吃音者を「自己不一致」に陥らせない(陥らない)ことの大切さ (たびたび再掲載:初掲載は2007年3月14日)

 どもる人がすべきこと、また、どもりで困っている人の身近にいる人がサポートできることで優先順位が高いものは・・・、
どもりを持つ人を「自己不一致」の状態に陥らせないようにすることです。

 どもることは、(どもらない人には想像もできないほどに)吃音者に耐え切れないほどの苦痛を与えることがあります。
 それは、重さや症状の違い、吃音者が生きている環境の違い、さらには、まわりにいる人(家族・同僚・同級生など)の理解の度合いの違いなどによっても大きく異なってきます。

★考えたくなくても(考えるのをよそうと思うほどに)、24時間常にどもりのことばかり考えてしまい、しゃべることが怖くて仕方がなくなる。
★どもることにより起こる「生きづらさ」を連続的に経験することにより、次第に「生きていくことがつらい、死んでしまった方が楽だ」と思うようになり、うつ病などの深刻なこころの病気になることさえあります。
*自分がそうでした。

 ある程度歳をとってからならば(その年齢までなんとか生きられれば)、
「良い意味でのあきらめも」できてきて、肩の力も抜けてきて、多少は「生き易く」なってくるかも知れませんが、思春期から30代の中ごろくらいまで(私の場合)は、どんなに強がっても心の底では「治したい・そのうちに治る」と思いたいし、また、そのような希望がなければ、とても生きていられない状況でした。

 自分の子供の頃を思い出してみても、親やまわりの人が言ってくれる「大人になれば治るよ」という励ましの言葉を疑いを持ちながらもどこかで信じていて、「大人になってもどもっている自分の姿」を想定していませんでした。(したくありませんでした。)
「今はどもって、つらくて恥ずかしい思いをしているが、大人になれば皆と同じように普通にしゃべれるようになるんだ!」と、自分に言い聞かせていました。
*こう思うことで自分の心の平衡をギリギリの線で保っていたような気がします。

 しかし、これも、度が過ぎると、今の自分を生きられなくなります。(自己不一致)
 つらい現実があり夢の世界に逃げ込んでみても、現実の自分は幸せになるどころかますます追い詰められていきます。

 いつも自分のなかに違う自分があり、そこに逃げ込むことで、しばしの安堵感を得るということは心理的にとても危険なことです。心の病になってしまいます。
「どもりが治ってから就職しよう。」
「どもりさえ治れば就職できる。」
「学校の成績が悪いのはどもりのせいだ
・・・これらのことは、ある意味そのとおりかもしれません。
 どもりのせいでうつ状態になり苦しくて苦しくて・・・
 しかし、自分ではどうしたらよいかわからない。こんな曇りガラスに爪をたててひっかくような毎日をへとへとになりながら生きている人にとって、「どもりでさえなかったらスムーズに就職もできたかもしれないし、明るく自由闊達な学校生活も送れたかもしれない」と思うこと、そういう思いに逃げ込むことは責められることではありません。

 でも、辛いですが、現実の自分はどもっているのです。
 「どもりがなくなった自分を心のなかに作り上げて」それがあるべき自分・本来の自分と考えて、「今現在、実在するどもる自分」を自分自身で否定してみてもよい方向には進むわけがありません。

 どもりが治るまでは・・・できない、どもりが治ってからなら出来ると考えて、今を生きないで人生を先延ばししてみても無為に時間を過ごすだけです。
 つらいですが今のどもる自分で出来ることから動き始めるしかありません。

 でも、矛盾するようですが、ときには、そんなふうに考えてしまう自分も認めてあげることもとても大切なことす。そういう自分も自分の一部なのだから否定されるものではありません。そういうところがないと余計に自分を追い詰めてしまいます。

 理想の自分とは違うかも知れません(どもりがなければ自分の能力ではもっと違うことが出来るはずだ!と思うかもしれません=実際そうかも知れません。)
 でも、バーチャルな自分に軸足を置くのではなくて、今出来ることから始めることが、結果として時間の浪費をせずして自分らしく生きていける最短距離と考えるべきです。

 いろいろと経験された末にどもりの症状がかなり軽くなっている方に出会うことは、セルフヘルプグループなどに参加しているとそれほどまれなことではありません。
 そのような人たちは、軽くなってから動きはじめたのではなくて、地に足が着いている生き方をはじめてから「結果として」吃音の症状が改善されたのです。

 しかし、ここが重要なのですが、吃音の客観的な症状は、結果として改善される人と、そうでない人がいることも事実です。
*「軽くなった人」も突然のぶり返しで、いまの生活に大きな支障が出るということも、当たり前のように起こります。

