スピルバーグ氏学習障害を告白、の記事を読んで吃音について考えたこと(再掲載:2012年10月4日)

 いいね!をいただいたものを再掲載します。ありがとうございました。

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 昨日(2012年10月当時)の朝日新聞の記事、「スピルバーグ氏、学習障害を告白 『映画で救われた』」を読んで感じたことです。昨日の朝日の新聞記事より

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 スピルバーグ氏が公表したのは、読み書きが困難になる「ディスレクシア」と呼ばれる障害。5年前に初めて診断され、「自分についての大きな謎が解けた」という。
 小学生の時は読み書きのレベルが同級生より2年遅れ、「3年生のころは、クラスの前で読むことを求められるのがいやで、とにかく学校へ行きたくなかった」「先生も心配してくれたが、学習障害についての知識もない時代で、十分に勉強していないと思われた」と打ち明けた。
 今でも、本や脚本を読むのに、多くの人の倍近く時間がかかるという。 
 また、学習障害がきっかけでからかわれ、いじめられたことも明らかに。「中学時代が一番つらかった。他人の立場から自分を見ることがまだできない子どもは本当にきつく、嫌なことをする。今は理解できるし、恨みもないが、大変だった」と話した。
 一方、「自分が被害者と思ったことは一度もない。映画づくりが、負わなくていい重みから私を救ってくれた」とも述べ、10代初めから撮り始めた8ミリ映画が支えになったと話した。
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 俳優のトム・クルーズにも学習障害があったようですが、歴史に名を残した政治家や、作家、俳優などのクリエーターに、なぜか少なからず心身に障害を持った人がいます。
とういと、おきまりの「だから君もがんばれる!」という話ではありません。
 自分で見つけるか、誰かがヒントを与えてくれたかは別として、自分の好きなこと、打ち込めるものを探してそれを一生の仕事にできれば(仕事にはならなくてもライフワークとしても)、心や体に障害があってもそれなりに充実した人生が送れるのではないかと思います。
*現実には、「持っている障害の重さ」が大きく関係してくると思います。

「いまのままで良い」という現状肯定の考え方もあります。
哲学的な次元ではすばらしいものですが、現実の生活のなかでは、なかなかそうは思えないのが私のような「凡夫(ぼんぷ)」の悲しいところです。
 どこかで誰かに認められる、誰かに必要とされる、ことによって充実感を味わい幸せを感じて生きていく・・・場合によっては、そういう境地に到達できるまでにたいへんな苦労と時間がかかる場合もあるでしょうが、障害を持った人が生きていく上でのひとつのヒントですね。
*「特に得意なこともなく是非やりたいということも見つからない」という、普通の環境で普通の日々(ということは、障害を持っている分だけ生きづらくなることが多い)を送る、障害を持った人のことをまず第一に考えることは言うまでもありません。

家族が病を得て

 家族が緊急入院したのでここ1週間ほど更新できませんでした。大変でした。幸い命には別状はないようでほっとしています。
 自分的には、親戚やドクター、看護師、銀行員などに初対面や自己紹介、電話連絡の繰り返しの毎日だったので、自分の名前が特にどもってしまう私としては、しばらくぶりに自分のどもりを強烈に意識するここ数日でした。
もう少し落ち着いたらまた書き込みます。

この時期「冬期うつ」にも注意ですね

 冬の時期は日照時間が短くなるし、さらに寒いので外出も減る傾向にあります。

こんな状況では「冬期うつ」になりやすいですね。

 朝起きたら、窓を開けるときに朝日を浴びて一日をはじめる。

 一日に30分~1時間は陽を浴びるようにする(できれば午前中)、など工夫が必要なようです。

どもることで子供の頃からいままでどれだけ苦労してきたか、自分の心を傷つけてきたかを振り返ってみることの大切さ

このブログでも何回か書いていますが、
「ほんとうは、自分のことをいちばん分かっているのは自分」というあたりまえのことを確認したうえで、「自分がいま感じている気持ちをごまかさないで、とことん悩むことができることの大切さや必要性」を知ることは、
どもりを自分の一部として受け入れたり、また、症状を軽くする、治していくことにチャレンジするには必要なことです。

