吃音者を「自己不一致」に陥らせない(陥らない)ことの大切さ (たびたび再掲載一部改編:初掲載は2007年3月14日)

 どもる人が自分ですべきこと、
 また、どもりで困っている人の身近にいる人(家族、友人、ことばの専門家、精神科医など)がサポートできることで優先順位が高いものは、
どもりを持つ人を「自己不一致」の状態に陥らせないようにすることです。

 どもることは(どもらない人には想像もできないほど、自殺さえ意識するほどに)吃音者に耐え切れないほどの苦痛を与え続けることがあります。

 それは、重さや症状の違い、吃音者が生きている(精神的、経済的)環境の違い、さらには、まわりにいる人(家族・同僚・同級生など)の理解の度合いの違いなどによっても大きく異なってきます。

★考えたくなくても(考えるのをよそうと思うほどに)、24時間常にどもりのことばかり考えてしまい、しゃべることが怖くて仕方がなくなる。

★どもることにより起こる「生きづらさ」を連続的に経験することにより、次第に「生きていくことがつらい、死んでしまった方が楽だ」と思うようになり自殺を試みたり、うつ病などの深刻なこころの病気になることさえあります。
*自分がそうでした。

 ある程度歳をとってからならば(その年齢までなんとか生きられれば)、「良い意味でのあきらめも」でて肩の力も抜けてきて、多少は「生き易く」なってくるケースもあるかも知れませんが、
思春期から30代の中ごろくらいまで(私の場合)は、どんなに強がっても心の底では「治したい・そのうちに治る」と思いたいし、また、そのような希望がなければ、とても生きていられない状況でした。

 自分の子供の頃を思い出してみても、
 親やまわりの人が言ってくれる「大人になれば治るよ」という励ましの言葉を疑いを持ちながらもどこかで信じていて、
「大人になってもどもっている自分の姿」を想定していませんでした。
(したくありませんでした。)

「今はどもって、つらくて恥ずかしい思いをしているが、大人になれば皆と同じように普通にしゃべれるようになるんだ!」と、自分に言い聞かせていました。
*こう思うことで自分の心の平衡をギリギリの線で保っていたような気がします。

 しかし、これも、度が過ぎると、今の自分を生きられなくなります。(自己不一致)
つらい現実があり夢の世界に逃げ込んでみても、現実の自分は幸せになるどころかますます追い詰められていきます。

 いつも自分のなかに違う自分があり、そこに逃げ込むことで、しばしの安堵感を得るということは心理的にとても危険なことです。心の病になってしまいます。
「どもりが治ってから就職しよう。」
「どもりさえ治れば就職できる。」
「学校の成績が悪いのはどもりのせいだ」
・・・これらのことは、ある意味そのとおりかもしれません。

 どもりのせいでうつ状態になり苦しくて苦しくて・・・
 しかし、自分ではどうしたらよいかわからない。

 こんな曇りガラスに爪をたててひっかくような毎日をへとへとになりながら生きている人にとって、「どもりでさえなかったらスムーズに就職もできたかもしれないし、明るく自由闊達な学校生活も送れたかもしれない」と思うこと、そういう思いに逃げ込むことは責められることではありません。

 でも、辛いですが、現実の自分はどもっているのです。
 「どもりがなくなった自分を心のなかに作り上げて」それがあるべき自分・本来の自分と考えて、「今現在、実在するどもる自分」を自分自身で否定してみてもよい方向には進むわけがありません。

 どもりが治るまでは・・・できない、どもりが治ってからなら出来ると考えて、今を生きないで人生を先延ばししてみても無為に時間を過ごすだけです。

 つらいですが今のどもる自分で出来ることから動き始めるしかありません。
*でも、矛盾するようですが、ときには、そんなふうに考えてしまう自分も認めてあげることもとても大切なことす。そういう自分も自分の一部なのだから否定されるものではありません。そういうところがないと余計に自分を追い詰めてしまいます。

 理想の自分とは違うかも知れません(どもりがなければ自分の能力ではもっと違うことが出来るはずだ!と思うかもしれません=実際そうかも知れません。)

