どもり、それも日常のコミュニケーションに支障が出るような重さや症状のどもりか、傍から見て気づかないくらいの軽いどもりでも自分として深く悩んでいる場合は・・・、(どもりでない人にはなかなか理解できないことですが)一年中、24時間が辛い人生かもしれません。
*私の場合は、小学生(3年生くらいかな)の頃から、発表時や教科書を読まされるときの恐怖から、少しの間だけでも逃れられる時間帯である週末や夏休みなどの長期の休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです。しかし明日は学校のある日曜の夜や長期の休みの最後の日はとても辛い時間でした)
就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました
さて、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが・・・、
子供の頃からのどもることによる様々な悩みを、いちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)が、実はいちばん分かってくれていないことが多い、ということについて考えます。
生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。
特に子供のうちは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあるでしょう。
自分の努力の外にある「どもる」ということ。
日常の簡単な挨拶から、様々な場面で自分の名前を言うこと、授業中に指名されて教科書を読むこと、指名されて質問に答えること、など、日常、当たり前のように繰り返されることができないかできにくいという「どもりという言語障害」の性質を考えるときに、
まじめに努力しようとしている人ほどそのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせるのではないでしょうか。
「下手な治す努力」は、吃音者をかえって落ち込ませます。
戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた民間の無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。
いっぽう、どもり矯正所は、そこでの「訓練」よりも、同じ悩みを持った多くの仲間と人生ではじめて出会えて、こころのなかをなんのためらいもなく語り合えるという意味では「結果的にですが」大きな意味がありました。
しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)
*いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。
残念ながらいまでも、どもりを持つ子供や大人を取り巻く環境は大きく変わっていません。
街なかには、どもりで悩んでいる人が日常的に気軽に通えるような・・・、
「どもりに精通した言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などがかかわり、どもることによる生きずらさをサポートするソーシャルワーカーなども関わってくれる」
言語クリニックなどは存在しません。
*たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的美通える範囲にないと、それはないのと同じことです。
こんな環境のなかで我々吃音者ができること。
★子供の場合は、学校(小中学校)の通級教室である「ことばの教室」のサービスですが、しっかりと受けられているでしょうか?
そこではどもりに精通した専門家の指導が継続的に受けられていているでしょうか?
子供本人ははもちろん親御さんもしっかりとしたカウンセリングや相談が受けられる体制になっていますか? チェックしてください。
★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える自分のことを話せる友人を作ることです。
そして、必要に応じて彼らと小グループを作りいろいろと動いてみることでいろいろと見えてくるものがあります。
こども(小・中・高校)の場合は、セルフヘルプグループが主催するこども向けの集まり等を利用して同じ悩みを持つ友人を作ることができますし、親御さんも交流できるでしょう。
★どもりで悩んでいる自分のこころが危機に陥らないように(うつ病などのこころの病気や、不登校や引きこもりにならないように)、危機管理のために、ホームドクター的な精神科医や臨床心理士、(言語聴覚士)を見つけて日常的にカウンセリングを受け心の健康を保つことができます。
★家庭内や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ることができます。
工夫して、少しづつで良いので良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。