかといえば、はなはだお寒い現状なのは、数々のいじめ自殺事件における学校や教育委員会、児童相談所のいい加減な、そして逃げ腰の対応ではっきりとしています。

 社会人の場合では・・・、
 いまのことば(どもり)の状態で入れるところ(職種)に就職せずに、いわゆる「コネ」で無理をして就職した場合ですが、
話すことの能力が低いのに(自分のどもりの重さと職場で要求される話し言葉によるコミュニケーション能力の差という意味です)企業の営業系や事務系に入ってしまった場合には、それはもう悲劇です。

 有力者のコネで入った場合には会社側も文句が言えませんので、本人そして会社側にとって二重の悲劇になりかねません。

 たとえ実力で入ったとしても、面接時に比較的言葉の調子が良くて運良く(運悪く)入った場合には、入ってからの苦労がたいへんなものとなります。
*どもりの症状や重さも時とともに複雑に変化しますし、また、吃音者を取り巻くまわりの状況も刻々と変わってきますから、悪い状況にあった方が結果的に良い方向に進むということもあります。

 その「うまくいった例」を持って、「〇〇さんはどもりを持っていながらも歯を食いしばって頑張った、だから〇〇になれた。あなたもがんばれるはずだ!」などということは、いまどもりで困っている人をさらに追い詰めるだけになりかねません。

 学校や職場で陰湿ないじめにあっていて有効な解決法がない場合、
 また、「自分のことばの能力でいまの環境では、努力しても生きていけない、自分のこころを追い詰めるだけだ」と分かった場合には、転校や転職など、環境を変えることを「戦略的」行なうべきです。
*戦略的というのは「とことん追い込まれて突然やめる」というようなことをしないで、次の準備をしつつ自分の決断で良い時期にやめると言うことです。
いまという時代背景を考えると、「ただ我慢、我慢」では、良いことはないでしょう。

 転職・転校などの大きな判断をするには・・・、
★家族のどもりへの最低限の理解はあること(子供の場合はもちろん社会人の場合も)
★転職の場合は、しばらくの間無職でいられる蓄えがあるか、アルバイトでしのいでいけること(社会人の場合)などの条件が必要です。これはたいへんに重要なことです。

 学校に通っている年齢帯の場合は、フリースクールという選択肢や、大検という選択肢もあるでしょう。通信制の学校もありますね。
 社会人の場合は、主に体を動かす農林水産業などへの転業、収入は大きく減っても都会から田舎へのアイ・ターンなど大胆な変更も考えるなどの柔軟性も必要でしょう。
*いわゆる都会でのサラリーマンがもはや安定職でないことは、おわかりのことと思います。

 これらの判断をするために、人生の危機管理のためにも・・・、
 普段からなんでも気軽に相談できるようなアドバイザー(ホームドクター)としての、臨床心理士や精神科医、(言語聴覚士)を見つけておくことが必要です。

 また、これがいちばん重要かもしれませんが、「なんでも話し合える親友」がひとりで良いのでいることも必要です。
*親友を得るためにも、どもりのセルフヘルプグループへの参加はとてもよいことです。

吃音問題に対する対応策が充実しないわけは(再掲載一部改編:2005年4月22日)

 「ギリシャ時代の雄弁家、デモステネスはどもりだった」ということはよく言われることですが、それほど昔から認識されている「どもり」の割には・・・、
21世紀初頭の日本でも、公的機関によるバックアップはないに等しく(特に思春期後期以降)、多くの吃音者が日常的に悩み・困っていても、どこに相談したらよいかさえわからない状態が続いているのはなぜでしょうか?

 それは・・・、
 第一に、吃音者は自分のどもりを極力隠そうとするために、吃音とそれから起きるいろいろな問題が表面化しにくいのです。
 軽い吃音者は、言いにくい言葉を言い換えることによってごまかすことが(ある程度)出来ますし(しかし、心のなかでは苦しんでいるかどうかは傍から見てではわかりません)
重症の吃音者は、そもそも言葉を使う仕事に就くことが少なく、社会の表に出てくることが少ないので、いつまでたっても吃音問題が社会的に認知されないのです。

