「就職・仕事・職場」などの人生の「現実」を踏まえた吃音の論議が必要です(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2008年6月9日)

 どもり、特に思春期以降の「おとなのどもり」の現実は、専門家と言われている人が「治せない」ことです。
*いまの医学の限界です。仕方がありません。

 一方、矛盾するようですが、思春期以降まで持ち越したどもりでも「改善」されるケースはいくらでもあります。それは、医療の領域ではなくて、吃音者自身が積み重ねてきた民間療法の領域です。

 しかし、その「改善」も、
「どもりでない人と競争しながら働く一般的な企業の事務職や営業職などでの仕事」という位置で考えてみると、一時的なものであったり気休めでしかないことが多いのも事実です。
*治ったか・改善されたかに見えたどもりが突然ぶり返し、場合によってはいままでよりも重くなり、いままでできていた電話や交渉ができなくなること(それで仕事上で追い詰められる)は良くあることです。
*そもそも、どもりとの戦いばかりに心の力を費やしていると、うつ病などの心の病にかかってしまうこともありますので注意が必要です。

 今回はどもりを「仕事」という観点から考えます。

 その仕事は、時給が千円くらいの「アルバイト」ではなくて、
 結婚し家庭を支えて子供を育てていけるくらいの収入を得るための「正社員としての仕事」と「どもり」について考えていきます。
 これは、きわめて現実的な問題です。
*どうして取り上げたかというと、そういうふうに生きられていない吃音者が多いからです。

 学生時代までは、それなり重い場合でも、いじめなどでひきこもらなければ、なんとか卒業まではもっていくこともできるでしょう。
*陰湿ないじめによるひきこもりはどれくらいあるのでしょうか?統計などはありませんが、現実には、どもりを理由に引きこもっている人、つまり、学校にも行っていないし仕事もしていない人は相当数いるのではないかと思われます。

 学生時代まではなんとか形が付けられていた場合でも、学校を出て就職するときには、また、職場では、そういうわけにはいかないのです。
 ある程度以上の重さのどもりを持つ人のほとんどは、仕事に就くときに大きな壁にぶち当たるのです。
*傍から見て気がつかないような軽いどもりでも、自分で悩んで人生に支障が出ていればそれは「重いどもり」です。

 成人の吃音については(いつも書いているように)公的専門機関によるサポートは事実上なく、一般の病院でも有効なサポートは「ほぼ無い」と考えて良いでしょう。
*日本に数カ所あったとしても通えませんね。

 悩んだあげくに、苦し紛れに門をたたくのが、戦前から綿々と続いてきた「民間無資格どもり矯正所(のようなもの)とネット時代のその変化型」か、吃音当事者の集まりである「どもりのセルフヘルプグループ」です。

 どもり矯正所(のようなもの)についてですが、
 そこに通い「改善」されたかに見えても、いざ独力で就職活動をはじめようとして電話をかけたり交渉したりすると、「改善」は気休めでしかなかったことに気がつきます。
*誰かの力を借りて、いわゆる「コネ」で就職しても、入ってからは独力で就職した以上に苦しむと思います。

 それでも「なんとか生きていくため」に無理して頑張るわけですが、ここからが、どもりとの本当の戦いになるのかもしれません。

 就いた(就こうとする)仕事の種類によって言葉を使う場所や頻度は大きく違いますので一概には言えませんが、職場では、あたりまえのように電話をし難しい交渉もします。
特に厳しい競争にさらされている民間企業の営業職などについた場合(ついてしまった場合)には、どもりを持つ人にとっては相当なプレッシャーのはずです

 そのような「仕事の現実」にさらされている人は、「どもってもよい」などという哲学的な議論や矯正所に通って多少の言語訓練をしたところで、それが無力だということをイヤというほど経験させられるのです。

 しかし、またも矛盾するようですが、就職するまでの第一歩としての「民間矯正所での経験(そこの内容ではなくて、そこで知り合った友人たちとの関係です)」や、「セルフヘルプグループで同じ悩みを抱えている方たちとの語らい」の効果は否定できない価値があるのです。

「学校を出ても就職できずに引きこもってしまった場合」や、
「どもりからうつ病になって苦しい思いをした場合」から徐々に立ち直って、重い腰を上げて就職活動をはじめ、はじめて働き始めるくらいまでには、どもりでない人にはまったく想像がつかないくらいの「心の力」を必要としますが、同じ悩みを持つ友との何気ない語らいがそれを与えてくれるのです。

 どもりについては机上の空論ではなくて、
 どもりで悩んで自信をなくしてしまったり引きこもっている人がリスタートし、安定した仕事に就けた時にはじめて「どもったままで良い」という哲学的な議論ができる余裕が出るのだと思います。

「仕事」には、言葉を主に使う仕事もあれば、そうでない仕事もあります。
いわゆるサラリーマンにしても、営業もあれば、技術系、工場勤務もあり、言葉を使う頻度や場所も様々です。
その他、福祉関係、農業・漁業と、仕事は実にたくさんの種類があることを我々は忘れているのではないでしょうか?