 でも、バーチャルな自分に軸足を置くのではなくて、今出来ることから始めることが、結果として時間の浪費をせずして自分らしく生きていける最短距離と考えるべきです。

 いろいろと経験された末にどもりの症状がかなり軽くなっている方に出会うことは、セルフヘルプグループなどに参加しているとそれほどまれなことではありません。
そのような人たちは、軽くなってから動きはじめたのではなくて、地に足が着いている生き方をはじめてから「結果として」吃音の症状が改善されたのです。

 しかし、ここが重要なのですが、吃音の客観的な症状は、結果として改善される人と、そうでない人がいることも事実です。
*「軽くなった人」も突然のぶり返しで、いまの生活に大きな支障が出るということも、当たり前のように起こります。

 何かを成し遂げると必ず症状が軽くなる=そして社会的成功がある、という構図で考えてしまうと、それが、また、自己不一致の原因になってしまいます。

 どもりには、いままで書いてきたような複雑な事情が背景にあります。

 さらに、古くからあり、いまでも形を大きく変えて残っている民間吃音矯正所(のようなもの)の存在や、セルフヘルプグループのなかのいろいろな問題、そして、どもりを専門にする言葉とこころの専門家の質的量的不足が、結果として吃音者に苦しみを与え続けています。

吃音:心を開く(たびたび再掲載:初掲載は2013年12月27日)

 どもりを持っていて(それも、日常生活や学校生活、仕事上でも明らかな支障が出るくらいの)どもりの場合・・・、  
 または、第三者から見てなかなか気づかない軽いどもりでも、そのどもりを気にして結果的に日常生活に支障が出ていて、精神的にもギリギリの生活を送っている場合・・・、  
 このような場合には、吃音者のこころは次第に追い込まれていき、場合によってはうつ病などの心の病にかかり苦しむことも希ではありません。
*私がそうでした。  

 学校に通っていた子供は次第に休みがちとなり、ついには引きこもりになります。  
会社に通っていた人はどもることにより業務に支障が出てきても(学生時代とは違い責任もあるので)ぎりぎりまではがんばりますが、そのがんばりが災いしてほんとうにギリギリまで無理して、気がついたときには重いうつ病になっていることも希ではないでしょう。
*これくらいになると多くの場合自殺を考えます。  

 私もそうでしたが、「死んだ方が楽」などと、狭いほうばかりに考えを巡らし自分を追い込んでしまいます。  

 もしも、いま、これを読んでいる方でそういう状態にある方がいらっしゃったら、そうなりそうだったら、いや、そこまで追い込まれる前に・・・、  
少しずつで良いので「自分の心を開く」ことをしてみてください。  

 自分の(どもりやどもりにまつわる悩み)を隠さず話せる(聞いてくれる)友達いればいいのですが、実際にはなかなかいないでしょう。  

 どもりのセルフヘルプグループに通えば比較的見つかりやすいかかもしれません

 が、追い込まれていてパニック状態かそれに近い緊急事態では、その前に、精神科や神経科などのこころの専門家にかかって、医師や臨床心理士に自分のことを話して少しでも楽になってください。(医者の判断で精神安定剤などの投薬を受けられるかもしれません。)  

 セルフヘルプグループはそれからでも同時にでも通えば良いと思います。  
*うつネットなど、WEB上で情報収集できます。  
*各県にある「精神保健福祉センター」に相談する方法もあるでしょうが混んでいるかな?  

 少しでも楽になったところで、次のことを考えれば良いのではないでしょうか?  
こころが固くなっていると良い考えも浮かびません。  
 固いこころでは、自殺などというしてはいけない取り返しのつかないことを考えてしまいがちです。  
 まずは自分のこころを少しでも解放していくために、自分のことを聞いてもらえる環境を(自分で少し努力して)作りましょう。

「就職・仕事・職場」などの人生の「現実」を踏まえた吃音の論議が必要です(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2008年6月9日)

 どもり、特に思春期以降の「おとなのどもり」の現実は、専門家と言われている人が「治せない」ことです。
*いまの医学の限界です。仕方がありません。

 一方、矛盾するようですが、思春期以降まで持ち越したどもりでも「改善」されるケースはいくらでもあります。それは、医療の領域ではなくて、吃音者自身が積み重ねてきた民間療法の領域です。