 何かを成し遂げると必ず症状が軽くなる=そして社会的成功がある、という構図で考えてしまうと、それが、また、自己不一致の原因になってしまいます。

 どもりには、いままで書いてきたような複雑な事情が背景にあります。
 さらに、古くからあり、いまでも形を大きく変えて残っている民間吃音矯正所(のようなもの)の存在や、セルフヘルプグループのなかのいろいろな問題、そして、どもりを専門にする言葉とこころの専門家の質的量的不足が、結果として吃音者に苦しみを与え続けています。

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吃音で学校をやめる、会社をやめるという選択はアリか? (再掲載一部改編:初掲載は2012年12月4日)

 ある程度よりも重いどもりのために学業や仕事に支障が出てきて、
「学校をやめる」「会社を辞める」ということは、吃音者の間では良く聞かれることです。
*80年代末に大卒後も就職できずに民間のどもり矯正所に通っていた私の経験では、同じ矯正所に通っていた学生が中途で大学や専門学校をやめるのを見るたびに、とても残念に、また、悔しく思ったものです。
*「ある程度よりも重い」ということについてですが、「どもりの重さ」というものは、客観的なもの(傍から見た重さ)だけではわかりません。傍から見てほとんど気がつかないような軽いどもりでも、本人としては自殺さえ意識している場合もあたりまえのようにあるのです。また、どもりどころかむしろ雄弁に見える人が、特定の語だけ、たとえば自分の名前になるとどうしても大きくどもってうまく言えないというのも良くあることです。この場合も、特に事務系・営業系、その他接客するような社会人としては、かなりつらい生きづらくなります。

 さて、吃音者本人から「学校をやめたい、会社を辞めたい」と聞かされた家族はたいていは猛反対します。

「なんでやめるんだ!」という話しとなります。

 一生懸命に、「どもりで苦しんでいる」と説明したとしても、たいていは、「その程度のことでやめるとは何事だ!」と怒られるでしょう。
 残念なことですが、家族でさえも、どもりという障害についての認識はその程度です。

 私が大卒後に就職できずに民間の無資格どもり矯正所に通っていた80年代末ごろは、どもるために学校をやめたといっても多くは専門学校や大学だったように思いますが、今はどうでしょうか?
 昔とは明らかにちがう陰湿ないじめにより、「不登校」そして「引きこもり」にまで至っているどもりを持った子供は多いのではないでしょうか?
 そのような例があったとしても、学校側が十分にサポートしているかといえば、はなはだお寒いのが実態ではないのでしょうか?
*(もりに精通していない人が)中途半端なアドバイスをすれば、かえって状況が悪化することさえあります。

 社会人の場合では・・・、
 いまのことば(どもり)の実力(状態)で入れるところに就職せずに、いわゆる「コネ」で就職した場合ですが、話すことの能力が低いのに(自分のどもりの重さと職場で要求される話し言葉によるコミュニケーション能力の差という意味です)企業の営業系や事務系に入ってしまった場合には、それはもう悲劇です。

 有力者のコネで入った場合には会社側もなかなか文句が言えませんので、本人そして会社側にとって二重の悲劇になりかねません。

 たとえ実力で入ったとしても、面接時に比較的言葉の調子が良くて運良く(運悪く)入った場合には、入ってからの苦労がたいへんなものとなります。
 
 しかし、どもりの症状や重さも時とともに複雑に変化しますし、また、吃音者を取り巻くまわりの状況も刻々と変わってきますから、悪い状況にあった方が結果的に良い方向に進むということもあります。

 その「うまくいった例」を持って、「〇〇さんはどもりを持っていながらも歯を食いしばって頑張った、だから〇〇になれた。あなたもがんばれるはずだ!」などということは、いまどもりで困っている人をさらに追い詰めるだけになりかねません。

 いまの時代を考えたときに、学校においても、職場においても、吃音者にとってはかなり生きづらい毎日を過ごしていることと思います。

 特に陰湿ないじめにあっていて有効な解決法がない場合には、
 また、「自分のいまのことばの能力でいま生きているここの環境では、努力しても生きていけない、自分のこころを追い詰めるだけだ」と分かった場合には、転校や転職など、環境を変えることも「戦略的」行なうべきです。
*戦略的というのは「とことん追い込まれて突然やめる」というようなことをしないで、次の準備をしつつ自分の決断で良い時期にやめると言うことです。
いまという時代背景を考えると、「ただ我慢、我慢」では、良いことはないでしょう。

 転職・転校などの大きな判断をするには・・・、
★家族のどもりへの最低限の理解はあること(子供の場合はもちろん社会人の場合も)
★転職の場合は、しばらくの間無職でいられる蓄えがあるか、アルバイトでしのいでいけること(社会人の場合)などの条件が必要です。これはたいへんに重要なことです。