 人生は、「こうでないといけない」という世界ではなく、「正解」はありません。いろいろな生き方が可能なのです。
 あまり思い詰めないで、「自分らしく自分なりの生き方をすればよい」、ということも忘れてはいけないと思います。

 ご家族や近くにいる方も吃音者本人を暖かくサポートしていただければ、どもりで悩んでいる人が過度に精神的に追い詰められずに生きやすくなるのではないでしょうか。

吃音:理解してもらえない人たちのなかで自分(の人生を)を見失わないためには(たびたび再掲載:初掲載は2014年12月23日)

どもり・・・、
 それも日常のコミュニケーションに支障が出るような重さや症状のどもりか、
または、傍から見て気づかないくらいの軽いどもりでも自分としては深く悩んでいる場合は・・・、
 どもりでない人にはなかなか理解できないことですが、一年中、24時間が辛い人生かもしれません。
*私の場合は、小学生(3年生くらいかな)の頃からはっきりと自覚し悩みました。授業での発表時や教科書を読まされるときの恐怖から、少しの間だけでも逃れられる週末や長期の休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです。しかし明日は学校のある日曜の夜や長期の休みの最後の日はとても辛い時間でした)
就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました

 さて・・・、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが・・・、
子供の頃からのどもることによる様々な悩みを、いちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)が、実はいちばん分かってくれていないことが多い、ということについて考えます。

 生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。

 特に子供のうちからそれを経験することは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあると思います。

 自分の「努力」の外にある「どもる」ということ。
(緊張しやすいから、恥ずかしがり屋なのでどもるのではありません。一般的にはそんなイメージですね。むしろ、それらはどもることで、あとからついてくる症状です。)

 日常の簡単な挨拶、
 様々な場面(対面・電話)で自分の名前を言うこと、
 授業中に指名されて教科書を読むこと、指名されて質問に答えること、など、

 日常、当たり前のように繰り返されることができないか、できにくいという「どもりという言語障害」の性質を考えるときに、まじめに努力しようとしている人ほど、そのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせるのではないでしょうか。

「下手な治す努力」や精神論は、吃音者をかえって落ち込ませます。
戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた、日本の民間無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。

 いっぽうで、どもり矯正所は、そこでの「訓練」よりも、同じどもりという悩みを持った仲間とはじめて出会えて、こころのなかのことを、なんのためらいもなく語り合えるという意味では「結果的にですが」大きな意味がありました。
 しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)
 いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。

 吃音者を取り巻く環境は、残念ながらいまでも、大きくは変わっていません。
 例えば、街なかに、どもりで悩んでいる人が日常的に気軽に通えるような言語クリニックはありません。
「どもりに精通した言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などがかかわり、どもることによる生きずらさをサポートするソーシャルワーカーなども関わってくれる」
そんな組織(病院、公的機関、など)は存在しません。
*たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的に通える範囲にないと、それはないのと同じことです。

 こんな現実のなかで我々吃音者ができることは

★子供の場合は、学校(小中学校)の通級教室である「ことばの教室」のサービスですが、しっかりと受けられているでしょうか?
 そこではどもりに精通した専門家の指導が継続的に受けられていているでしょうか?
 子供本人ははもちろん親御さんもしっかりとしたカウンセリングや相談が受けられる体制になっていますか? チェックしてください。

★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える自分のことを話せる友人を作ることです。
 そして、必要に応じて彼らと小グループを作りいろいろと動いてみることでいろいろと見えてくるものがあります。

 こども(小・中・高校)の場合は、セルフヘルプグループが主催するこども向けの集まり等を利用して同じ悩みを持つ友人を作ることができますし、親御さんも交流できるでしょう。

★どもりで悩んでいる自分のこころが危機に陥らないように(うつ病などのこころの病気や、不登校や引きこもりにならないように)、危機管理のために、ホームドクター的な精神科医や臨床心理士を見つけて日常的にカウンセリングを受け心の健康を保つことができます。