 しかし、その「改善」も、
「どもりでない人と競争しながら働く一般的な企業の事務職や営業職などでの仕事」という位置で考えてみると、一時的なものであったり気休めでしかないことが多いのも事実です。
*治ったか・改善されたかに見えたどもりが突然ぶり返し、場合によってはいままでよりも重くなり、いままでできていた電話や交渉ができなくなること(それで仕事上で追い詰められる)は良くあることです。
*そもそも、どもりとの戦いばかりに心の力を費やしていると、うつ病などの心の病にかかってしまうこともありますので注意が必要です。

 今回はどもりを「仕事」という観点から考えます。

 その仕事は、時給が千円くらいの「アルバイト」ではなくて、
 結婚し家庭を支えて子供を育てていけるくらいの収入を得るための「正社員としての仕事」と「どもり」について考えていきます。
 これは、きわめて現実的な問題です。
*どうして取り上げたかというと、そういうふうに生きられていない吃音者が多いからです。

 学生時代までは、それなり重い場合でも、いじめなどでひきこもらなければ、なんとか卒業まではもっていくこともできるでしょう。
*陰湿ないじめによるひきこもりはどれくらいあるのでしょうか?統計などはありませんが、現実には、どもりを理由に引きこもっている人、つまり、学校にも行っていないし仕事もしていない人は相当数いるのではないかと思われます。

 学生時代まではなんとか形が付けられていた場合でも、学校を出て就職するときには、また、職場では、そういうわけにはいかないのです。
 ある程度以上の重さのどもりを持つ人のほとんどは、仕事に就くときに大きな壁にぶち当たるのです。
*傍から見て気がつかないような軽いどもりでも、自分で悩んで人生に支障が出ていればそれは「重いどもり」です。

 成人の吃音については(いつも書いているように)公的専門機関によるサポートは事実上なく、一般の病院でも有効なサポートは「ほぼ無い」と考えて良いでしょう。
*日本に数カ所あったとしても通えませんね。

 悩んだあげくに、苦し紛れに門をたたくのが、戦前から綿々と続いてきた「民間無資格どもり矯正所(のようなもの)とネット時代のその変化型」か、吃音当事者の集まりである「どもりのセルフヘルプグループ」です。

 どもり矯正所(のようなもの)についてですが、
 そこに通い「改善」されたかに見えても、いざ独力で就職活動をはじめようとして電話をかけたり交渉したりすると、「改善」は気休めでしかなかったことに気がつきます。
*誰かの力を借りて、いわゆる「コネ」で就職しても、入ってからは独力で就職した以上に苦しむと思います。

 それでも「なんとか生きていくため」に無理して頑張るわけですが、ここからが、どもりとの本当の戦いになるのかもしれません。

 就いた(就こうとする)仕事の種類によって言葉を使う場所や頻度は大きく違いますので一概には言えませんが、職場では、あたりまえのように電話をし難しい交渉もします。
特に厳しい競争にさらされている民間企業の営業職などについた場合(ついてしまった場合)には、どもりを持つ人にとっては相当なプレッシャーのはずです

 そのような「仕事の現実」にさらされている人は、「どもってもよい」などという哲学的な議論や矯正所に通って多少の言語訓練をしたところで、それが無力だということをイヤというほど経験させられるのです。

 しかし、またも矛盾するようですが、就職するまでの第一歩としての「民間矯正所での経験(そこの内容ではなくて、そこで知り合った友人たちとの関係です)」や、「セルフヘルプグループで同じ悩みを抱えている方たちとの語らい」の効果は否定できない価値があるのです。

「学校を出ても就職できずに引きこもってしまった場合」や、
「どもりからうつ病になって苦しい思いをした場合」から徐々に立ち直って、重い腰を上げて就職活動をはじめ、はじめて働き始めるくらいまでには、どもりでない人にはまったく想像がつかないくらいの「心の力」を必要としますが、同じ悩みを持つ友との何気ない語らいがそれを与えてくれるのです。

