吃音の苦労によりかたくなになりすぎたこころをほぐして生きやすくしていくこと(再掲載一部改編:初掲載は2013年11月7日)

 人はどもりによる耐えがたい苦労を積み重ねれば積み重ねるほど、自分を守るために、そのこころをかたくなに閉ざしていくことがあります。

 結果として、自分の意に反したような生き方(職業の選び方、友人関係の結び方)をしてしまうこともあります。
*セルフヘルプグループなどの吃音者の集まりで、和やかに話していた方が自分のことになると突然ことばが少なくなることがあります。

 自分のこころのなかでは、不自然な(無理な)考え方・生き方とわかっていても、そのように思い、そのような生き方をしようとすることにより、こころがどもりによる苦労のために崩れてしまうのをギリギリのところで防いでいるのかもしれません。

 その形(無理をした生き方)は人により様々です。
★「私はこういう生き方なんだ」と、傍から見てどう考えても無理な(無茶な)生き方(考え方)をしようとしている方
★「私はこれでいいんだ」と、いまの不自然な生き方(ライフスタイル)を(端から見ると)無理に肯定してそこに逃げ込んでいる方

 ほんとうは良くない考え方、無理な考え方・生き方とわかっていても、そうせざるを得ないところまでこころが追い込まれているのかもしれません。

 どちらの場合も、一時的にはこころの平衡が保たれているかのような錯覚に陥りますが、中・長期的にはさらに追い込まれてしまいます。

 こんなことにならないように・・・、
例えば、
★どもりのセルフヘルプグループに参加して、いろいろな症状や重さのどもりを持ち、いろいろな環境で生きている様々な年齢層や立場の異なる吃音者と接して、自分(のどもり)を客観視できるようにすることです。
そして、そこで、何でも話せる友人(親友)を(ひとりで良いので)作るように努力しましょう。

★ホームドクターとしての精神科医・臨床心理士を見つける
ぴたりと自分に合った先生を見つけるのは難しいですが、先生に頼り切るというよりも、「自分を客観視できるように」第三者的な目を提供してもらうのに役立ちます。

★これはいちばん難しかもしれませんが、家族にも最低限の理解をしてもらえるように働きかけていきます。(しかし家族には大きな期待はしないことも自分の心を守るために必要です。)

吃音:「小学生の頃」、「吃音を持つ子供にとっての思春期は」、「吃音者にとっての思春期後期」 (再掲載一部改編、3回分:初掲載は2010年5月19、20,21日)

★小学生の頃★
 どもりを持った子供が自然に治らずに小学生になり、徐々にどもりであることを意識し始める2~3年生、
授業中に先生に指名されても本が(うまく)読めなくなり、
先生の質問に答えようとしても、最初のことばがなかなか出てこなくなるなどのことが続くと・・・、
そのどもりは「単なる症状」の域を超えて2次的な「心理的などもり」へと進んでしまいます。
*人によってはもっと小さな頃からこうなることもあるでしょう。

 その背景には他者の関与があると思います。
学校では、どもるたびに同級生に笑われたりまねをされることもあるでしょう。
 そのようなことをする同級生に先生が注意をしたとしても、注意の仕方によっては、かえって陰湿ないじめになるかもしれません。(ネットも含めた)

 そのうえ・・・、
 学校から家に帰ったときに悩みを素直に打ち明けられるような家庭ならば良いのですが、忙しいことを言い訳に我が子の悩みに無関心を装ったり、かえって厳しい言葉を発してしまうとか・・・、

 どもる度に「ゆっくりしゃべりなさい」と注意、どもったことばを言い直しをさせるようなことで、かえってどもりを過剰に意識させるようになってしまいます。

 この時期は、本人の心構えというよりは、まわりがどのようにサポートするかということが重要となります。

 学校では、友達に理解を求めて傷つくような言葉を発しないようにすることなど実際には不可能です。
 また、どもりを持つ子供の心理まで研究してくれ対処してくれる先生はどれほどいるでしょうか?
*それでなくても雑用で忙しい先生ですから。
*それでも、親として、先生に対して子供がどもりで悩んでいることを相談しておくことは必要だと思います。

 一方、家庭においては、家族の努力で、どもりを持つ子供が「居やすい」「心休まるところ」とすることができます。(学校では間違いなく神経をすり減らして帰ってきていますから)
 それはどもりで悩んでいる我が子を甘やかせということではなくて、むしろ質実剛健な雰囲気のなかで育てればいいでしょう。