★家庭内や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ることができます。

 工夫して、少しづつで良いので、良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。

どもり:長く続くコロナ禍で吃音者を取り巻く状況はどうなっているのか?(その2)

 さて、こどもは、学校に行かずに自宅でオンライン授業を受けたり、登校とオンライン授業が半々になったり、この2年近くは実に落ち着かない時間を過ごしたと思います。
*そのこどもの環境も、自分の部屋がある家庭、ない家庭、共働きの家庭、ひとり親の家庭などにより、様々な問題が出ているはずです。

 どもりを持っているこどもにとって、コロナ禍の落ち着かない状況は、当然のように、ことばにも悪い影響を与えているでしょう。
オンライン授業下でのことばのやりとりは、実際の授業よりもストレスを感じているのではないでしょうか?

 そんなどもりをもったこどもに特化したサポートなど行なわれているはずもなく(もしも行なわれていたら教えてください)、ひとりで悩んでいるのは、20世紀(80年代、90年代)と比べても変わってはいないと思います。

吃音 ときには大胆に生き方を変えることも必要です(再掲載一部改編:初掲載は2012年4月3日)

 こどものころより日常生活に支障が出るくらいの重さのどもり持ちがらも無理をかさねて生きている。
 または、傍から見て、注意して聞かないとわからないくらいの軽く見えるどもりでも、本人としては「生きるか死ぬかののところ」まで精神的に追い詰められながら「なんとか生きている」場合もあります。

 21世紀になって20年を経た現在、

★学校においては陰湿ないじめの横行と学校や教育委員会の逃げ腰な態度
★(コロナ禍もあり)さらに厳しい雇用状況、限られた市場を取り合うような余裕のない経済
 のなかでは、過度に無理をした生き方をしても良い結果は得られません。
 無理の先にあるのは、うつ病などのこころの病気にかかることと、追い詰められての突発的な自殺企図です。

 せっかくの人生です。場合によっては、いままでの生き方を抜本的に見直して、勇気を持って大きく人生の舵を切る必要が出てきます。
生き方の変更です。

 子供の場合には「生き方を変える」といっても親の庇護下にあるので難しいのですが、それでも陰湿ないじめなどにあい耐えかねて自殺などしてしまっては取り返しがつきません。
 家族も、それ以降の人生は絶えられないような心の傷を背負うことになります。
*いじめ事件の多さを考えると他人事ではありませんし、どもりを持ったこどもはいじめの格好のターゲットとされるでしょう。
*私も、子供の頃から30歳代半ばまでは「自殺」ということばが常にこころの中にありました。

 ですから・・・、
 場合によっては大きな決断をして、自分が生きやすい環境や将来が見通せる環境に身をおけるように、また、どもることで耐えがたい苦労をしないように、まわりの環境を自分で大胆に変えていくことが必要です。

 例えば・・・、
「どもりを持っている子供が学校で毎日笑われたりいじめられる、先生もいじめ問題に逃げ腰である」
「いろいろと動いてみたが学校側は変わらない・・・」

 こんな学校環境に置かれているのならばいっその事、学校はやめてフリースクールや通信制の学校に変えるという選択肢もありですね。
*経済的な問題も含めて「親の理解がある」ということが前提です。その学校に通うことにより上の学校に進める資格が得られるか?、同時に通信制の学校に通うことで卒業資格を取れるか?など、しっかりと調べてから実行する必要があります。

 大人の場合は自己責任で生き方を大きく変えることができます。
「思いつきは」いけませんが、熟考の後は、しっかりと覚悟を決めてか大胆に生きていくことも必要です。

 例えば、都会でのサラリーマン生活。
 どもりの悩みと会社内の人間関係に疲れ果て精神的にギリギリの生きかたをしていても、結果としてはなにも報われないでしょう。
 それでも、昭和の時代のように定年まで置いてもらえればまだしも、いまの社会では「リストラされて挙げ句の果てに・・・」などということになりかねません。
 中小零細企業ならばなおさらです。

 そんな生き方はやめて地方でつつましく、でも精神的にはゆったりと生きていく、
 たとえ収入は少なくなっても心が解放された人生を送れるようにすることのほうが、自分が幸せになるための近道かもしれません。
*いまの仕事を続けながら、1年以上の調査・準備期間を経て生き方を変えていくような計画性が必要です。