 どもりについては机上の空論ではなくて、
 どもりで悩んで自信をなくしてしまったり引きこもっている人がリスタートし、安定した仕事に就けた時にはじめて「どもったままで良い」という哲学的な議論ができる余裕が出るのだと思います。

「仕事」には、言葉を主に使う仕事もあれば、そうでない仕事もあります。
いわゆるサラリーマンにしても、営業もあれば、技術系、工場勤務もあり、言葉を使う頻度や場所も様々です。
その他、福祉関係、農業・漁業と、仕事は実にたくさんの種類があることを我々は忘れているのではないでしょうか?

 人生は、「こうでないといけない」という世界ではなく、「正解」はありません。いろいろな生き方が可能なのです。
 あまり思い詰めないで、「自分らしく自分なりの生き方をすればよい」、ということも忘れてはいけないと思います。

 ご家族や近くにいる方も吃音者本人を暖かくサポートしていただければ、どもりで悩んでいる人が過度に精神的に追い詰められずに生きやすくなるのではないでしょうか。

吃音:理解してもらえない人たちのなかで自分(の人生を)を見失わないためには(たびたび再掲載:初掲載は2014年12月23日)

 どもり、それも日常のコミュニケーションに支障が出るような重さや症状のどもりか、傍から見て気づかないくらいの軽いどもりでも自分として深く悩んでいる場合は・・・、(どもりでない人にはなかなか理解できないことですが)一年中、24時間が辛い人生かもしれません。

*私の場合は、小学生(3年生くらいかな)の頃から、発表時や教科書を読まされるときの恐怖から、少しの間だけでも逃れられる時間帯である週末や夏休みなどの長期の休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです。しかし明日は学校のある日曜の夜や長期の休みの最後の日はとても辛い時間でした)
就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました

 さて、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが・・・、
子供の頃からのどもることによる様々な悩みを、いちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)が、実はいちばん分かってくれていないことが多い、ということについて考えます。

 生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。

 特に子供のうちは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあるでしょう。

 自分の努力の外にある「どもる」ということ。
 日常の簡単な挨拶から、様々な場面で自分の名前を言うこと、授業中に指名されて教科書を読むこと、指名されて質問に答えること、など、日常、当たり前のように繰り返されることができないかできにくいという「どもりという言語障害」の性質を考えるときに、
まじめに努力しようとしている人ほどそのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせるのではないでしょうか。

「下手な治す努力」は、吃音者をかえって落ち込ませます。
 
 戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた民間の無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。

 いっぽう、どもり矯正所は、そこでの「訓練」よりも、同じ悩みを持った多くの仲間と人生ではじめて出会えて、こころのなかをなんのためらいもなく語り合えるという意味では「結果的にですが」大きな意味がありました。

 しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)
*いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。

 残念ながらいまでも、どもりを持つ子供や大人を取り巻く環境は大きく変わっていません。
 街なかには、どもりで悩んでいる人が日常的に気軽に通えるような・・・、
「どもりに精通した言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などがかかわり、どもることによる生きずらさをサポートするソーシャルワーカーなども関わってくれる」
言語クリニックなどは存在しません。
*たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的美通える範囲にないと、それはないのと同じことです。

 こんな環境のなかで我々吃音者ができること。
★子供の場合は、学校(小中学校)の通級教室である「ことばの教室」のサービスですが、しっかりと受けられているでしょうか?

 そこではどもりに精通した専門家の指導が継続的に受けられていているでしょうか?
 子供本人ははもちろん親御さんもしっかりとしたカウンセリングや相談が受けられる体制になっていますか? チェックしてください。

★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える自分のことを話せる友人を作ることです。
 そして、必要に応じて彼らと小グループを作りいろいろと動いてみることでいろいろと見えてくるものがあります。
 こども(小・中・高校)の場合は、セルフヘルプグループが主催するこども向けの集まり等を利用して同じ悩みを持つ友人を作ることができますし、親御さんも交流できるでしょう。

