「裁判」のほうは、つい先日、毎日新聞(Web版)で見つけた、吃音者が障害者手帳を求めて裁判を起こしたということ
「自殺」のほうは、何年か前に看護師になった男性の吃音者が自殺した件です。
どちらもどもりを持つ人の現実を表しているような気がします。
★裁判に訴えた吃音者
既婚者の男性。40歳代で子供のいる吃音者。
子供のころからどもりで学校のことばの教室に通い、民間の矯正所にも通ったが治らず、就いていた仕事もリストラされて生活に窮して障害者手帳を求めて訴えた(詳しくは新聞紙上かWeb版でご覧ください)
どもりのために就職ができない、仕事が長続きしない、などの問題を抱えている方は大勢いらっしゃるはずです。(私もその経験者です)
客観的に見てそれほど重くはないが自分として追い込まれている場合と、明らかに重いどもりで仕事ができない場合の二通りがあると思いますが、それでは言葉を使わない仕事に就けばいいではないか?と言われてしまうとそれまでなのです。
…が、人には(どもりのことを考えないで)の仕事に対する適性もありますので、本来どもりでなかったら(治ったら)その他の能力や人格では最適な仕事にどもりのために就けないというところで吃音者は悩むのだと思います。(これが障害ということになると思います。)
★吃音者の自殺
どもりを苦にしての自殺はかなりあるのではないかと思います。
*調査などありませんので実数はわかりません。
ネット上でかつて、どもりを苦にして自殺した方の家族の方のブログを読んだことがあります。
札幌の男性看護師、吃音のセルフヘルプグループなどでも活発に活動していたという彼が看護師になって、でも、次第に仕事上で追い詰められていってついには自殺した。
*これも、検索すれば詳細がわかると思います。
新聞記事レベルのことしかわかりませんのでいい加減なことは言えませんが、本人のやる気、前向きなこころが結果として彼を追い詰めてしまったのかもしれません。
どちらも吃音者を取り巻く現実です。真正面から見つめる必要があります。
>それでは言葉を使わない仕事に就けばいいではないか?
そんな仕事そのものが「無い」という事が、その言葉の悪意を物語っていると思う。
仕事って人間同士のコミュニケーションが必須だというのに。
たまにそういう事を真顔で言う人に出会うけど、本心から締めあげたくなる。