 どもる度にいちいち注意するようなことはせずに、ゆったりとした雰囲気の家庭にすることを心がけるのがいちばんです。
親もゆっくりとしゃべることを心がけ、笑いが絶えないような家庭を目指してください。
 子供のほうから、「どもりでこんなふうに悩んでいる」「きょうはどもって笑われてしまった」などと、わだかまりなく悩みを打ち明けられるような家庭になればしめたものです。
*実際は、こんな家庭はきわめて少数です。

 これらのことと平行して、
 探すのに時間はかかると思いますが、どもりに関心を持ってくれている心や言葉の専門家である言語聴覚士や臨床心理士、精神科医に相談すると良いと思います。
*本当は、吃音児の心理を知り臨床経験豊富な言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などが日常的に通える範囲にいて、カウンセリングのほか、必要に応じて適切な言語訓練なども受けられるような体制があればよいのですが、いまの日本には事実上ありません。

★吃音を持つ子供にとっての思春期は★
 思春期は一般的にいってもいろいろと大変な時期です。
 友達関係、勉強、クラブ活動、受験など、あらゆることがダイナミックに変わる時期であるだけに、障害のない人にとっても大変な時期だと思います。

 どもりを持っている子供にとってはどうなのでしょう?
 学校生活(授業、クラブ活動、委員会活動など)はまさにしゃべることの連続です。
 授業中には先生の質問に答えたり、指名されてテキストを音読したり、まさに、声に出してしゃべる・発表することが毎日の仕事というような、いまになって振り返ってみてもぞっとする地獄のような日々です。(いまでも良く夢に見ます)

 私の場合は、最初の言葉がブロックされて出ないタイプ、それもかなり神経質などもりでしたので、調子の悪いときは指名されても立ちんぼで「しゃべれない」こととなり、「わざとしゃべらない」と思われてしまうような状態になるのです。

 元々の性格が引っ込み思案ならば良かったのかもしれませんが、自分の意見をはっきりと述べたい目立ちたいタイプの子供だったので、
また、調子がよいときにはほとんどどもらないこともあるような調子の波の振幅が大きいどもりだったので、
「言いたいことがたくさんあるのにそれが言えない」ということがフラストレーションとなり、また、深刻な家庭内不和がある環境も背景にあり、いま考えると明らかに強迫神経症に陥っていました。
*しかし、当時(70年代~80年代初頭)は、精神科・神経科に行こうなどとは夢にも思いませんでした。精神科という言葉自体に拒否反応がありました。

 そのような毎日の繰り返しに、よく耐えてきたと思います。
「自殺」ということばを常に懐にしまっている子供でしたが、中学・高校の頃はまだ心に柔軟性(のびしろ)があったのでしょう。我ながらよく耐えてきたと思います。

 調査資料などはありませんが、耐えきれずに自殺の道を選ぶ子供はどれくらいいるのでしょうか?
 インターネットが一般的になった今日、ごくまれに、我が子や兄弟を吃音の悩みによる自殺で亡くした書き込みに接することがあります。

 では、思春期(小学校高学年~高校生くらい)にある、どもりで悩んでいる子供はどうすればよいのでしょうか?
 また、そのような子供を持つ親はどうすればよいのでしょうか?
*いい歳になったいまでも、思春期の頃のことを書き始めると心が大きく揺さぶられます。つらい出来事がフラッシュバックします。自分にとってよほどつ辛く、しかも、それを誰にも言えない時期でした。よく、自殺しなかったなと思います。

★自分でできること
 これは、今の年齢になっているからこそ言えることかもしれません。
 実際に、思春期まっただ中でどもりで悩んでいる皆さんは、こんなふうに冷静に考えることができずに心がフリーズしてるかもしれません。
*いまの私が、当時の私のところにタイムスリップしてアドバイスするつもりで書きます。

1、10歳代なんて人生始まったばかりです。 若い頃にたとえ数年間のつまずきがあったとしてもたいしたことはないのです。(でも、その頃には、なかなか、それはわかりませんね。)

2、「ジコチュウ」で生きましょう。自分を責めるように生きている場合が多いのでそれでちょうどよいかもしれません。

3、「家」や「親」に必要以上に気を遣うことはやめましょう。親は先に死んじゃうので自分のこれからの人生を最後まで責任とってくれません。(難しいことですが)どもっている本当の自分を親に見せましょう。