 第二に、「傍から見て吃音が治ったといってもいいほど回復したように見える?人」や、「吃音を残しながらも社会で活躍している(ように見える)人」は、
苦しんだ過去を思い出したくないし、周りの人に知られることにより自分の評価が下がるのではないかと思うのか?、自分のどもり(の経験)について黙ってしまいがちです。
*治ったかに見える人、吃音を持ちながらも活躍している人どちらも、突然のどもりの復活(ぶり返し)や急な悪化で、いま現在していること(仕事・立場)を脅かされることもあたりまえのようにあるのがどもりの現実です。

自らを語らない(語れない)吃音者

 どもりを持っていて、人生のいろいろなシーンで困っている・・・、
 朝起きて家族の前で「おはよう」という言葉が出ない(出にくい・出なそうなので言うのをあきらめる)ところから始まって、家庭内での何気ない日常会話でも言葉がなかなか出てこない、どもり特有の繰り返しの言葉、顔を歪ませて発音するかたちになってしまう。
*恥ずかしいので・注意されるので、家のなかでは極力話さないようにしている、かかってきた電話にも出ないことにしている。

 学校では、指名されても(なかなか)最初の言葉が出てこないので、ついつい「わかりません」でごまかしてしまう。
*「わかりません」すら出ないこともある

 または、どもり特有の繰り返しの言葉になってしまう。(すす、すずずき、でです・・・という感じ)

 職場では、電話に(なかなか)出られない、出たとしても自社の社名が(なかなか)言えない、(言えることもある)
 かける場合も、自社の名前はおろか、自分の名前を言うことが(なかなか)できない(できることもある)
*どもりでない方は、「こんなんで仕事になるの!」と思われるかもしれませんが、子供の頃から自宅でも学校でも「自分の名前すら(なかなか)言えない」という人生を送ってきた吃音者本人としては、それでもなんとか生きようともがいているのです。そして当然のように、背後には(なかなか)仕事に就けない、就いてはみたがどうしても続けられずに通えなくなる、引きこもる、やめてしまう、うつなどの心の病になる・・・というような吃音者が大勢いて、しっかりしたサポートも受けられずに孤独で戦っています。

こんな毎日を想像してください。
*どもりにはかなりの幅で重さの違い、症状の違いがります。それによってどもりの苦しみもかなりの差があります。
育った家庭環境(精神的・経済的)や学校の環境(友達や先生からのいじめ)の違いによっても、メンタル面にかなりの違いが出てきます。

 子供の頃からそんな人生をずっと生きている(生きてきた)
 自分のことをわかってもらえる人がいない(と思っている)

 次第に自分のことを誰かに語ろうとすること、誰かにわかってもらおうと働きかけることをあきらめてしまう。そんな人間になってきてしまう。こころが萎えてしまう。
 そんな人を何人かみてきました。

吃音:多様性という欺瞞(ぎまん)

 今回は強い表現で始めました。

 このごろ、多様性という言葉がよく使われます。
世の中で起きている様々な出来事、例えば世界中で起きている移民問題、
 ある問題を語るときに・考えるときに、「多様性」という言葉で片付けられ過ぎてはいないか?と考えることがあります。
 多様性を受け入れろ 多様性を大切にしないといけない
 一見、もっともらしい言葉ですが、事象が起きている現場の混乱ぶりを考えると、そんな言葉では片付けてはいけないような気がしています。

 今回は「どもること」と「多様性」という言葉について書いてみたいと思います。

 吃音者が実際に、家庭生活(日常生活)、学校生活、就職・転職活動、職場において、どもることにより、言葉がうまくしゃべれない、自分の意思がタイムリーにひとに伝えられない(求められる「タイムリーさ」その場所や状況で違うのが現実です)
 こんな日々の連続は、吃音者のこころを疲弊させ生きていく力を失わせます。 

 連続的な大きなストレスのために、うつ状態からうつ病となり、学校や職場に足が向かなくなってついには引きこもりになってしまうことも、決してまれなことではありません。

 どもることで(学校や職場で、または、家庭内で)パワハラやいじめを受けている、
 いじめは受けていないが、自分がどもることにより職場の仕事の内容に悪い影響が出ていることを自分として感じている。
 また、チームとしての仕事にも悪影響が出ているときなどには、自分の存在を否定したくなるような、ここにいてはいけないような気持ちに襲われつつ、
それでも生きていくために(稼ぐために)、作り笑いをしながら明るく振る舞って職場に居続けなければならない惨めさを感じながら毎日を生きている、