 学校に通っている年齢帯の場合は、フリースクールという選択肢や、大検という選択肢もあるでしょう。通信制の学校もありますね。
 社会人の場合は、主に体を動かす農林水産業などへの転業、収入は大きく減っても都会から田舎へのアイ・ターンなど大胆な変更も考えるなどの柔軟性も必要でしょう。
*いわゆる都会でのサラリーマンがもはや安定職でないことは、おわかりのことと思います。

 これらの判断をするために、人生の危機管理のためにも・・・、
 普段からなんでも気軽に相談できるようなアドバイザー(ホームドクター)としての、臨床心理士や精神科医を見つけておくことが必要です。

 また、これがいちばん重要かもしれませんが、「なんでも話し合える親友」がひとりで良いのでいることも必要です。
*親友を得るためにも、どもりのセルフヘルプグループへの参加はとてもよいことです。

いま考えられるどもり対策は(その1)

 2018年の世界においてもその原因もわからず、したがって有効な治療法(手術・投薬)、確実なリハビリテーション法もないもない「どもり」「吃音」

 太平洋戦争前から「インチキ」と揶揄されながらも、どもりで困っている人たちがほかに行くところがないということもあり、一部の人からは効果があったといわれていることもあって続いてきた「民間のどもり矯正所」の系譜は、ネット社会のいまでも、その形を変えて続いています。
*40~50代以上の方は週刊誌や漫画雑誌に広告が載っていた「東京正生学院」(梅田薫先生)の独特な写真を覚えておられると思います。その前に東京音楽学校(現、東京芸大)の校長、国会議員にまでなった伊沢修二が1903年、東京に作った楽石社がありましたがこれは古すぎるので省略します。

 また、1960年代から始まった民間のどもり矯正所の仲間の集まりを起源とする「セルフヘルプグループ(吃音者の自助団体)」、
 そして小・中学校の通級教室である、ことばやきこえに問題を持った子供のための「ことばの教室」も存在しています。

 それらを回顧しつつ、いまの時点でできるプラクティカルなどもり対策を考えてみます。

徹底的にプラクティカルに考える
 喫緊の課題は、家庭内、学校や職場でのどもりを原因とする「いじめ」「パワハラ」、
 これらは以前からありましたが、より陰湿なものへと変貌しています。
 特にインターネット(SNS)による水面下でのいじめは、いじめられている人のこころを徹底的に痛めつけます。

 家族や同級生、先生などの、まわりの人たちの「共感力の低下」も深刻です。

 90年代くらいまではかろうじて残っていた日本人のよい点、人を思いやる、ご近所で助け合う、親兄弟のお互いを思いやるこころ、
 よく言われる「失われた20年」を経て、「自分さえよければ」という考え方が蔓延してきたように感じます。
 それは、家庭内、学校や企業でのいじめ問題はもとより、日本を代表するような企業がもの作りのこころを忘れたかのような手抜きや嘘をついているところからも実感できます。

いま、どもりを持った人(子供から大人)がいじめにあっている場合、相談できるところ(人)があるのでしょうか?

 子供の場合、「学校の先生」と言いたいところですが、どれくらいの先生が親身に相談にのれるので(乗ってくれるで)しょうか?
 本来の教えるという仕事のほかの業務が多すぎ忙しすぎる先生、
どもりの正確な知識などほとんどないであろう普通の先生

 そもそも、担任の先生にすべてを求めるのは酷です。
 子供のメンタルサポート、クラブ活動、雑用は他の専門スタッフに任せて、先生は教えることに専念できるようにしないと教育が壊れます。

 「親」には、それ以上に相談できない相手であることが多いです。
 一般のいじめ事件と同じように、「親には心配かけたくない」ということと、
それ以上に、もともと、どもりのことを言えないか、過去に言ったのにまともに受け取ってもらえなかったということから、「今さら」ということで、
どもりを原因とするいじめの事実を言えないかもしれません。

 その場合に、本人や家族が相談できる(すべき)、そして利用すべき現実的な選択肢として浮かんでくる言葉は?
*学校にはとりあえず相談はしているとして・・・(やりとりは必ず小型録音機で録音する必要があります)

「いのちの電話」、「法テラス、」「児童相談所」、「弁護士会」、「警察」、「マスコミ」、「精神科医」、「言語聴覚士」、「スクールソーシャルワーカー(まともに稼働しているのでしょうか?)」くらいでしょうか?