さて、常識や世間体という鎧で厚く覆われて隠れているかもしれない自分のほんとうの気持ちを知るためには、誰にも邪魔されずに自分を考えることができる時間と場所を作る必要があります。
私がお勧めするのは、休みの日の朝、時間と心に余裕があるときに、いつもよりも早起きし、顔を洗ったり窓を開ける前、つまり、まだ、睡眠と覚醒の狭間のような時間帯に自分の机に座り、心に一切の規制をかけないで、誰にも見せることのない自分専用のノートに自分の想い(不平不満、希望など、過去の出来事で思い出したことなどなんでも)をこころに浮かぶまま自由に書いていくことです。

この作業を続けていくと、そしてあとでゆっくりとそのノートを読み返してみると、自分(のこころ)がほんとうに悩んでいること、望んでいることが見えてきます。
そして、自分の人生に影響を与えている悩みの本質も少しずつ見えてきます。
また、どもりで悩んでいる自分にとって、いま生きている環境のどこが良くてどこが悪いかも見えてくるでしょう。

また、「自分だけでは持ちきれない苦悩を安心して素直に打ち明けられる環境(人や場所)」を努力して作りましょう。
なんでも話せる親友に打ち明ける方法や、精神科医などの心の専門家の力を借りる方法もあります。

*参考書籍(おすすめの本のところにあります)
「ずっとやりたかったことを、やりなさい」サンマーク出版、ジュリアキャメロン著、 管靖彦訳

思春期以降に自分の「吃音」をきちんと受け止められるようになること(再掲載一部改編:2007年3月)

 日常生活や学校生活に明らかに支障が生じ、心の健康にも影響が出る可能性があるくらいの重さのどもりを持ったまま思春期を迎えた子供は、それは大変です。
 彼らは、勉強、プラス、どもりと、それによって起こるかもしれない「いじめ」などの心配をしていなければならないのです。
もしも、こころからくつろぐ場であるべき家庭内にイザコザがある場合でしたら本当にきつい人生ですね。(実は、こんなケースが多いのです)

 家族や同級生など、まわりの人々の理解がそれなりにあり、陰湿ないじめなどがない場合は、どもることで重いうつ病などの深刻な事態には陥る可能性は少なくなるでしょうが、それでも、大人になり社会に出る段階で、理解者のいない野に放たれることになります。

 たとえば、学校を卒業しいわゆる「コネ」で就職まではできたとしても、企業に入ってしまえば電話も当たり前のようにしなければなりませんね。(どもることを考慮してもらい、しゃべらなくても良いか、しゃべることが仕事に占める比率が極めて低い仕事についた場合、または、仕事の流れに支障が出ても、あえてどもりながらを認めてくれる職場があれば別問題ですが・・・)

 ここで初めて、耐え切れないほどの苦痛と挫折感を味わう人も出てくるでしょう。

 思春期くらいまでは、どもることにあえて触れずに気を使ってくれる人の存在と環境が必要でしょうが、思春期以降になれば自分のどもりの症状を冷静に見つめることができ、そのうえで、将来の進路(進学、仕事)にどもりがどの程度影響するかを冷静に判断できることと、様々な出来事に柔軟に対応できる心が必要になってきます。
 冷静な判断のもとに人生設計ができる心を育てておかないと、結果として耐え切れないほどのつらい経験をすることになる危険性が増します。

 現実にどもる自分を冷静に見つめることができて、プラクティカルな対策をたてていけるようになるためには、必要なときに気軽に相談にいける(サポートしてくれる)ホームドクターのような(高度に訓練された)カウンセラー(言語聴覚士、精神科医、臨床心理士など)が、これからは是非必要です。

自分の吃音をチェックする

 自分が「どもり」であることはわかっていても、自分のどもりかたを録音したり録画して客観的な立場で見ることはほとんどの方がしていないと思います。

 自分のどもりを録画して見てみるといろいろなことがわかってきます。
 その行為自体かなりの勇気がいるかもしれませんが、たとえば電話をかけている自分をビデオカメラで撮ってみるのです。
最初は躊躇からなかなかダイアルボタンを押すことができません。しばらくして観念したのか顔をゆがめながら声を絞り出すようにどもりながら話します。難発のどもりの場合は最初の言葉がまったく出てこないか、「エート、エート」ばかり繰り返しています。

 無理な速さで話そうとしていないか、どもりたくないために、また、早くしゃべってしまいために、すべての言葉をいちどに言おうとしていないか、のどのあたりを自分で絞めてしまうような話し方をしていないか、姿勢はどうか・・・・・・など、自分の目と耳で自分のどもり方(音声・画像)を詳しくチェックしてみるのです。

 「どもったままでよい」、「どもりは治したほうがよい」という議論を超えて・・・・・

 「自分は普段、このような無理な姿勢で、このような無理な発声やしゃべり方をしていたのだ。これならばどもるだろう、そしてなかなか良い方向に向かわないのももっともだ!」と実感されることもあるかと思いますし、なにも感じられないこともあると思います。

 しかし、これらのことを過大に解釈すると、昔(第2次世界大戦前)からある民間無資格矯正所の「腹式呼吸や丹田に力をいれて呼吸すれば必ず治る」、という単純な方向に進む危険がありますので注意が必要です(腹式呼吸は健康には良いですが「笑」

 

吃音であることで困ること!