 そような現実の前で、「これからは社会は多様性を考えなければならない・・・」などと、テレビに出てくるコメンテーターのようなことを言ってみても、考えてみても、現実は、良い方向には進みません。

 多様性を語るのならば、いろいろな立場の人が共存できるように、そのための工程表を作り具体的に法律で縛るなりして、社会のなかで多様性がほんとうに受け入れられていくように、ある意味強制的にでも、多様性を受け入れるための装置を社会のなかに作っていかなければならないと思います。

 ひとは基本的に自己チューです、自分ファーストです。
 どもりの問題で言えば、同じ職場に吃音者がいても自分の仕事に悪影響が出なければ、(まともな人ならば)からかったりいじめたりはしないでしょう。
 しかし、自分の仕事やチームとしての仕事に悪影響が出れば、途端に吃音者を責め始めると思います。
 そういう現実を踏まえてうえで多様性について考えていかないと、現実的にものごとは進まないと思います。

吃音といじめ(緊急再寄稿:初掲載は2018年11月19日)

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 千葉県野田市の小学生の女の子が父親に殺されたという事件、毎日のように報道されています。
 学校と教育委員会、児童相談所の対応は、もう、対応というレベルではなく、「不作為」「自己保身」そのものです。それ自体が犯罪でしょう。
 これからは、この報道を知った子供は、学校のアンケートに「ほんとうのこと」をかけなくなってしまいました。

 いじめを受けている場合、相談するのは、学校でも、教育委員会でも、ましてや児童相談所でもありません。まっすぐ警察に行くべきです。
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 さて、2018年11月19日付けの毎日新聞(インターネットにて閲覧)に、どもりでいじめられている中学生の記事が載りました。
 詳細については報じられていませんが、笑われる→そして、いじめられるという構図があたりまえのように浮かんできます。
クラブ活動での居場所もなくなっていたようです。

 直接のいじめのほかにSNSによるネット上でのいじめもあるのがいまの世の中です。
 それらの現状に対してあまりにも遅れた、不誠実な、そして自己護身に偏った学校側や教育委員会の対応のまずさは、いままでのいじめによる自殺の事件報道でもわかっています。
*今回は通学も滞りがちということですが、悩んで自殺という最悪の事態だけは避けられているようです。

 記事にある「新学期の自己紹介で笑われる・・・」、というのは、1970年代の中学生だった私にとっても(それより前の子供にとっても)年度替わりの頃のいちばんの心配事でした。
 今回の中学生はクラブ活動でも、どもることを笑われていたとのことです。

 新学期になり当然ある自己紹介が近づくにつれて、
「また、今度も名前も言えずにどもってしまうだろう、みんなから、先生からも笑われてしまうだろう」という予期不安が日に日に増大して苦し日々が続いていきます。
 私の場合は、地球がなくなってしまえば良いなどと空想の世界に逃げ込んでみたり、自殺したい、と考えるような少年でした。
*しかし、傍から見ると、明るい性格のちょっとどもるくらいの少年でした。

 そして、自己紹介の当日には緊張は最高潮に達します。
 事前の予想通りに「自分の名前なのに最初のことばすら出てこないか、どもり特有の繰り返しの発音になってしまう」という結果に終わります。
 そして、これも事前に思っていた通りにクラスメイトから大笑いされます。
 新学年で自分がどもることを知らない新しいクラスメイトからの容赦ない笑いです。(先生も一緒に笑っていることもまれなことではありません)

 今でもほとんどの人が「この人はあがり症なので(気が小さいので)どもってしまう」くらいの稚拙な知識しかないのも実情です。
世の中の人の多くがこの程度の理解だと思います。

 今回のことで学校側の対応、どもりについての理解が、
30年、40年、いや50年以上前と全くかわっていないこともあらためて確認することになりました。

 私の頃(70年代~80年代)もいじめはありましたが、今のいじめはその頃のそれとは異質です。さらに陰湿でジメジメしています。人の心がささくれだってしまっているのでしょう。 
 さらに、ネットの普及によるSNSを通じてのいじめもあり、たいへんなことになっていますが、ただでさえ対応できない学校や教育委員会に期待するのがそもそも間違っているのではないでしょうか?