4、自分のことは自分がいちばんわかっています。常に自分を冷静に分析する習慣をつけましよう。

5、どもりを持ちながら学校に行くのが耐えられないくらいに苦しいのならば、我慢せずにいかなくなるのもひとつの方法です。上の学校に進むには他の方法もあります。人は苦しむために生きているのではありません。
*引きこもってしまってからでは自分の心が自由にならなくなります。その前にぜひ信用できる誰かに(いなかったらこころの電話等の相談先に)相談してください。

6、ひとりで良いので、安心して自分の心の内をさらけ出せる人を確保することです。

7、悩みを素直にぶつけられる「マイ精神科医」、「マイ臨床心理士」、「マイ言語聴覚士」を見つけてください。

8、必要に応じてどもりのセルフヘルプグループに参加してみましょう。相談会やキャンプなどで是非同じ悩みを持っている友達を作ってください。

★親ができること

1、もしも子供がどもりの苦しさを訴えてきたら、傾聴しましょう。

2、親からみて子供がどもっていれば、その子は間違いなく悩んでいます。

3、子供のどもりを軽く見ないで、場合によってはその子の人生を大きく変えてしまうかもしれないくらいに考えてください。深刻にならないで真剣になってください。

4、民間療法やご近所情報などのインチキ情報に振り回されないことです。我が子のどもりを本当に心配しているならば、日本中、世界中の権威者を探すくらいの真剣さが必要です。その気持ちは子供に伝わります。

5、甘やかす必要はありません。質実剛健な家庭を作って家庭のなかは努めて明るくすがすがしくしましょう。

★吃音者にとっての思春期後期★
 思春期後期、ここでは高校生から大学時代前半くらいとして考えます。
 どもりを持ったまま高校生に。
 本来は楽しい高校生活かもしれませんが、進学や就職がだんだん近づいてくるということを実感する頃です。 
 高校もいろいろですが、進学校に入れば入った直後から熾烈な競争のなかに放り込まれますし、学級崩壊(学校崩壊)しているようなところに入っても別の苦労があります。

 私の記憶のなかにあるのは、合格が決まり3月中に行われたオリエンテーション時に、名前の申告でどもってしまったこと。
いまでも覚えているということは余程のトラウマになっているのだと思います。 そのときには、「これじゃあ高校生活も大変だな」と暗澹たる気持ちになりました。

 高校でも相変わらず(今まで以上に)授業中の恐怖は続くでしょう。
 特に国語関係のテキストを読まされるときは如何ともしがたいです。
「源氏物語」をどもりまくって読んでみても・・・。

★思春期後期を迎えた吃音者にアドバイスするとすれば、

1、授業中、いつ指名されてテキストを読まされるかと震えているのでは肝心な勉強に身が入りません。
 思い切って先生に言って教科書を読む時に指名しないようにしてもらうのもひとつの方法ですが、いろいろな意味で微妙なところです。そのあたりも考えながらの対策となります。

 いまの時点での考えですが、そして、あくまでも家庭に理解があり経済的にもクリアーされればですが、
いまの学校生活がどもることにより耐え難いものならば、思い切ってやめて、大検のコースに進む方法もあります。
 それはそれで大変かもしれませんが、精神的に救われるのならばそういうコースを選択することも考えてよいと思います。
 心の病気になってしまうと回復に時間がかかります。

2、少しでも言葉の流暢性を向上させたい 毎日の学校生活で言葉の問題に直面せざるを得ない人の正直な気持ちでしょう。
*もちろん、そう思わない方もいると思います。

 しかし、そういう思いに対応する、公的・専門的な立場からの組織的なサポートはありません。
 そこで考えられるのが、自分たちで「サークル」を立ち上げることです。

 仲間どうして専門書を読みあって勉強しても良いでしょうし、国内外の心や言葉の専門家を訪ねてみるのも良いでしょう。
 仲間内で工夫して心理面のサポートシステムを作っても良いし、いろいろと工夫しながら言語訓練をやってみるのも良いですね。

 私の場合はグループでサイコドラマを行いました。(成人して大卒後からですが)
 公民館の部屋を借りて授業中やオフィスを再現し、どもる場面を再現しながら皆で対処方法を考えていきました。

 この活動の特徴は、客観的にみた症状は変わらなくても、なぜか、「自分はだいぶ軽くなったと」言い、アクティブに活動できるように元気になってくるのです。
 自分たちだけでグループを作るのが難しかったら、既存のセルプヘルプグループ主催で開かれる若い人向けの集まりなどに積極的に参加して、徐々に友達を増やしていけば無理なく作れます。