(続きます)

吃音:どもりのために、人(他人)との関わりから遠ざからないようにすること(再掲載一部改編:初掲載は2012年5月8日)

 日常会話において意思の疎通に支障が出るくらいの重さのどもりを持っていると、
 または、傍から見て気づかないような軽いどもりでも、本人がそれを気にして日常生活に支障が出たりしている場合などは・・・

 そして、そういう状態で、学校や職場においてどもることによる恥ずかしい思いやどもりにより何かができない・よくできないという負の経験を積み重ねるにつけて・・・
 どうしても「人と話したくない」「人とあまり関わりたくない」と思うことが多くなってきます。(あたりまえですね)

 人と話すということは、自宅で朝起きて「おはよう!」というところから始まるのですから、そのことばがどもる(次に発することばもどもりそうだと心配する)ということは、どもりの苦しみ悩みに24時間支配されているということになります。
*24時間としたのは、悩みが深くなると夢のなかにもどもりで悩んでいる自分が出てくるということです。

 結果として、学校の勉強にも職場での仕事にも積極的に関わることができなくなります。

 学校の成績が下がったり、学校に行きたくなくなったり、仕事が円滑にできなくなったり、同僚に迷惑をかけるようになると・・・、
結果として、不登校や、出社拒否、引きこもり、そして、うつ病と進行してしまうこともまれではありません。(私も経験しました。)

 ほんとうは・・・、
「人と関わりたい、自分の能力や学んだことを生かして学校でも活発に発表したい」「職場でも、電話を駆使してバリバリと働きたい」
と思っているのですが、

 現実の自分は・・・
★電話をかけるにも、買い物をするにも、必要な言葉や自分の名前がなかなか出てこない、どもり特有の大きくくり返しをしてしまい、とても恥ずかしい思いをしたり自分の意思が伝わらないもどかしさを日常的に感じている。
★学校での発表や仕事上のトークでも大きな支障が出てしまい、仕事がうまくいかない、同僚に迷惑をかけた、学校の成績が落ちた。

 こんなことが続くと、本当は努力家で明るい性格の人も、引っ込み思案で暗い人になってしまいます。

 どもりでない人は、このような吃音者の気持ちが全く理解できないと思います。

 以前、建設会社のショールームで色の濃いサングラスと体におもりを装着して、家の中の段差がいかに危ないかという高齢者体験をしたことがありますが、
 どもらない人がどもり体験をしたいならば、
★家庭内でも買い物のときも、もちろん学校や職場でも、人と話すときには必ず最初の言葉を出す前に「えーと、えーと、と繰り返しながら5~10秒くらい待ってからやっと最初の言葉をしゃべり出す、
★自分の名前や会社名を言うときには、対人でも電話でも、わざと最初の語を繰り返して、「さ、さ、さ、さいとうで、で、です」と言うなどの体験を半日くらい継続してやってみれば、吃音者の悩みが分かってくると思います。
「どもっていても良い」などとは簡単には言えなくなるはずです。

 そういうことを踏まえたうえであえて言うのですが、
「それでも、人との関わり(それもできるだけ言語を介した関わり)を絶やさないでほしい」と思います。

 仕事をしていない方や、なかなか正式な就職活動をする気持ちになれない方は、ボランティアからでも良いでしょう。
 農作業などのボランティア、体に障害を持っている方のためのボランティアなどを通じて自分のしたことが人のためになる体験をし、徐々に自己肯定感を高めていって、次第に言葉をメインに使うボランティアや仕事の方に移っていけば良いと思います。

 言葉は使わないとさらに調子が悪くなりますし、人と関わらないと対人恐怖的な傾向も出てきてしまいますので、少しずつ自分のおしりをたたいて(できる範囲でちょっとずつ無理をして)進めていってください。
*リスク管理のために、是非、なんでも相談できる精神科医や臨床心理士を見つけておいて、定期的に相談しながら行いましょう。

子供の頃からの吃音体験とトラウマ(心的外傷)について(再掲載一部改編:初掲載は2008年12月3日)

 子供の頃から(ものごころついた頃から)どもっていて、小学校の低学年くらい(早い場合は幼稚園の頃から)から徐々に意識し始め、高学年になる頃には悩みが高じて劣等感の固まりになっている。

 子供のときから、このような典型的などもりをもっている場合には・・・、
 それもある程度以上の重さのどもり(学校の授業や、友達との会話、電話、家族間の会話でどもることにより意思疎通の問題が発生する)を抱えている場合、
 または、傍からみてわからないくらいの軽いどもりでも、本人がそれを気にして悩み、毎日が生きづらくなっている場合、
 または、子供の頃の家族の無理解、過剰な注意、からかい、などで、本来、唯一の休息の場である家庭が休息できないどころか苦しい場になっている場合

 そのこどもが成長していく過程において、実に様々な「逆風」にさらされていくわけです。

 その逆風が自分にとって耐えきれないようなものである場合、
 例えば学校で「何かのリーダーになり、大勢の前で大きくどもって笑われた」などの象徴的な経験をすると、単なるどもりで恥ずかしいという域を超えて、その後の人生に大きな悪影響を与えてしまうような「トラウマ」となります。