 「どもり」であることで、日常の生活でどのようなマイナス面があるのでしょうか?
 時間ごとにみていけば、「どもり」は朝一番の「おはよう」や「行ってきます」の言葉が出にくいか、出ないところからはじまりますね。(朝からいきなりさわやかではありませんね!)
 
 もっとも、どもりでノイローゼのようになっている場合(私もそうでした)は、
前の晩からよく眠れずに、次の日の学校での発表や、会社の会議で発表すること、また、お得意様に朝一番でクレーム対応の電話をしなければならない、ことばかり考えてしまいます。
 どうせ考えるならば、「結果的に相手に用件が伝えられること」をイメージすればよいのですが、「どもって相手に用件を伝えらえない」マイナスのイメージトレーニングばかりをしてしまい、結果として不安から眠れなくなってしまいます。
 
 どもりであることで毎日の生活で「困る!」ということが悩みの骨格ですから、
いくら(私のようにばかな頭で無理して)哲学的にどもりについて考えてみても、困っているという事実は変わりませんね。、
 そして、人間の心は「深層心理」によって支配されているので、無理して「どもりを気にせず生きていこう」などと思おうとしても、それは、かえって心の病気になる原因になってしまうかもしれません。
 
 現状では、ある程度以上重い症状のどもりを持ちながらも社会生活を自分らしく生きていけている人と言うのは、彼らと実際に会って話してみるとわかるのですが、自ら「毎日をなんとかでも生きぬいていこう」という意思のもとに、いろいろな経験を経て、どもりであるが故の苦しさを耐え抜いて、結果として「何か」をつかんだ人のように思えてなりません。
 
 私も勉強してきたようなさまざまな心理的療法は、文章上ではいかにも合理的で、魅惑的です。
これらを適用すれば、効率的に、どもりの人がどもりながらでも自分なりの人生を生きていけそうに、また、あわよくば結果的にでも、どもりそのものが軽くなる、と思ってしまいそうになります。
 
 しかし、残念ながら理屈の通りに行っている人を(私は)見たことがありません。
 
 実際の人生の中で、もまれながら、
ある人は、今のままでつっぱり通して何とか生きていけている、またある人は、トライしてみたがどもりのために人生の途中から方向転換をして自分なりの人生をつかんだ方もいらっしゃいます。
 
 しかし、それとて、人生の変化の中でそれまでの努力が水泡に帰し、また、ゼロからスタートしなおさなければならないこともいくらでもあるでしょう。
 
 人生は、それほど複雑で重いものです。そして時には楽しいものです。
 
 ですから、「個人レベルでの努力と苦労の果てにしか得ることのできないどもりとの共存、場合によっては結果としてのどもりの改善や治癒」という現状から一歩前進させるためには、
 われわれもよほど覚悟して本気でどもりと言う問題を考えて、対処していかなければいかないと思います。
 
 
 
 
 
 
 

吃音を 情緒論で考えるか、システム的に考えるか

 どもりの問題には、個人の経験や想いを中心に「情緒」で考えていくのか、または、社会にどのような「カウンセリング」システムその他を作れば、どもりの人が自分なりの人生を充実して送っていけるか、という2つの論があるように思います。

 それが現在「ごちゃごちゃ」になっていて、もともと次元の違う「情緒論」と「システム論」が同じレベルで論じられているから、なかなか話が進まないような気がします。

 個人の経験やどもりに対する想いは仲間同士で語り合っていけば良いだろうし、

一方、システム的な問題は、個人の経験を踏まえた上で行政や学者などの研究者も巻き込んで、できるだけ多くのどもりの人が自殺したり・引きこもりになったりしないという最低ラインを確保し、さらに、どもりを持ちながらも自分の特性を生かし自分らしい充実した人生が送れるように社会的なシステムをどう構築していくかということを冷静に考えていく必要があるでしょう。