★どもりで悩んでいる自分のこころが危機に陥らないように(うつ病などのこころの病気や、不登校や引きこもりにならないように)、危機管理のために、ホームドクター的な精神科医や臨床心理士、(言語聴覚士)を見つけて日常的にカウンセリングを受け心の健康を保つことができます。

★家庭内や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ることができます。

 工夫して、少しづつで良いので良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。

どもりを持った人のいまの時期(入学・進級・就職の時期)その2

 どもりを持った人、それもある程度以上の重さのどもりをもっている場合は、新学期、入学、入社、転職後に大きな困難が伴います。
*いつも書いていることですが、どもりの重さとは、傍から見てどもっているその重さだけではありません。傍から見てほとんどどもっていないか、むしろ饒舌に見えても、名前などの特定のことばを言うときに突然、おおどもりになる場合もあり、それで仕事や学業に自分として支障がでていて自殺を考えている場合もあります。

 もっとも、それ以前に、どもりを原因として、それら(入学・進級、就職・転職)がうまくできずに、どうして良いかわからない状態(でも家族からは非難されている)か、引きこもり(がち)になっている方もそれなりの数いらっしゃると思います。私もそういう経験があります。

 ここでのキーワードが、「いまの自分に合った環境なのかどうか?」ということです。
入ったのが名門の学校か、有名会社かということではないのです。
 いまの自分のしゃべりのレベル(流暢性)が、いまの学校や職場で必要とされているそれに合っているかどうかということなのです。

 向上心のある方ほど無理をします。また、前向きな生き方を提案している文章や他のひとの考え方に影響されて、がんばればなんとかなり道が開けると考えてがんばってしまうと、無理がたたってこころが疲弊してしまい、気がついたときにはこころの病気になり追い詰められているということはよくあることです。

 どもりは言語の障害であり、原因が不明、治療法も確立されていません。

 せめて、ことばの問題の国家資格者である「言語聴覚士」、それも子供から大人までのどもりに幅広い知識と臨床経験を持つ方がいて、吃音者が住む街で日常的に通える範囲で開業しいるか、その地域の総合病院にて気軽にかかれる吃音外来をしているような状況であれば相談できるのですが、そういう状況ではありません。

 そういう前提のもとで我々ができることは、21世紀の2024年現在でも・・・私が80年代末から90年代初め頃にしていたのと同じように、
 どもりのセルフヘルプグループに参加して、いままでは誰にも打ち明けられなかったどもりの悩みを分かち合って、疲れ切ったこころをほぐし、
必要に応じて仲間内での様々な工夫で流暢性を確保する、
このような、何十年も前の過去から行われてきた「苦しまぎれの民間療法」をすることくらいです。

参考:
「吃音者が本来希望する仕事に就くために、ことばの流暢性を高める工夫をすることと、努力しても希望通りにいかないときに諦めて別の生き方見つけること(プラクティカルな見地から) その1からその4 まで」

「真面目で向上心のある吃音者がむしろ追い込まれる」

吃音:オックスフォード流吃音、サンダーバード、そして、白洲次郎(たびたび再掲載:初掲載は2011年1月7日)

 昔、予備校生の時に、英語の先生がケンブリッジだかオックスフォード卒のイギリス人でした。
 若くて背が高くて着こなしも良くて、初めて身近で定期的に接したガイジンだったためにそれなりのカルチャーショックでした。

 彼はどもりながら授業を進めていくのだけれども、それがなかなか格好いいんです。(子供の頃からどもりで悩んでいた私にはカルチャーショックでした)

 それから少し経ってから、たまたま何かの本かTVで、イギリスの教養人はすらすらしゃべるのではなくて、むしろどもりながらしゃべるのを好むらしいということを知り、またまたショックを受けました。本当だろうか?と
 オックスフォード流のどもり、らしいですね。

 それから、かなりたってから(つまり現在に近い過去)ですが、
 こどもの時に熱中した人形劇「サンダーバード」に出ていた「ブレインズ」という名前の科学者は、オリジナルの英語版で聞くと結構どもっていることを知り、これもまたカルチャーショックを受けました。