「逆風」について
 まず、さらされる可能性があるのが家庭内での逆風です。

 親御さんが、2~3歳くらいになりどもりだした我が子のしゃべりに違和感を感じて病院(近くの小児科)に連れて行くとしましょう。
 多くの場合は、先生から、「そのまま様子を見ましょう、あまり気にさせないように優しく接してください。」くらいのアドバイスです。

 そのままでも、かなりの確率で小学校に入るくらいまでに自然治癒します(といわれています)が、学校に入るくらいの年齢になっても治癒せず、ますます重くなってくると、親としてはどう対処したら良いかわからずプチパニック状態に陥る場合もあるでしょう。(そこまで関心がない場合もあるでしょう) 
 ネットで調べても優良な情報はほとんどなく困り果ててしまいます。

 このようなときに、家庭内が「暖かい雰囲気」ならば良いのですが、
 家族間でけんかが絶えないトゲトゲした関係だったり、また、おじいちゃんおばあちゃんが中途半端に子育てに介入してくる環境の場合には、どもりで悩み出した子供が自宅のなかでもゆっくりとできなくなります。
 最悪の場合が、親やおじいちゃんおばあちゃんがどもっている我が子や孫に対してしゃべり方を直接に注意する場合です。
 「もっとゆっくりしゃべりなさい」などと言い、また、言い直しさせるのは最悪です。

 幼稚園や小学校にはいると、子供のつきあいの範囲が急激に広がります。
 いまは少子化が進行し、都市部では近所の子と外で遊ぶなどということはむかしばなしとなりました。
 母親との2者の関係から、いきなり、幼稚園や小学校でクラスメートとの大勢でのコミュニケーションをしなければならなくなります。

 幼稚園内や学校で授業中や友達と遊んでいるときにどもると、まわりの子供たちはいっせいに笑い出します。
 悪意はない笑いかもしれません。
 しかし、どもっている当事者からしてみると、この場にとどまることができないほどの恥ずかしい思いをする場合もあります。
 無理してピエロを演じ笑いをとろうとする場合もあるでしょうが、そのようにしている子供の胸中は・・・ですね。

 このような人生をその後も長く送っていると、自分ではそれほど意識しなくても、少しずつ、しかし確実に、心の奥底に(劣等感、はずかしさ、過度の緊張などの)負のパワーが蓄積されていきます。
 心の底の負のパワーが増してきて自分のキャパシティーを超えると表面的にも繕うこともできなくなります。
 そうして、学校や会社に行けなくなったり、うつ病などの深刻な心の病気が発症したり、病気として体に異常がでる場合もあります。

ある程度以上の重さの吃音を持ちながら現実と対峙し生きていくこと(再掲載一部改編:初掲載は2012年9月16~17日)

 こどもの頃(2~3歳)から始まることの多いどもり、
 それも、傍から見てはっきりと「どもり」とわからなくても、まさか、この人がどもりで悩んでいるとはわからないくらいのごく軽くみえるどもりでも、その人は24時間常にどもることを意識し悩みながら生きていることがあたりまえのようにあります。
*ごく希な例だとは思いますが、親や兄弟などの家族がどもりに理解がある場合、つまり、どもりで悩んでいることを積極的に知ろうと努めてくれて、家のなかだけでも安心してどもれるように工夫してくれたり、また、学校などの外の世界でどもることにより恥ずかしい思いをしたことなどをフランクに話し合えるような家庭環境があれば、それで「どもりが治る」ということではありませんが、どもりの悪化の防止、どもることに対するこころの耐性を高めることができるでしょう。

 さて、こどもの世界はある意味容赦のない世界です。
どもれば笑われからかわれるし真似されます。いじめられることもあるでしょう。

 無邪気な笑い・からかいは昭和の時代からありました。
 むしろ、そういう小さな逆境をこどもの頃から経験することにより、いろいろなことを学び自我を形成していくこととなりました。
 しかし、いまの「いじめ」は、最悪の場合、死に至るような執拗で人の道をはずれた犯罪となる場合があります。
 そのようないじめもまれなことではなくなりました。
 どもりを持っているこどもを持つ親や、担任の先生、また、相談を受けている専門家は、そんなことがあたりまえのように起こるいまの日本に住んでいるということを考えながらサポートしていく必要があります。

 現実の世の中は競争により成り立っているところが大です。
 学校の勉強も、スポーツも、社会に出てからの仕事も他者に評価されることにより成り立っています。これが現実です。
 またそれがある故に達成感を味わったり、敗北感を味わいます。

 物事がうまくいかず結果が出なかった場合には、その失敗がやがて前向きな努力へとつながるのがあるべき姿ですが、現実はどうでしょう。

 いまの日本では同じスタートラインにも立てなくなっている人が多くなっています。というよりも、スタートラインにすら立てない人もいるでしょう。
 スタートラインに立てたとしても、たった時点ですでに大きく後れをとっていて、挽回するには差がつき過ぎている場合も多いのです。