2021年の吃音者

★逡巡するこころを認める
 どもりを持ちながら生きていると、その重さや、吃音者を取り巻く家庭環境・学校環境・職場環境によってもかなり違いますが、
人生のいろいろな場面で逡巡(しゅんじゅん=ぐずぐずすること。ためらうこと。しりごみすること「広辞苑より」)することがあります。

 2021年1月のいまも、どもりのために、
家庭のなか、学校のなか、職場のなかのどもりであるが故の生きづらさに悩んだり、学校や職場に通えずに、また、就職や転職ができずに・・・
自殺をも考えるほど悩んでいる方がかなりの数いらっしゃると思います。
*このコロナ禍ではなおさらです。

 そのようななかで、自分の逡巡するこころを自分で認めてあげること、迷いながら生きていくことを認めることを、
まわりの人はなかなか認めて応援してはくれませんが、自分と(自分のことを分かってくれる人を是非みつけていただいて)自分を守ってください。

★バイデンの逸話
年末年始のテレビ報道で何回か目にしたことですが、アメリカの次期大統領バイデン氏が、子供の頃にどもりで悩んでいたとのこと。
 悩んでいた少年時代のバイデン氏は鏡の前で発声練習をして克服した、とのことと、遊説中に知り合ったどもりの少年との交流が報道されていました。

 この手の報道でいつも思うのですが、
これをたまたま目にした、どもりで悩んでいる人を身近に持つ家族、友人、学校の先生、職場の同僚などが、
「だから君も大丈夫だ・・・」との応援が、かえっていま悩んでいる吃音者を追い詰めてしまうことがあることです。

★吃音者をどのようにバックアップしていくか
 どもりをもって悩んでいるこどもから大人までが、いまの境遇において、できるだけ良い方向に進んでいけるように・・・
どのようなバックアップ体制が今、そして将来に必要か?

 いま必要なことは・・・、
 安心して迷える・悩めることではないでしょうか。

 それには、悩みを心おきなく語れる場所や時間を持てるようにすることです。
 現実的に言って、家族に理解してもらうのはかなり難しいようです。
少し勇気を出してどもりのセルフヘルプグループに通ったり、こころが追い詰められている場合には、いや、そうなる前に気軽に通える精神科医や臨床心理士をみつけてください。

 将来的に必要なことは・・・
何回か書いていますが、精神科医、臨床心理士、言語聴覚士、ソーシャルワーカーがチームとなって、どもりを持つ人を長期にわたってサポートし続けられるように、街なかに気軽に通える「言語クリニック」を作ることです。

吃音:心が折れないように生きる(再掲載:初掲載は2010年1月26日)

 日常生活での会話にも支障がでるような、
 また、学業や仕事においても支障があるような重さや症状のどもりを持っていると、毎日を生きていくなかで常に大きなストレスがかかってきます。
*かつて(昭和40年代はじめ頃まで)は、いわゆるサラリーマンにならなくてもいろいろな職業の選択の幅がありました。私の子供の頃(昭和40年代~50年代)くらいまでは、東京近郊の都市部に住む私の小学校の同級生には、雑貨屋の息子、金物屋の娘、肉屋の子供が少なからずいました。どもりを持っていても比較的生きやすい方法が選択できたのです。

 さて、企業などの複数以上の人間がいる組織で働いていくには、常にスタッフや取引先との(真摯な、そしてときには戦略的「狡猾」な)高度なコミュニケーションが欠かせません。

 まだ学生で本格的に働いたことがない方、
 また、民間企業に比べて仕事上での軋轢の少ない地方公務員などの方にはイメージしづらいかもしれませんが、
「働く」ということは、「どのようにしてお金を稼ぐか常に工夫すること」と、「業務上で日常的に生じるトラブルをどのように戦略的に解決していくか」の繰り返しでもあります。

 相手を言葉で納得させる、
 たとえば、今までは違う会社の製品買っていた顧客に無理を承知で訪問して徐々に自分の会社の製品を買うように仕向ける、とか、
 自分の会社の利益を守るために本当はこちらにも責任の一端があることでもゴリ押しして自分の方に有利に持って行くこと、など、言葉を武器にして戦っていくことが要求されます。
*なぜならば、自分の組織が生き残っていかなければいけないからです。

「私は公務員だから必要ない」と思われるかも知れません。が、
民間企業の社員、その他の仕事の方が、いろいろな矛盾に悩みながら一生懸命に働いて多額の税金を払っているからこそ国は成り立っているのも事実です。

 このように、ストレスばかりの環境で生きていかなければならない吃音者にとっては、実につらい時代を生きているということが言えます。
 それではどうすればいいのか?