3、心やことばのホームドクターを持ちましょう
 20世紀には考えられませんでしたが、いまでは、特に都市部では、近年のうつ病の大流行もあり精神科や神経科は敷居がかなり低くなりました。
こころを診てくれる専門家である精神科医や神経科医。彼らのスタッフであることの多い臨床心理士。自分のことをよくわかってくれている先生を確保しておいて、定期的に診てもらいましょう。

 しかし彼らは、どもりの知識は驚くほどないのが現状です。 
 こちらから吃音者の気持ちを丁寧に説明してあげることです。
日記を書いてそれを見せてあげれば、説明下手な吃音者にはよいと思います。精神科医の立場でいろいろと考えてくれます。
 精神・神経科の病院を選ぶ時の注意事項ですが、先生が一人しかいないところよりも複数いる中規模の病院が良いと思います。 精神科医は特に相性が重要ですから、合わない場合は変更できるところが良いと思います。 精神科医と臨床心理士がチームを組んでいて、最初は精神科医に診てもらい、その後は臨床心理士の時間をかけたカウンセリングを受けられるような病院もあります。
*大学病院などの大病院は常に込んでいて短時間の診療になりがちです。
とにかく、できるだけ多くの情報を得て自分にあった先生や病院を見つけてください。

4、現実を見つめながら将来を考えること
 近い将来のある日突然にどもりが治るということは、この時期までどもり続けてきたわけですから考えにくいと思います。
 いまどもっている自分をとりあえずでも自分の心の中で認めてあげて将来設計をしていくと無理がありません。

 徐々に「自分にとってのよい方向」に向かえばよい、人生何回でもやり直しがきく。これくらいのこころの柔軟性をもって、いまできることを着実にこなしていくのがよいと思います。
 その際にも必要なのは、何でも話せる「親友」です。親友はひとりいれば十分です。生涯を通しての友人となるでしょう。

普通に生きるのがつらい吃音者の苦悩(再掲載一部改編:初掲載は2007年9月28日)

 どもる人には、日々の生活のなかでことばを使ううえでの、さまざまな耐えがたい不都合があります。
 だからこそ辛い「障害」だし、人によっては人生そのものがつらい(生きるのがつらくいっそ死んだほうが楽だ)のです。
*いつも書いているように、どもりには軽いどもりと重いどもりがあり、この違いによる人生に与える悪影響の差には天と地の開きがあります。
また、第三者から見て軽く見えるどもりが、本人にとっても「軽いどもり」であるとは限らず、自殺を考えるほど追い込まれている場合もまれではないのです。

 「努力した末に就職し活躍している」という比較的軽いどもりの人が、どもりの人が集まる会合などで自分の経験を話すときには、たいていは自分のどもりは実際よりは重く語られます。
「いかに『重いどもり』を乗り越えていまに至ったか」を語りたくなるのは人間らしいと言えばそれまでですが、いま悩んでいる人にとってはそれは自慢話としか感じられないこともあり、苦痛にすらなることもあるでしょう。

 どもらない人は、私的、または仕事上の電話をすること、電話をかけて話したい本人以外が出た時には呼んでもらうことなど、言葉によるコミュニケーションを当たり前のように繰り返しながら毎日を過ごしています。
 営業マンであれば、他社を訪問するときには入口で受付嬢に、または、入り口に置いてある受け付け用の電話で、ドアを開ければ即事務所のような中小零細企業の場合は入るなり元気よく大声で、自分の社名と名前を告げて取り次いでもらいます。
 また、売り上げをなんとか増やそうと競合他社の製品を使っている現在は取引のない会社に入り込んでいくために、歓迎してくれない相手に対しても、無理をしてでも電話等でアポイントを取って新規開拓をしていく必要があります。
*あたりまえですが、お得意先のみをまわるルートセールスで食べていける時代ではありません。また、「飛び込み営業」などというのは、ある程度以上の企業に対してはもはや昔話です。たいていは入り口でカットされます。

 吃音者は、どもらない人が日常的に行っているこのような行為が、できないか、できにくいのです。
言葉というコミュニケーションの手段をうまく使えずに、人生につまずいてしまうのです。
 どもらない人にとっては何気なくやっている(話すという)行為が、(ある程度以上の重いどもり)にとっては地獄のような苦しみなのです。

 どもりを理解しようとする家族、また、どもりに関わろうとする治療者にとっては、どもりの人のこんな想いをどこまで理解できるかが、本質がわかり適切な対処ができるのかの分水嶺になるかもしれません。

熊本・大分の地震お見舞い

TVの報道は地震一色です。
東日本大震災のときに流されていたような「AC」のコマーシャルも流れはじめました。
東北在住ではありませんが東日本大震災の被災地入っている地域に住んでいる自分としては、あの日々が思い出されてきます。
しばらく常に揺れている感覚からのがれられませんでした。

どうか早く一連の地震が収束し、平安な日々が戻りますように!