 以前にも書いたことがありますが、ある程度より重いどもりを持っている吃音者は、かつての高度成長期の日本においてもたいへんな就職難でした。
 電話がまともにかけられない・挨拶をはきはきとできないという状況では、事務系や営業系の仕事にはかなり大きな支障が出ますので、採用する側も困るし、応募する方からしても敷居が高くなります。

 しかし、かつての日本、私が小さなこどもの頃の昭和40年代末くらいまでは、東京近郊の都市でも、いわゆる「会社」に入らなくても、家業を継いだり、商店街の小さなお店で働いたり、農業に従事することにより人並みの人生が送れるという、地域社会にビルトインされた吃音者を守る仕組みがありました。

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(その2)吃音を持ったままの小学生は

 どもりを持った状態で小学校へ入学した場合、それも授業中に指名されて発表するときや教科書をひとりで読むときに、休み時間に友達と話すときも・・・
「最初のことばがなかなか出てこない(ブロッキング)」
「同じことばを繰り返す(ぼぼぼくは)」
「意味のないことばを発してからでないと本来発したいことばが出てこない」
 ・・・などの症状がある場合は、次第に自分がどもりという言語障害を持っているとこを意識せざるを得ない状態になってきます。

 それは、どもる度に、「友達から笑われる」、「真似をされる」、「先生からも『ゆっくりと落ち着いてしゃべりなさい』などと注意される」
 ・・・こんな毎日の繰り返しから、自分がどもりであることを否応なく意識させられるのです。

 どもらない人から見れば、「ことばがつっかえる」くらいの意識しかないでしょうが、しゃべることが怖くなるのです。「次のことばが出るだろうか」「またどもって笑われるだろうか」と。

 私の経験をいえば、小学校高学年の頃のことでいまでもはっきりと思えているのですが、担任の先生が発表の順番と教科書を読む順番を決めるために小さな棒を2本用意してその棒を持っている人が次の順番という約束事がありました。
 例えば土曜日にその棒が私の前の席の子のところにまわってくる。
土曜日はなんとか発表しなくて済んだ、助かった。
(土曜も午前中だけ学校がありました。)

 しかし、日曜日の夜は超ブルーです。
「明日、発表しなければならない、教科書を読まなければならない」
「またドモルだろう、いっそ死んでしまいたい」

 いまの小学生がどもることで、私の頃とは比較にならないような陰湿ないじめを受けていたら、どれほど苦しいだろうかと心配しています。

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(その3)吃音を持ったままの思春期以降の現実は・・・

 青春まっただなかの中学・高校生活。
 しかし、楽しいはずの友達との会話も、どもりどもりではなかなか要領を得ない。
授業中の発表も、最初のことばすらなかなか出てこずに、思わず「わかりません」と言って楽な方に逃げてしまう。
 一生懸命に答えてみても、どもりながらようやくしゃべる姿をクラスメイトは大笑い。家に帰る頃にはこころも体もヘトヘトで、どうにかなってしまいそう。(勉強どころじゃありません)
 こんな毎日を過ごしている人も少なくないはずです。
*クラスで陰湿ないじめにあっている人もいることでしょう。決してひとりで悩まないでください。良い方向には向かいません。学校の先生が信用できないのならば直接警察に相談しましょう。

 私の場合は中学に入ったとき、なぜか学級委員長に推薦されてしまいました。
それでなくても新入生で緊張しています。どうしようか、逃げ出してしまおうかと・・・
 しかし、中学校生活が始まってみると、小学生時代のどもりがうそのように治っていきました。

 授業中の発表も、「すらすら」とまではいかなくてもほぼ問題なし、各種委員会での学級委員長としての発言もクリアー。電話もほぼすらすら。将来が一気に明るく見えてきてうれしくてたまりませんでした。
 当然、成績もうなぎ登りでした。もともと目立ちたい方だったので、うれしくてたまりませんでした。

 しかし、2年の夏を過ぎると突然のぶり返し
 授業中に指名されても立ちんぼで、最初の言葉がなかなか出てこないことが増えて来ました。
 小学生の頃の自殺すら考えるような苦労がふつふつと思い出され、次第に精神的に追い詰められていきました。うつ状態に陥っていったのです。
*いま思うと(いまだから言えることですが)、この頃に自分の思いの丈を話せる心理カウンセラーやどもりに精通しているSTが身近にがいてくれたらその後の人生は大きく変わったはずです。もっとも、昭和の時代にはスクールカウンセラーなどはいませんでしたし、精神科にかかろうなどとは夢にも思いませんでした。(その頃は、精神科イコール金網のついた病室くらいの認識しかありませんでした。)