 いつも書いているように、どもりはその重さによって人生に与える悪影響が全く違います。

「企業の事務系や営業系で働くということが働くということだ!」などという固定観念を持ってしまうと、「重い」どもりの人には決定的に不利な状況でしかなくなります。

 しかし、第三者から見てほとんどわからないような軽い(軽く見える)どもりをもつ人でも自殺を考えるほどに悩んでいることも多いのです。
「うちの子供は軽いから大丈夫」などと思うことは大間違いです。

 世の中、生き方はいろいろですね。
 幸か不幸か「失われた20年」を経て経済構造が大きく変化した現在では会社員が安定した職業ではないことは明らかです。

 どもりに悩んでなかなか仕事に就けない人が人生の袋小路に迷い込んでいるようでしたら、家族や友人が「違う生き方もあるよ」と声をかけてあげると良い方向に進める場合もありますのでぜひ協力してください。

 (良くあることですが)第三者からみて日常会話ではほとんどわからないような軽いどもりを持っている人が実は深く悩んでいて・・・などという場合には、成長につれていろいろと経験をしていくなかで、どもりは大幅に改善され(もともと症状は軽いので心理的に軽くなるということ)、結果的には社会の第一線でどもらない人と同じように働いていける場合もありますが、同じような客観条件でもそうでない人もいます。
*治ったかに見えた、軽くなったかに見えたどもりが突然ぶり返すこともあたりまえのようにあります。

 どもりのために、「死んでしまいたい」と思い詰める前に、いまの自分を客観的に見つめ直して早めに生き方を根本的に変えましょう。

 子供がいて何十年のマンションのローンを組んでいる場合はちょっと厳しいかもしれませんが、
★例えば、言葉を武器にして過酷な競争下で働くような環境からは離れて、体を動かして働くことが中心の仕事へとシフトしていく。
★都会の激しい競争から離れて地方へ移り住む。

 当然現金収入は減るでしょうから、今までと同じような消費生活はできませんが、どもりを原因としてうつ病になってしまい、何年も精神科に通院しなければならないような生き方よりははるかに良いでしょう。
*「悩んで精神的に追い込まれて自殺」などという最悪の事態に陥らないようにしなければいけません。

 そこまで深刻でないのならば、都会で生きていくとしても、今の仕事を続けながら自分にあった職種をゆっくりと見つけてそちらにシフトしていくのも良いと思います。

 もう少し良い状態ならば、どもりのセルフヘルプグループに参加して(自分で作っても良いでしょう)どもりの辛さを分かち合う友人と交流したり、また、必要に応じて適切な言語訓練を(自分たちで工夫して)行い、仕事の環境にできるだけて適応して自分を楽にしてあげることが必要です。

 スポーツクラブ等で定期的に体を動かして発散したり、太陽光のもとでゆっくりと散歩することも、吃音者に良くある「うつ病」の予防としては有効なことです。

 また、どもりのこと(症状・心理的な悩み)や、どもることのより学校生活や、仕事に問題が出ていることなどを何でも話せるホームドクター的な精神科医・臨床心理士などを持つことで、自分を「生きやすい」方向に持って行くことが必要です。ソーシャルワーカーの活用も有効ではないでしょうか。

吃音:その次にできることは何か

★どもりによる悩み(授業中や友人とうまくしゃべれない、いじめやからかいなど)で、学校に通うことがギリギリの状態である
★どもりによるコミュニケーション障害で、仕事上の電話や会議、交渉などに大きな支障が出ていて、自分だけでなくチームとしての仕事に明らかに問題が出て、精神的にも追い詰められている
*そもそも、どもりのために就職ができない

 いままでも、どもりで悩んできてはいるが、
 まわりの状況が変わるか、どもりが悪化して・・・、
いままでは苦しみながらもなんとかやり過ごせてきたことができなくなり、結果として学校に通えなくなってきたり、会社に足が向かなくなってくること
 どもりを持つ人にとってあたりまえのように起こることです。
 そんなときに、少なからぬ吃音者は自殺を考えます(心に思い浮かべます)
ずばり「楽になりたい」のです。

 そんなときに頼れるのは、同じ悩みを持つ友人
 セルフヘルプグループに参加してみつけてくださいと前回の書き込みでは書きました。
*緊急の場合は、迷わずに精神科にかかり安定剤などを処方してもらい、心の緊急事態から脱してください。医者でもうまくしゃべれなかったら、メモ書きにして先生に渡しても良いでしょう。