 またまたちょっとたってから、たまたま正月番組で、
 みのもんたさんかさんまさんが司会をしていた、「すごい日本人」みたいな番組で「白洲次郎」のことを知りました。(白洲次郎について書かれた書物をお読みになることをおすすめします。日本人もこんなにかっこのいい生き方ができる人がいたことを知ることになると思います。)
 白洲次郎ブームが始まるきっかけとなった番組をたまたま見たわけですが、彼が子供の頃からどもりであったことを知るとともに、GHQから「従順ならざるただひとりの日本人」と言われていて、ケンブリッジ仕込みのタフな交渉力で対等に交渉をしていくというカッコイイ逸話も知りました。(あのマッカーサー元帥さえしかりつけたという・・・)

 その白洲次郎が新憲法の起草に関わっているときにGHQの高官に出した手紙というのも印象に残っています。
 山の絵を描いて、ふもとから頂上にまっすぐに進む線と、もう一つは、ふもとから迂回しながら徐々に上っていく曲がりくねった線を引き、
Your Way(つまりアメリカ側はアメリカ的に最短距離を論理的かつ効率的に進もうとするが)、Our Way(我々日本人は遠回りして「いろいろ寄り道して」同じ頂上に達する)というような説明の手紙でした。

 どもりについても同じようなことが言えるのではないか。
 原因がわからず、従って確実な治療法がない現在、いろいろ寄り道しながら頂上を目指すしかないのではないか?
 そして、その頂上もひとつではなくて、いくつかの頂上があり選んでいけるような形にしたいものです。

 時間軸にそっていくつかどもりにまつわる話を書きましたが、
 勘違いされやすいのは、どもりは気が小さかったり神経質だからなるのではないということ、
最初に「どもり」という症状があり、結果的に神経質になったり、どもり始めた子供の頃からの家庭環境の悪さからどもりが神経症的・うつ病的な症状を呈してきたりするのですね。

 白洲次郎の話にしても、オックスフォード流のどもり(こちらはわざとどもり風にはなすらしい)の話でも、
 彼らが比較的軽いどもりだからそれが逸話になるのであって、自分の名前を言うのにもいちいち大きくどもってしまう、電話口でもただ口をパクパクさせているだけでことばが出てこないような重いどもりだったり、比較的軽いにしてもそれによりうつのような症状になりこころが傷つき毎日生きていくのが苦しいような状態ならば、それは話しが全く大きく違ってくるということです。勘違いしないようにしなくてはいけません。

 親がどもり始めた我が子へ「ゆっくりしゃべりなさい」「落ち着いてしゃべりなさい」とアドバイスしたり、どもったことばを言い直しをさせたりすることは、
どもりを持った人のこころをかえって傷つけ、そのどもりを重い固定化されたもの、メンタル的にも複雑なものへと進めてしまうような危険性があります。

どもりを持った人のいまの時期(入学・進級・就職の時期)

 今年は私が住む東京圏湾岸地域でも何年ぶりかの桜の花がしっかりとある入学・就職シーズンです。(9日の雨でだいぶ散りそうかと心配しましたが、結構、もっているようですね)

 さて、ものごごろついた頃からのどもり持ちの私は、いまの時期は良い思い出がありません。とてもつらい時期です。

 いちばんの悪い思い出は大卒後就職できず(せずに)に迎えたいまの時期です。
*「せずに」と書き加えたのは、ことばをほとんど使わない(ことばが主で仕事をしない)職種に就けば就職できたのでしょうから・・・

 言うまでもなく事務系・営業系、そして医療系・技術系の仕事においても、
その濃淡はかなりありますが、話すことでコミュニケーションをとることが仕事の大前提です。
*学校で言えば、新入学やクラス替え後の新学年は自己紹介がありますし、新しい先生にはまだ、名前を覚えてもらってもいませんし、先生は私がどもりであることも知りませんので、授業中のそれなりの配慮もありません。
結果的に自分のどもりをもろに同級生の前でさらすことになります。

いまはどもり持ちにとっては特につらい時期です。
つらさが限度を超えないように自分を守ってください。

精神科医や心療内科医、カウンセラーの利用、どもりのセルフヘルプグループの門をたたく(自分のつらさを打ち明けられる人を持つこと)
こころのつらさが極限に達する前にその仕事を辞めるのも、自分を守るために必要なことです。

