吃音:オックスフォード流吃音、サンダーバード、そして、白洲次郎(たびたび再掲載:初掲載は2011年1月7日)

 昔、予備校生の時に、英語の先生がケンブリッジだかオックスフォード卒のイギリス人でした。
 若くて背が高くて着こなしも良くて、初めて身近で定期的に接したガイジンだったためにそれなりのカルチャーショックでした。

 彼はどもりながら授業を進めていくのだけれども、それがなかなか格好いいんです。(子供の頃からどもりで悩んでいた私にはカルチャーショックでした)

 それから少し経ってから、たまたま何かの本かTVで、イギリスの教養人はすらすらしゃべるのではなくて、むしろどもりながらしゃべるのを好むらしいということを知り、またまたショックを受けました。本当だろうか?と
 オックスフォード流のどもり、らしいですね。

 それから、かなりたってから(つまり現在に近い過去)ですが、
 こどもの時に熱中した人形劇「サンダーバード」に出ていた「ブレインズ」という名前の科学者は、オリジナルの英語版で聞くと結構どもっていることを知り、これもまたカルチャーショックを受けました。

 またまたちょっとたってから、たまたま正月番組で、
 みのもんたさんかさんまさんが司会をしていた、「すごい日本人」みたいな番組で「白洲次郎」のことを知りました。(白洲次郎について書かれた書物をお読みになることをおすすめします。日本人もこんなにかっこのいい生き方ができる人がいたことを知ることになると思います。)
 白洲次郎ブームが始まるきっかけとなった番組をたまたま見たわけですが、彼が子供の頃からどもりであったことを知るとともに、GHQから「従順ならざるただひとりの日本人」と言われていて、ケンブリッジ仕込みのタフな交渉力で対等に交渉をしていくというカッコイイ逸話も知りました。(あのマッカーサー元帥さえしかりつけたという・・・)

 その白洲次郎が新憲法の起草に関わっているときにGHQの高官に出した手紙というのも印象に残っています。
 山の絵を描いて、ふもとから頂上にまっすぐに進む線と、もう一つは、ふもとから迂回しながら徐々に上っていく曲がりくねった線を引き、
Your Way(つまりアメリカ側はアメリカ的に最短距離を論理的かつ効率的に進もうとするが)、Our Way(我々日本人は遠回りして「いろいろ寄り道して」同じ頂上に達する)というような説明の手紙でした。

 どもりについても同じようなことが言えるのではないか。
 原因がわからず、従って確実な治療法がない現在、いろいろ寄り道しながら頂上を目指すしかないのではないか?
 そして、その頂上もひとつではなくて、いくつかの頂上があり選んでいけるような形にしたいものです。

 時間軸にそっていくつかどもりにまつわる話を書きましたが、
 勘違いされやすいのは、どもりは気が小さかったり神経質だからなるのではないということ、
最初に「どもり」という症状があり、結果的に神経質になったり、どもり始めた子供の頃からの家庭環境の悪さからどもりが神経症的・うつ病的な症状を呈してきたりするのですね。

 白洲次郎の話にしても、オックスフォード流のどもり(こちらはわざとどもり風にはなすらしい)の話でも、
 彼らが比較的軽いどもりだからそれが逸話になるのであって、自分の名前を言うのにもいちいち大きくどもってしまう、電話口でもただ口をパクパクさせているだけでことばが出てこないような重いどもりだったり、比較的軽いにしてもそれによりうつのような症状になりこころが傷つき毎日生きていくのが苦しいような状態ならば、それは話しが全く大きく違ってくるということです。勘違いしないようにしなくてはいけません。

 親がどもり始めた我が子へ「ゆっくりしゃべりなさい」「落ち着いてしゃべりなさい」とアドバイスしたり、どもったことばを言い直しをさせたりすることは、
どもりを持った人のこころをかえって傷つけ、そのどもりを重い固定化されたもの、メンタル的にも複雑なものへと進めてしまうような危険性があります。

吃音(どもり持ち)の就職活動についてのテレビ報道について

★NHK総合テレビ2023年7月3日月曜日「NHKおはよう日本」関東甲信越(7時45分~8時のあいだ)
 と同内容のものが
★NHK首都圏ネットワーク2023年7月5日水曜日(18時30分~19時のあいだ)
*放送日から1週間、NHKプラスで視聴可能です。

 に、5分程度ですが、吃音のある学生の就職活動についての様子が報道されました。

 内容は、吃音持ちで苦労の末、吃音のことをカミングアウトして就職できた青年が、就活中の若者に対して行った小さなワークショップのような催しについてで、ある女子学生がカミングアウトして結果的に就職できたという内容です。

有名人の吃音(どもり)経験の報道について

 先日、朝日新聞(デジタル)上の、フリーアナウンサー小倉智昭さんの吃音についての記事
2023年5月7日、小倉智昭さん、吃音と歩んだテレビ人生「とくダネ!」で心がけた事
 を読みました。
*実際にはYahoo!ニュースの記事で知りました
 