それでは、その次にできることはなんなのでしょうか?
次回から書いていきます。

2020年吃音(者)を取り巻く状況

 毎年、年頭にはこんなことを書いています。
 どもりを持つ(子供の頃から持ってきた)当事者として書いていきます。

 2020年といっても、吃音者を取り巻く状況は代わり映えはしていません。

 今日は多くの職場では働き始める日です。(すでに始まっている方も多いかと思います)
 学校も始まります。

 私が思い出すのは、学生のときでも社会人になってからでも、休みに入る前の晩がいちばん安心できて、休みの最後の日の夜がいちばん辛くなりました。
 なぜならば、明日から学校や職場で話すことの恐怖が始まるからです。
しばらく休んでいた分、話すことへの恐怖心が増しています。

 あえて、年末休みに入ってからも(話すことから遠ざからないために)会社に出て電話対応したこともあります。
*このあたりの対応も、どもりの重さの違いで変わってくると思います。

 さて、このブログにコメント(公開・非公開)を寄せていただいた方のなかでも、
★学校でどもってうまく本が読めなかったり会話ができなくて、笑われたりいじめにあったりしたこと
★お子さんのPTAの電話連絡が恐くてできない方、
★職場で自社名すら(うまく)言えなくなり社内ではなくて非常階段や公園で電話する方(それでもどもってしまい顧客から担当の変更を要請されその後うつとなり退社)、
  など、どもりにより辛酸をなめられてきた方の生の言葉が寄せられます。

 そのような状況に対するしっかりとしたサポートシステムが事実上ない状態のまま2020年も始まりました。

★どもりで困っているこどもから大人が気軽に通える、家の近くにある言語聴覚士がいる言語クリニック(精神科医、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどがチームとしてサポートしている)があること

★学校でのどもりによる困りごとやいじめに対応する(こども側にたってサポートしてくれ、権限を持って学校側に意見してくれる)(言語聴覚士、ソーシャルワーカー)などのサポーターがいること

★職場(就職活動や仕事上)でのどもりによるパワハラ等に対応できる、(権限のある)ソーシャルワーカーなどがいること、

 これが吃音に関する「初夢」です!

吃音者のあきらめ(再掲載一部改編、初掲載は2006年12月31日)

 今回は「吃音者のあきらめ」というテーマで書きます。

 最初に書いたのは2006年の大晦日です。
 その後も何回か再掲載していますが、2006年当時にTV朝日系で放送されていた「五木寛之の百寺巡礼」という番組のなかで、五木寛之氏が「あきらめる」という言葉は、仏教的には「あきらかにきわめる」という意味があると説明しているのを見て書き込んだものです。

 「あきらめる」というと一般的には、何かを成し遂げられずあきらめるというマイナスのイメージがありますね。
どもりで言えば、どもるので就職をあきらめる、などという使い方になるのでしょうか?

 しかし、今回言うところの「あきらめ」は、ニュアンスが違います。
 (私の例で言えば)子供のころからどもりに悩み、大卒後もすぐには就職できず、うつ病や引きこもりにまでなってとことん追い詰められてその末に開けてきた境地とでも言いましょうか。

 それは、私にとっては(あくまでも「私にとっては」です)良い意味でのあきらめだったような気がします。
 とことん追い詰められたところで自然と肩の力が抜けたことと言っても良いかも知れません。

 人生において「自分が本当にこだわるべきものや大切にすべきもの」のほかに、
見栄や世間体などから固執している考え方やライフスタイル(それらは実は自分には不要なもので捨ててしまってよいもの)がありますが、それらを自ら捨てていくのは大変に難しいことです。

 自分で自分自身をナイマス評価すること、
 たとえば、「僕はどもりだから○○できない」とか、「もしもどもりでなかったら○○できただろう。でも現実の僕はどもりなのでできない」というような考え方もそれに近いものでしょう。

 今の自分自身をいたずらに否定してみても良い方向に向かうはずもないのに・・・、
でもそこまで追い詰められているのです。
 自分を低めることによって自分の心が崩壊するのを防いでいるのかもしれません。

 どもらない自分ばかりを夢見ていたころの自分のありかたも同じものです。

 実はそれがどもりの症状そのものもさらに重くしたり、重い状態で維持していることの大きな要因だったことを苦しみぬいた末に気づかされたのです。
*というか、力ずくで思い知らされました。
*その後通信制の大学で心理学を学び、カウンセリングの目的のひとつが、クライアントに自ら生きる方向性を見つけさせる、つまり「気づかさせる」ことにあることを知り、私の経験はそれを自ら行なったことがわかりました。