「吃音のままでよい」、と、「毎日の仕事」のはざまで

 「どもり」という言語障害をもっていても、そして毎日がとてもとても辛くても、生徒・学生は学校に行く(かなければならない)し、社会人は稼ぐために仕事に行かなければなりません。
 
(もちろん行かない自由もありますね。しかし、仕事をしなければお金が稼げず生きていけません。
どもりを「障害」と考えるときに、どもりによって学校や仕事に行けないようならば、それに対処するための正式な「医療」や財政的な援助があってしかるべきです。このあたりをそろそろ真剣に考えるべきです。
また、どもりであるがために、学校や職場に行きたいのに心理的に追い詰められて引きこもりになったり、うつ病になって長期間苦しんだり、どもりでるがために一生懸命に就職活動してもちゃんとした仕事がなかなか見つからない現実も当たり前のようにあります。)
 
 どもりについては、いろいろな考え方(治そうという考え、そのままでよいという考えなど)がありますが、そういう議論を超えて、人間としてひとりで独立して生きていくためには、どうしても「しゃべる必要」がある場面にいくらでも出くわします。まわりにほかに人がいなければ苦手な電話に出ることもあるかもしれませんし、他の人がオフィスが出払っている場合は接客をする場合もあるでしょう。
 
 現実に毎日を(なんとかでも)生きぬいていくために少しでも言葉の流暢性を確保したいと思うのは、ごく当たり前の気持ちでしょう。
「そのために頼るところがない」という現実こそがどもりの問題の核心かもしれません。
 
 悪者扱いされている(している)民間の矯正所がなくならないのはこのあたりに理由がありそうですね。
 
 公的な機関も、セルフヘルプグループも、学者も、どもりの人の現実(本人の苦悩、経済的・心理的な環境の悪さ)から一歩も二歩も離れて安全圏から、第3者のように、アドバイスを行っているように見えて仕方ありません。
 
 民間のどもり矯正所がいぜんとしてなくならないのは、実は、われわれ吃音者とそれを取り囲む現実の反映なのではないでしょうか??
 
 そして、現実に行われている公的なサービス(学校の言葉の教室の質と量の向上、どもりを受け付けてくれる病院の設置)を検証し意見を言うのは、われわれでしかできないことすし、納税者としての当然の権利でもあります。
 
 
 
 
 
 

吃音という障害を持つということはどういうことなのか

 「どもり」という障害を持つと・・・・・・、「言いたいとき」や「言わないといけないとき」に、言うべき言葉を、「まったく言えない」か、「同じ言葉を繰り返して、最後まで言おうとしているがタイムアウトになってしまう」か、「つっかえながらでも(笑われながら)何とか言えるか」、などの状態になります。

 ごく軽いどもりの場合は、どもりやすい言葉を言い換えたりすれば「表面的には」まわりの人にバレズに済みますが、それでも本人は苦しんでいる場合が多いようです、・・・・・(そのような「軽い場合」は今回は考えません。)

 言うべき言葉、たとえば、「自分の名前、会社名、学校名、おはようございます、はい、印刷物に書いてある文字を読む」・・・・・などを、言うべき時に出てこないか、なかなか出てこない「タイムリーに言えない」のです。

 授業中に教科書を音読するように指名されて立ち上がっても、最初のことばがしばらくの間出てこないか、めちゃくちゃにつっかえながらでないと読むことができないのです。

 オフィスでは、ほかの人が当たり前にできる仕事上の何気ない電話ができないのです。勇気を出して受話器をもってみても出てくるのは冷や汗ばかりです・・・・・・・

 ある程度より重いどもりを持っている人は、このような経験を日常的にしています。

 そして、そのどもりは医学的な解決方法を持たないばかりか相談するところが一切なく、あったとしても多額の「治療費??」を要求される民間のどもり矯正所くらいしかありません。(当然治りません)

 そんな人たちは(私もそうでしたが)、思春期以降に「自殺を考えるほどの」絶望的な苦しみを少なからず経験されているはずです。

 しかし、こんな、その人の人生を変えてしまうほどの「どもり」という苦しみに対応できるだけの能力と意志をもった、ST(スピーチセラピスト、日本では言語聴覚士)が、ほとんどと言っていいほどいないのです。

 ですから、苦し紛れにどもりの人自身が立ち上がって努力して作り上げた「セルフヘルプグループ」で活動して、なんとかしのいでいるのです。