 結局、高校受験時は面接がイヤ(怖くて)で公立高校一本で受けました。
 当時は学校群制度でしたので、私の成績ならば、しくじっても学校群自体には落ちないだろうということで担任も認めてくれましたが、担任にも、「どもりのために私立を受けない」などとは言えませんでした(親にも)

 高校時代は地獄でした。進学校だったこともあり競争のなかに完全に取り残されていく自分を感じながら、どもりはますます悪化。授業中はいつ指されるかビクビクで精神的に最悪な状態に陥っていきました。いま思えば完全に「うつ病」です。
 こんな状態に陥っていても自殺しなかったのは、若い柔軟性のある心と体だったからでしょう。
*いま悩んでいる皆さんは、かつての私のように我慢してはいけません。
いまでは精神神経科の病院も敷居が低く行きやすくなりましたし、どもりの人のセルフヘルプグループもある、不完全ながら言語聴覚士という専門家もできてきました。

是非、できることからできるだけの対策をしてください。
*時間を作って、「その後」も書いてみたいと思います。

吃音:自分の子がどもりで悩んでいる(いた)ことを知らないという「あたりまえ」のこと

 今回のテーマはどもりではない一般の方にはわからないかもしれませんが、どもりの当事者にはすぐにわかってもらえるはずです。

 子供の頃よりどもりで悩んでいて、
 しかし、親には自分のどもりを知られたくない、どもりで悩んでいることを知られたくない・・・
 知られたくないために、家のなかではどもりそうなことばは話さない、
そもそも口数を少なくしている、
 したがって親は自分の子供がどもりで悩んでいる(いた)ことを知らない・・・

 こういう家庭が相当の数あるはずです。

 なぜなのか・・・、
 かつて自分のどもりについて親に話し始めたか話そうとしたが、
「相手にされなかった」、「まともに聞いてもらえなかった」、「話す雰囲気ではなかったので話せなかった」・・・

 こんな吃音者が大人になり、就職しようとするか、就職してから、学生時代までとは明らかに違う「食っていくために真剣勝負で話す・交渉すること」になり、
比較的軽かったどもりが一挙に表面化・悪化して仕事に差し障りが出始め、仕事にならなくなり、最悪の場合力尽きて自殺してしまったりするのです。

 ここ数年でも、仕事に絡んだ吃音者の自殺が複数件報道されていますが、
その経緯ををしっかりと検証することによって、どもり始めた子供の頃からの、サポート体制(どもりの子供のいる家庭の専門家によるバックアップ、小中学校のことばの教室の根本的な見直し・拡充、高校生以降の吃音者に対する継続的・専門的なバックアップの確立)の確立が必要です。

*学校で陰湿ないじめにあっていても、それを家族に言えずにある日突然自殺してしまうことにも似ているかもしれません。

僕らは奇跡でできている

 テレビは決して見るほうではなく、でも「私はテレビなど見ません」などと拒絶するほどでもない私は、ワンクールで一番組ぐらいはドラマを続けて見ている感じでしょうか。

 今回のクールでは、高橋一生主演のフジテレビ「僕らは奇跡でできている」を見ています。
 高橋一生が演じるところの都市文化大学動物生態学研究室講師の相河一輝(あいかわかずき)は、まわりの空気を読めなかったり、でも自分の好きな分野に関しては膨大な知識があり・・・と発達障害(アスペルガー症候群??)を持った男性(20代後半の設定か?)のように見えます。

 このドラマの暖かさは、「できないことをあげつらっていくのではなくて、できることを見つけていく」ことで、
彼(一輝)の純粋な行動や言動が、まわりに良い意味で拡散していく過程を描いているように見えます。

 自分らしい生き方ができている、確かに限られた範囲でかもしれないが、生きることができている・・・
 たいへんすがすがしさを持って毎回見ています。

 こういうふうにできていけば、世の中変わっていくなあ~と思いながら楽しんでいます。(高橋一生、なかなか良い演技です)

吃音といじめ(本日、毎日新聞に記事が載りました)

 本日(2018年11月19日)付けの毎日新聞(インターネットにて閲覧)に、どもりでいじめられている中学生の記事が載りました。

 いじめの詳細に関する記述はありませんが、笑われる→そして、いじめられるという構図があたりまえのように浮かんできます。
 直接のいじめのほかにSNSによるネット上でのいじめもあるのがいまの世の中です。
 それらの現状に対してあまりにも遅れた、不誠実な、そして自己護身に偏った学校側の対応は、一般のいじめによる自殺の事件報道でもわかっています。
*今回は通学も滞りがちということですが、悩んで自殺という最悪の事態だけは避けられているようです。