 その後(あくまでも私の場合の「結果として」ですが)、私のどもりは症状的にも、いやそれ以上に内面的に大きく改善されていきました。
*もちろん、悪い条件が重なればいくらでも重いどもりとしてぶりかえすでしょう。

 しかし現実には、「吃音者のあきらめ」のなかで、文字通りの「絶望的なあきらめの状態」に陥っている人も多いのです。

 一時期の私もそうでしたが、あたらしい行動に全く出られないとか、仕方なく惰性で毎日を送っているというような状態に陥ってしまうと、自分の意思だけではそのような状態からはなかなか這い上がれません。
 それどころか、人生自体をあきらめてしまって自らの命を絶とうかというところまで追い込まれている人も少なくないはずです。(私もそうでした)
*生活のために、言葉の苦しさを抱えたままで、働きづらい職場で働かなければいけなかったり、学校でどもることで陰湿ないじめにあっていたりする場合です。

 また「良い意味でのあきらめ」ができれば、皆のどもりの症状が軽くなるということではないのも本当のところです。
 このあたりを間違えると今回のテーマでも「古くさい精神論」が闊歩しますので注意が必要です。
*PTGと言う言葉があります。 心的外傷後成長(Posttraumatic Growth:PTG)
大きな逆境体験のあとに、かえって人間的な深みを増すと言うような意味でしょう。(大きな逆境を経験すると必ず心的に成長すると言うことではありません。)

 どもりが軽くなった人=努力した人、では「まったく」ありません。
 どんなに一生懸命に生きても、言語聴覚士のサポートを受けても、精神科医のカウンセリングを受けても、どもりの表面的な症状は全く変わらない方はいくらでもいらっしゃいます。(大多数がそうです。)
 そのような方たちを「努力不足の人」「どもりが治らないかわいそうな人たち」などと考えてしまうと、今回の「あきらめ」というテーマからも決定的に外れてしまいますね。

 いままで書いてきたようなことを踏まえた上で、多様な症状や家庭的・社会的バックグラウンドを持つ吃音者をサポートするために、どもりのセルフヘルプグループ、また、言語聴覚士、精神科医、ソーシャルワーカーなどの専門家が存在するべきです。

吃音者が自己肯定感を取り戻すことの重要性(たびたび再投稿、初投稿は2008年6月13日)

 日常生活に明らかな支障があるようなどもりを持ったまま子供の頃から人生を送ってきた人は「自己肯定感が足りない」と言われます。
 当たり前ですね、子供の頃から繰り返される、どもることでの様々な苦労を経験するごとに自信をなくし、場合によっては人生そのものについても自信をなくしてしまうかもしれません。
*かつての私がそうでした。
*傍から見た症状は軽くても(ほとんどわからないくらいでも)、自殺を意識するほど大きく悩んでいることがあるのがどもりという障害の特徴です。家族の前ではどもりにくい最小限のことばしか発しないでごまかしている子どもでも、学校では言うべきことは言わなければいけません。指名されれば本も読まなければいけませんし、どもりながらでないと言えないことの多い「自分の名前」も言わないわけにはいけません。陰湿ないじめに遭うことも多いでしょう。

 いかに、「自信」を取り戻し(自信を持ち)、今までの自分の生き方が間違っていなかったか(そのときの自分でできることを自分なりに精一杯してきた)と思えるか、
 いままでに、どもることにより立ち止まって悩んだり生活や仕事がうまくいかなかったことを「ただの無意味な時間の浪費」と思って後悔していることが、実は自分の人生において「必要な時間」であったかを確認すること(こころから思えること)が重要ではないでしょうか。
*「自信」などという言葉など想像できないほど、落ち込んでいる、悩んでいる吃音者も多いことと思います。(私もそうでした。)
時間が必要ですね。

 さて、小さな頃からどもりはじめた「生活に支障があるくらいの重い」吃音者のなかには、小学校の頃からすでに強烈な劣等感を持っている人がいます。(というよりも多数派かもしれません。)
 笑い話にもなりませんが、幼稚園の頃より、どもることの強烈な劣等感からすでに「自殺」を強く意識していたという若い女性に会った時にはちょっと驚きました。