卒業式のシーズンの吃音者(どもりを持つた人)は

 いま頃になると、1980年代末、大卒後も就職できずに民間のどもり矯正所に通っていた自分を思い出します。

 その時期は暗かった時期かというと実はそうでもないのです。

 なぜかというと、いままで誰にも言えなかったどもりの悩みを思う存分話し合える仲間をはじめて見つけたからです。
*私がどもりを自覚しはじめた(悩み出した)のは小学校の3年くらいです。親が言うには3歳くらいからどもり始めたようですが、学校で本をよまされたり、発表をするたびにどもるので笑われたりしているうちに3年生くらいになって悩み出したのでしょう。

 1990年代中頃くらいまでは、都内には民間のどもり矯正所(無資格のものです)が数カ所ありました。
 その多くは昭和30年代くらいからはじまったのでしょうか。
 なかには戦前からあった有名な?矯正所もあり、漫画雑誌や週刊誌に小さな広告が載っていたり電信柱に広告が貼ってあったりもしました。(なんともアナログな時代です)

 卒業の時期の3月や夏休みになると、全国から泊まりがけで都内のどもり矯正所に来る人たちがいて彼らと仲良くなったりしたものです。
 当時の民間矯正所については、いままで何回も書いてきたように、多くの問題を抱えていましたが、ひとつだけ良かったことはどもりについてなんでも話せる友が得られたことでした。
*いまでは、どもりのセルフヘルプグループがその役を果たしているのでしょう。

どもりの原点、自分の名前が言えない

 梅や早咲きの桜も満開のいまは受験シーズン

(人生に影響が出るくらいの重さの)どもりを持つ人にとっては、受験、就職、転職は大きな壁として立ちはだかるので、つらい思い出をお持ちの方も多いかと思います。(私がまさにそうです)

 さて、どもることにより、自分の名前が(うまく)言えないということは、どもりを持つ人にとっての苦しみの原点と言えるかもしれません。

 受験や就職の面接では、あたりまえですが、名前を言わなくてはなりません。

 当たり前にできることがいちばんの問題点であることはどもりを持つ当事者でないとわからないことで、(傍から見てむしろよくペラペラと話すように見える人が自分の名前を言うときになると突然口ごもったり、肩を揺らして絞り出すようにそしてつっかえながら自分の名前を言おうとしていることすらあります)

 名前すら言えないという事態に、聞き手の方はどのように反応してよいかわからず、素直に笑うか、吹き出してしまうか、困ってしまうと思います。
 緊張して口ごもっていると思い、「落ち着いてゆっくりしゃべって」と言われてしまうとこちらのどもりはまさに「絶好調」となります。

吃音による様々な不都合を人に伝えることの難しさについて(その1~2)(再掲載一部改編:初掲載は:2014年4月25日・5月12日)

その1***
 今回は、自分がどもりで苦労をしたり悩んでいることを
「親・兄弟・配偶者などの家族・親族」
「学校の先生、友人、恋人」「職場の同僚や上司」
 に伝えることの必要性、難しさ、また、注意点について考えます。
*どもりで悩んでいる当事者が小学生なのか、学生か、社会人かなど、年齢や立場によって、また、どもりの重さや症状の違いによっても伝え方やその問題点が大きく変わってきます。

★なぜ伝えるのか 
 子供の場合ならば、どもりの苦しさやどもりで困っていることを他者にわかってもらい、少しでも自分の心が救われるのと同時に、陰湿ないじめなどに遭わないように予防の意味からも、家族や先生に自分がどもりで悩んでいることを伝えておく必要があると思います。

 第三者から見て「たまに言葉がつっかえているように見える」症状でも、吃音者本人からすれば自殺を日常的に考えるような事態もあることも「あたりまえのようにあるのが」どもりの世界です。
 このようなことがわからないような「どもりに携わろうとするいろいろな分野の専門家」はいないと思いますが? 
もしもそれがわからないと「大きな間違いをすること」となり、どもりを持った人をかえって精神的に追い詰めてしまいます。