 学校や先生方と利害関係のない全くの別組織を立ち上げて強力な権限を持たせて警察と協働して、いじめ問題に強力に対処してほしいと思います。
*DV対処も同様です。

 まったく・・・、いままで、どもりを取り巻く人たち「言語や心理の専門家と言われる人、学校、教育委員会、文科省、そして吃音者自身(私も含む)」は何をしていたのでしょうか?
 不作為の罪は重いです。

吃音はその人ごとケースごとの対応を!(再掲載一部改編:初掲載は2012年2月3日)

 いつも書いていることですが、「どもる」といっても、重さも症状も、そしてどもる人が生きている環境(家庭・学校・職場)も実にさまざまです。

 一部の言葉しかどもらないようなごく軽いどもりの場合では、第三者から見ると、その人がどもりで悩んでいることには気づきません。
 そのような場合に、それでは本人は悩んでいないかというと・・・、
実は自殺を意識するくらいまで悩んでいることがあります。
 こんなことがどもりという障害を実にわかりにくいものにしています。
 家族から、「どもりといってもたいしたことないじゃないか、世の中にはもっと苦労している人が大勢いる、悩むなんて甘い!」などと言われてしまう始末、
 やるせない気持ちをどこにぶつけたら良いのかわからない方も少なくはないでしょう。

 一方、何気ない日常会話でも顔を歪ませて大きくどもるような重いどもりを持っている人に対しては・・・、
家族や友人など吃音者の周りにいる人は、
どこかで聞きかじった話しで、「どもりを持っていた人で(ある民間療法で)よくなった人がいるらしい。言語訓練などをして軽くなった、または、社会経験を積んで軽くなった」などという不確実情報を元に(善意から?)、
自分の知っているいい加減な情報でアドバイスをしてしまいます。
 これは結果として、どもりを持っている人の心を大きく傷つけてしまいがちです。当然、よい結果は出ません。

 病気では、同じ病名でも死に至る場合もあれば、早期発見ならばほぼ心配ない場合もあります。当然治療法や周り人がするサポートも大きく変わってきます。

 どもりの症状が比較的軽い場合では、一定の言語訓練をして(といっても、ほとんどはセルフヘルプグループの仲間内で工夫して行なう訓練です)
 また、うつなどにならないように精神科医などの適切なカウンセリングや、さらに、どもり仲間や家族・友人のバックアップ(理解)を得られるような幸運なことがあれば、どもらない人と比べても遜色ないような仕事上のトーク(電話・交渉)ができるようになる場合もあります。
(しかし、いままでの努力を一度に無にしてしまうような「再発」も十分にありえます。)
*どうしてこういう努力をするかというと、ズバリ「働いて稼いで生きていくため」です。
*「言語訓練」「カウンセリング」と書きましたが・・・日本には、吃音の症状(特に思春期以降)や吃音者の心理について豊富な臨床経験を有する言語聴覚士や臨床心理士・精神科医などの専門家が日常的に言語訓練をしてくれたり相談に乗ってくれるような(公的)施設は日本には事実上ありません。
 事実上と書いたのは、たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的に通えないのではないのと同じことだからです。
 ですから、この場合の言語訓練とは、事実上、セルフヘルプグループの仲間うちで工夫して行う自主的なことばの練習のことです。

 上記のような様々な工夫をしていきつつ、(希有かもしれませんが)周りにいる人のどもりへの理解にも助けられながら(例えば家庭内などではむしろ自由にどもらせてあげることにより)、次第に客観症状も軽くなってくる場合があります。
 それでは、そのまま治癒に向かうかといえば、ちょっとした出来事からどもりがぶり返したリ、今までよりも重くなり、今している仕事の遂行に支障が出てくることもよくあることです。(私がその経験者です)

 どもりの状態は、時間とともによい方向にも悪い方にも変化しうるし、
 また、吃音者の周りにいる人の対応(無関心、関心、協力的、非協力的、批判的、からかい、いじめ)によっても大きく変わり得ます。
 また、原因不明の急激な悪化、改善もあるのです。
 吃音者の周りにいる人は、このようなことをよく考えながらサポートをする必要があります。