おしらせ:kayさんのブログ「ことばのふしぎ」終了について

 「管理人のお気に入りのブログ」のところでリンクさせていただいてきた、アメリカ在住のスピーチパソロジストkayさんのブログ「ことばのふしぎ」は、まもなく終了し閉鎖されます。
 kayさんにはアメリカの吃音事情について寄稿していただくなどお世話になりました。ありがとうございました。
kayさんのブログが閉鎖され次第リンクも削除します。

東日本大震災2年にあたって

少し前のアキバ

少し前のアキバ

 東京近郊の都市(湾岸)に住む私は、2011年3月11日午後2時46分を地元の5階建てビルの4階の耳鼻科の待合室で迎えました。
ビルが倒れるのではないかと思うほどの大きな振幅の揺れ・・・
ワンセグでは三陸沖の震源を告げていました。
*ということは、東北はどれほどの揺れなんだろう?と思いました。

 急いで帰宅してテレビのスイッチを入れてからは画面の前に釘付けになり、携帯の緊急地震速報の独特の音と振動におびえながら翌朝を迎えました。

 この震災で亡くなられた方のご冥福を祈りますとともに、福島も含めた復興が着実に進むことを祈り、個人としてなにができるか考え、すこしずつでも実行していきたく思います。

吃音:肩の力を抜いて、他人(ひと)と自分を比較しない生き方ができるか?(再掲載一部改編:2008年10月)

 どもりをもっている人は、小さな頃から、どもる自分をどもらない人と常に比較しながら生きているように思います。(というか、「そのように考えてしまうように育てられてしまった」というほうがほんとうのところでしょう。)

 人間において最も重要なコミュニケーションの手段である「話し言葉」に明らかな違いがあることは、ものごごろついてくればわかってきます。
(これも、自分で意識するというよりも他人の指摘によるところが大きいでしょう。)

 高度にIT化されつつある現代社会において要求されるものは、「話し言葉による高度なコミュニケーションのスキル」であることは、吃音者にとっては皮肉なことです。

 どもらない他人と、どもっている自分を比較してみても、あまり良い考えや、前向きな気持ちは出てきません。
 でも、悲しいかな、普段は「どもることは気にしない」と思っていても、何か言葉の上での大きな失敗をするごとに、「どもっていないIFの世界の自分」を思い浮かべて現実の自分と比較していることがあります。 

 「肩の力を抜く」ということは、無理してまで、「どもる自分をそのまま認めてあげよう」と思うことではなくて、「気持ちが揺れ動き、迷いに迷う自分」も認めてあげることではないでしょうか。

吃音とそれに耐える心の閾値(しきいち)について(再掲載一部改編:2007年10月7日)

 いつも書いていますが、どもる人は、第三者から見ても「どもり」だとはっきりとわかる症状の「重い人」から、ほとんどわからないような軽い人までいます。

 しかし、「重い=大きく悩んでいる」という図式ではなくて、傍から見るとほとんどわからないような「軽い人」が、実は自殺を意識するほど悩んでいたりするような不思議な障害です。

 それはどもらない人から見れば理解しがたいかもしれませんが、同じどもる人の間でも理解されない場合があります。

 2~3歳に始まることが多いとされるどもりは、その半数以上が就学年齢までに自然治癒されるということです?が、(この割合も調査によっては幅があります)、私のように(不幸にして)それ以降に持ち越すと、人生にいろいろな次元で影響を与えます。

 ある人には耐えがたい苦痛を与えるかもしれませんが、また、ある人はどもる経験から自分の人生がかえって豊かになったと感じられている人までおられます。
どもりが耐えがたい苦痛になるかどうかは、心の閾値(しきいち)によってきまるのではないでしょうか。
*大前提として、どもりの重さの違いという大きな問題があることを忘れてはなりません。重いどもりが人生に与える影響は軽い人のそれとは比較になりません。