 大人の場合は職場において、どもりを持っている自分が言葉の面で「できないこと」と「できること」を上司や同僚に伝えておくことにより、自分が必要以上につらい立場に追い込まれ苦しんだり、同僚やグループとしての仕事の遂行に悪影響を与えないようにすることができます。
*それが事実上できない、つまり、ことばでテキパキと伝えることが仕事を進めるうえで極めて重要な職業においては、仕事に就く際に自分の症状をよく説明し、実際にその環境でやっていけるか話し合う必要があります。
*比較的軽いどもりの場合は特に注意が必要です。同僚や上司は吃音者がどこまでしゃべれるか(もちろんビジネストークです)把握できていないことがほとんどですので、「あいつは消極的だ、サボっている」とか「あんな電話もできないのか!」という誤解を生む結果となり、結果的にその職場に居づらくなってきます。
*いわゆる「有力者のコネ」で、会議や電話、顧客訪問でビジネストークがあたりまえに求められる職場(特に民間企業)に就職してしまった場合は精神的に追い込まれます。純粋な仕事の処理能力以前の「ことばをしゃべる」というごく基本的なところで問題があることを意識して就職活動に望まないと大変なことになります。

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その2
ある程度以上の重さのどもりを持っていることににより・・・、
★家庭内での生活(家族とのコミュニケーション)、
★日常生活での基本的なコミュニケーション(買い物をする、電話をかける、趣味のサークル活動など・・・)
★友人関係のコミュニケーション
★学校生活や職場での活動(先生やクラスメイト、同僚や上司、取引先とのコミュニケーション)、
★就職(転職)活動中のコミュニケーション、
さらに、
★どもりのセルフヘルプグループの仲間内でのコミュニケーション

 に一定程度以上の支障が生じ、結果として人生に「様々な悪影響」が出てきます。
*この場合の「ある程度以上の重さのどもり」とは、それぞれのシーンでの意思疎通に支障がることですが、第三者から見た・聴いた症状はごく軽いものでも、本人が気にしてうつ状態になり生活に支障が出ている場合も同様です。
 このあたりのことがどもりの問題を難しくしています。家族や中途半端な専門家では理解できないことが多いです。重さの異なる吃音者どうしでも誤解を生む場合が多いようです。

 様々な悪影響とは、たとえば・・・、
 子供の場合は、授業中のどもることへの恐怖心や、クラスメート(場合によっては先生からのから)のからかいやいじめにより次第にうつ状態になり成績が下がること。
 社会人の場合は、職場において、挨拶をする、電話をとる、顧客と交渉するなどのごく当たり前にすることに支障が出て、自分の仕事やチームとしての仕事を停滞させてしまうこと。結果的にその職場に居づらくなることが多いようです。

 どちらもそれぞれの人生に直接的な(場合によっては決定的な)悪影響をもたらします。

 日常的に笑われて恥をかいたり、あからさまに迷惑そうな顔をされるなどの経験を続けていくと、吃音者本人のこころが大きく傷つけられ、生きる気力をなくすこととなります。(私がそうでした)

★吃音者をサポートする側は、まずは傾聴に徹することです。(吃音者が安心して本音を言えるような下地を作る) 

 どもりについてはその原因も医学的に解明されていないので、当然、投薬や手術による根治療法はなく、確実なリハビリテーション法もありません。
 そういう現状において、やっかいなのは、実は同じどもりを持つ人のなかの「先輩」かもしれません。
自分の経験からの「治療法」「心構え」を押しつけようとする場合も少なくありません。
 たとえそれが善意から出たことばだとしても、いま悩んでいる人のこころを傷つけてしまう可能性が大いにあります。
 どもりの重さも症状も、そして生きている環境も実に様々だからです

 また「専門家」と言われる人でも、どもりについて決めつけたような見解を持っている方もやっかいな人となり得ます。
 どもりを持つ子供やおとながいる家族(親、兄弟、祖父母)、学校の先生、専門家と言われる人々、さらには同じ吃音仲間でさえもが、まず、すべきことは、
吃音者(児)の言うことにひたすら耳を傾けることです。