 記事にある「新学期の自己紹介で笑われる・・・」、というのは、1970年代の中学生だった私にとっても(それより前の子供にとっても)年度替わりの頃のいちばんの心配事でした。
 今回の中学生はクラブ活動でも、どもることを笑われていたとのことです。

 新学期になり当然ある自己紹介が近づくにつれて、
「また、今度も名前も言えずにどもってしまうだろう、みんなから、先生からも笑われてしまうだろう」という予期不安が日に日に増大して苦し日々が続いていきます。
 私の場合は、地球がなくなってしまえば良いなどと空想の世界に逃げ込んでみたり、自殺したい、と考えるような少年でした。
*しかし、傍から見ると、明るい性格のちょっとどもるくらいの少年でした。

 そして、自己紹介の当日には緊張は最高潮に達します。
 事前の予想通りに「自分の名前なのに最初のことばすら出てこないか、どもり特有の繰り返しの発音になってしまう」という結果に終わります。
そして、これも事前に思っていた通りにクラスメイトから大笑いされます。
 新学年で自分がどもることを知らない新しいクラスメイトからの容赦ない笑いです。(先生も一緒に笑っていることもまれなことではありません)

 今でもほとんどの人が「この人はあがり症なので(気が小さいので)どもってしまう」くらいの稚拙な知識しかないのも実情です。
 世の中の人の多くがこの程度の理解だと思います。

 今回のことで学校側の対応が、30年、40年、いや50年以上前と全くかわっていないこともあらためて確認することになりました。

 私の頃(70年代~80年代)もいじめはありましたが、今のいじめはその頃のそれとは異質です。さらに陰湿でジメジメしています。人の心がささくれだってしまっているのでしょう。 
 さらに、ネットの普及によるSNSを通じてのいじめもあり、たいへんなことになっていますが、ただでさえ対応できない学校や教育委員会に期待するのがそもそも間違っているのではないでしょうか?

 学校や先生方と利害関係のない別組織を立ち上げて強力な権限を持たせて、いじめ問題に対処してほしいと思います。

 まったく・・・、いままで、どもりを取り巻く人たち「言語や心理の専門家と言われる人、学校、教育委員会、文科省、そして吃音者自身(私も含む)」は何をしていたのでしょうか?
 不作為の罪は重いです。

吃音:ボーダーラインの人々(たびたび再掲載一部改編、初掲載は2008年7月26日)

 「ボーダーライン」といっても、今回は「境界性人格障害」の話ではありません。
どもりを持ちながらもギリギリで生きている人の話です。
 また、いろいろな事情から、無理をしてギリギリで生きていかなければならない人々の話です。

 私はよく「どもりの重さ」をテーマにしますが、重い人は重いなりに、軽くても軽いなりに、「生き方」や「就く仕事」を厳選できれば、(そんな立場に居ることができれば)、
 さらに、家庭や職場などの好意的なバックアップがあれば、どもりをもちながらでも、それほど大きな苦しみを感じることなく生きることができるかもしれません。

 しかし、現実には・・・、
 経済的事情などから自分のどもりの程度を超えて「無理をしてでも」言葉を使う(営業などの)仕事をしなければいけない状況に置かれている人はいくらでもいるでしょう。
そのような方たちは、常に強いストレスを感じながら生きることを強いられます。

 今日をなんとか生き抜くために(家族を守るためにいまの職場でのポジションを守るために)、会社に行く前に毎日早起きして自分の部屋の電話機の受話器を取りメンタルリハーサルを行なう人。
 夜間や休日に仲間のところに電話をかけてきて、「うまく言えない会社名や仕事のトークの練習させてくれ」という人。
*それはうつ病を抱えながらも家族を守るために、精神科に通院し薬を飲みながらも仕事を続けざるを得ないサラリーマンに似ているかもしれません。

 私は、そのような人々に否定的な言葉を発することはできません。
ましてや、どもったままでいいとは口が裂けても言えません
 現実を生き抜くためには、自分の置かれている世界で人並み以上に「適応していくこと」が否応なしに求められるからです。
 こんな現実を無視しての議論は空虚なものに思えます

 こんな例もあります。
 子供の頃から家族にはどもりで悩んでいると思われていなかった、少なくても家族からはそう見えていた・・・、
 それが学校を卒業し就職し仕事を始めると、あたりまえに電話をする、あたりまえに顧客と交渉をするという厳しい環境に置かれます。
 第三者からからみてそれほどでもないように見えていたどもりが極端なかたちで頭を出し、電話ができない(できなくなる)、訪問先で自社の社名や自分の名前を名のれなくなってきます。どんどん追い込まれていきます。
最悪なかたちで自殺という結果で終わってしまったケースをネット上でも数件みつけることができます。(過去に書きました)

*今回は社会人について書いてきましたが、学校に通っている児童・生徒の皆さんも、同じように追い詰められている人は多いと思います。