 私の場合は小学校3年くらいにはどもりをはっきりと自覚して、「恥ずかしいもの」「なるべくどもらないように話さなければいけない」「大人になれば自然に治る」というような感情や考えを持っていました。
*持っていました、というよりは、持たされていました、と言った方が正確です。

 どもりの人がどれくらい劣等感を持っているか、自己肯定感が足りないか、というのは・・・、
「どもりの絶対的な重さ」、
「育った家庭環境(親を含む家族が理解があったか)」、
「学校の先生が理解がありサポートしてくれたか」、
などというように、
「どもりの症状そのもの」に、「取り囲む環境」がプラスされてできているものと思われます。

 小さな頃より(悪い意味で)自分の心の中に育ててきた劣等感がプラスされた「どもり」というこの複雑な障害に対応しなければならない言語聴覚士などの「専門家」といわれる人たちも大変です。学際的な豊富な知識や臨床経験が要求されます。
*現実には「どもりに対応してくれる施設や人が身近にいる場合」の方が圧倒的に少ないと思います。

 現状では、特に思春期以降の吃音者に対しては、事実上、相談機関や治療施設がないことは、吃音で悩んでいる本人やご家族ならばおわかりのことと思います。
*たとえ全国に数カ所あったとしても「通えない」のならば、それはないのと同じことです。

 バブル崩壊以来の失われた20年を経た日本では、「うつ病」がたいへん大きな問題となっています。国民病とさえいわれています。
 首都圏では(大阪圏でも)、毎日のように電車の人身事故がありますが何かの原因で精神的に追い込まれてうつ状態の人が多いことが実感されます。
 うつ病は、新聞やテレビで言われているように「精神科医にかかれば治る」などという簡単なものではなくて、現実には何年たっても同じような症状に悩んでいる方が多くいらっしゃいます。

 背景のひとつには、精神科の診療において、先生とゆっくり話すことができないような診療で、結果として薬のみに頼ることが多いことがあると思います。
*NHKなどでも、何度も、うつ病の特集番組が組まれていますが、そこで指摘された問題点(投薬に頼らずに充実した心理療法を受けられるようにしなければいけない)が改善される様子はありません。

 患者本人やそれ以上に家族の希望もあり、(主に経済的な問題から)以前の職場に復帰することを目指しますが、結局は会社を辞めるというケースが多いのが現状です。
 なぜならば、うつの背景が職場内でリストラされるではないかという恐怖心によるものだったり、リストラが一段落し社員が減った職場でのハードな仕事に耐えかねてなどの「仕事由来」が多いので、本当は、うつの急な症状が落ち着いてから「仕事を変えるくらいの根本的な生き方の変更」が必要とされているのに、そこまでなかなか踏み切れないうちにかえって症状は悪化し、結局、会社も辞めざるを得ないという最悪のパターンが多いのです。

 どもりの場合も、この「うつ」と似ていることが多いようです。
 たとえば、ある程度以上の重い吃音を持つ子供にとって学校は地獄です。
 なにしろ、一日中教室にいて同じメンバーのなかでどもっている自分を披露し続けることの繰り返しなのですから・・・。
「自己肯定感を」と言っても無理な話ですね。自信を失うために登校しているようなものです。
*特にいまの人心の荒廃というか、お互いに傷つけあうようなことが多い世の中ですからなおさらです。

 いまになって冷静に考えているから言えることかもしれませんが、無理をしてまで普通の学校(私の場合は高校時代がいちばん辛かった)には通わずに、どもりで本当に辛かったらフリースクールか受験予備校などの自習体制で勉強した方が、心の問題においても、また、受験にも遙かに良かったと思っています。
 若い頃の数年のドロップアウトなんて、後から思えばなんてことないのですが、その頃はわからないものですね。

 学校卒業後の就職について考えてみても、「自己肯定感を高めていけるような職業」につかないと、
 つまり、「どこかに少しでも良いので自分が認められている、役に立っている」と感じられるような仕事につかないと、自己肯定感がさらに低くなり生きるのがいやになってきます。

 なぜかというと、どもらない人にとってはごく当たり前にかける「電話」について考えてみても、ある程度以上の重さのどもりの人にとっては「地獄の苦しみ」となるからです。
 本当は、話すことが苦手ならば電話を頻繁に使うような仕事にはつかず、ものを作ったりするような「話すことをメインの道具として使わない」仕事につくのが賢明な選択ではないかとも思います。
 就いた仕事や入った会社が一般的に言われる「有名会社かどうか?」ということではないのです。