 それは、「打たれ強さ」などという簡単なものではなくて、どもりの客観的な重さや、小さなころよりどもりっている自分が、家族のなかでどもったままで受け入れられていたかということ、
 また、自分の人生にはっきりとした目標があり、それを実現するのに自分のどもりがどこまで影響するかなど、いろいろな条件があって、その人のどもりに耐える心の閾値を作っているように思います。

 もっとも、「どもりに耐えていく」という発想そのものが、ネガティブな考え方なのかもしれませんが、それ以上に大切なことは、弱音を吐ける環境(友人、専門家、家族など)があることではないでしょうか。

吃音者が、自分の人生で自分なりの「立ち位置(生きる場所)」を見つけられるようになるには、どのようなサポート体制を構築していけばよいのだろうか?(再掲載一部改編:2008年9月24日)

 「ある程度以上の重さのどもりを持った人が自分の立ち位置を自分で見つけられるようになる」ためのサポートというのは、言い換えれば、
「どもりを持っている人が自分なりの生き方をできる場所を社会(家庭、地域社会、職場)のなかで見つけることができて、生活していけるだけのお金を自分で稼ぐことができ、それなりの生きがいをも持つことができる」ということです。
*どもりには第三者がほとんど気づかないようなごく軽いものから、しゃべる言葉のほとんどがどもるような重いものまであります。(客観的な症状が軽い=悩んでいないということでもありません)
ですから、その違いを十分に考慮して、吃音者自身の努力では自立した人生が送れない(就職できない、学校に通えない、など)場合には、福祉政策による国や自治体のバックアップが必要です。が、現状ではゼロに近いようです。

 そのためには、人生の方向性を決めていく大事な時期である思春期において、どもりの悩みのために勉強が手につかなくなったり、そのほかの、その年齢で経験すべきことができなくなってしまわないように、(もちろん本人の努力がまず第一に必要ですが)、必要にして十分なサポートをする体制を作ることが必要です。

 現在では「生涯発達」という言葉があるように、生まれてから死ぬまでが発達の時期であると考えられていますが、そのような哲学的な考え方とは別に、長い人生の準備段階として、「大いに勉強し、友人と語り合い、アクティブに活動すべき時期である青春時代」を、 どもりの悩みのために無為に過ごしてほしくないのです。

 そのためには、どもることにまつわる様々な悩み(心の悩み、症状そのものについての悩み、学校生活や家庭生活、職場においての人間関係の悩みなど広範囲にわたる悩み)に対応できるような、学識、臨床経験ともに豊富で人間的にも経験豊富なカウンセラーが身近にいてくれることが必要です。
相談相手には、訓練されたカウンセラーでなくても、身内をはじめ、何でも話せる友達やセルフヘルプグループの仲間などでも良いと思われるかもしれませんが、カウンセリングの訓練や心理学の知識がないと感情にまかせた言葉や個人の経験だけからの思い込みでアドバイスすることがあり、結果的にどもりで悩んでいる人を大きく傷つけてしまいがちです。

 特に身内の場合には、経済的環境や心理的環境を共有している場合が多いので、親近感がかえって災いし、家族間の関係を極端に悪くする原因となる場合もあります。ですから、友人や身内のほかに、利害関係のないプロの相談相手であるカウンセラーの存在というのは是非とも必要なものです。

 そのカウンセラーには、普通の学校の先生やそのOB、または、大学を出たての心理学士や修士を終了したばかりの若者などの「間に合わせ」ではない、学識はもちろん人生経験も豊富な「本当のプロフェッショナル」が必要です。
学校の先生や両親などの吃音者に対する対応に問題がある場合は、はっきりとそれを指摘でき、良い方向に進めるように強力に指導できるるだけの経験と知識、また人間的な力も必要でしょう。
それらのカウンセラーは子供の場合でも、必ずしも学校内にいてくれる必要はなく、学校帰りや会社帰りに、また、土曜や日曜に気軽に通えるような、「街中にあるクリニック」という位置づけで良いのではないかと思います。

 そういう意味では、街中にある精神科の病院や心療内科が、短時間のカウンセリングしか行なわず(行なえず)投薬に頼るような方法ではなくて、ひとりの患者に1時間くらいのカウンセリング時間を割いても経営が成り立つような保険制度にしたり、また、言語聴覚士が街中で独立開業しても食べていけるような制度にすることが必要です。
 また、臨床心理士も(必ずしも医師の管理下でなくとも活動できるような形で国家資格化し)独立してカウンセラーとして保険が適用されるような体制にする必要があります。(そうすることにより、国民病といわれているうつ病に対しても、効果的な対応ができるようになると思います。)