 有名人の吃音(どもり)経験については、
 古くはギリシャの雄弁家デモステネス、高度成長期の宰相田中角栄など、調べればかなりの数出てくると思います。
*このブログでもバイデン大統領の吃音経験についての書き込みがあります。
2021年1月17日付 2021年の吃音者

 今回の記事、アナウンサー小倉智昭さんのどもりについては、どもり持ちでなくてもすでに知っておられる方もいらっしゃるのではないかと思います。

 私が初めて知ったときには、アナウンサーとして成功し自分の番組を長年続けていた小倉さんが子供の頃からのどもり持ちでいることに驚き、
同時に、彼がどの程度の重さ・症状のどもりであって、どういう環境で(特に子供の頃から就職まで)に生きてきたのか知りたいと思いました。

 今回の報道では、記事を取り上げたYahoo!ニュースのコメントにいろいろな立場からのいろいろなコメントが寄せられていました。
 言語の専門家のコメントは優等生的なもので、どもりといってもいろいろなので注意する必要があることと、公的なサポートが貧弱であることの問題点が指摘されていました。
 吃音当事者のコメントは様々で、どもりを持っていてもそれなりに活躍できている(という)人から、どもりのために生き方がかなり制限されて苦しんでいる人まで幅広いものでした。

 どもり持ちといっても実に様々(重さ、症状、生きてきた環境)であり、
たまに報じられるこの手の報道をどもりでない一般の方がどのように聞き、身近に吃音者がいる場合にどのようなアドバイスをするかが心配になりました。

「小倉さんも立派にやっている、だから大丈夫だ!」とか「おまえは甘い!」などのアドバイスを引き出しがちなのがこの手の報道です。

 吃音当事者としては、今回のような報道をどう捉えて、どのように生かしていき、少しでも吃音者が結果的によい方向に進めるかを考えなければなりません。

2022年、吃音者(どもり)を取り囲む状況は

2022年(令和4年)になりました。
(原因不明ですが)落ち着いていたコロナの検査陽性者数も、ここにきて急速に増えてきて今年も厳しい年の初めですが、
皆様にとって少しでも良い年になるように祈っております。

さて、吃音者、どもりをもっていろいろな不都合を抱えていらっしゃる皆さん(自分もそうですが)にとって、今年はどのような年になるのでしょうか。

どもりを持っているといっても、その大変さは、年齢、性別、その他おかれている(きた)境遇によって、かなり違います。

しかし、2022年、コロナ禍が収まらず、経済が停滞し、このような状況下では、どもりを持っている人にとって良い年であるはずがありません。
就職・転職、仕事、学校…、大変厳しい中ではありますが、何とかチャンスをとらえて、また、心を許しあえる仲間と語り合いながら、少しでも良い方向に進んでいけるようにしたいものです。ゆっくりと、したたかに、

2021年の吃音者

★逡巡するこころを認める
 どもりを持ちながら生きていると、その重さや、吃音者を取り巻く家庭環境・学校環境・職場環境によってもかなり違いますが、
人生のいろいろな場面で逡巡(しゅんじゅん=ぐずぐずすること。ためらうこと。しりごみすること「広辞苑より」)することがあります。

 2021年1月のいまも、どもりのために、
家庭のなか、学校のなか、職場のなかのどもりであるが故の生きづらさに悩んだり、学校や職場に通えずに、また、就職や転職ができずに・・・
自殺をも考えるほど悩んでいる方がかなりの数いらっしゃると思います。
*このコロナ禍ではなおさらです。

 そのようななかで、自分の逡巡するこころを自分で認めてあげること、迷いながら生きていくことを認めることを、
まわりの人はなかなか認めて応援してはくれませんが、自分と(自分のことを分かってくれる人を是非みつけていただいて)自分を守ってください。

★バイデンの逸話
年末年始のテレビ報道で何回か目にしたことですが、アメリカの次期大統領バイデン氏が、子供の頃にどもりで悩んでいたとのこと。
 悩んでいた少年時代のバイデン氏は鏡の前で発声練習をして克服した、とのことと、遊説中に知り合ったどもりの少年との交流が報道されていました。

 この手の報道でいつも思うのですが、
これをたまたま目にした、どもりで悩んでいる人を身近に持つ家族、友人、学校の先生、職場の同僚などが、
「だから君も大丈夫だ・・・」との応援が、かえっていま悩んでいる吃音者を追い詰めてしまうことがあることです。

★吃音者をどのようにバックアップしていくか
 どもりをもって悩んでいるこどもから大人までが、いまの境遇において、できるだけ良い方向に進んでいけるように・・・
どのようなバックアップ体制が今、そして将来に必要か?

 いま必要なことは・・・、
 安心して迷える・悩めることではないでしょうか。

 それには、悩みを心おきなく語れる場所や時間を持てるようにすることです。
 現実的に言って、家族に理解してもらうのはかなり難しいようです。
少し勇気を出してどもりのセルフヘルプグループに通ったり、こころが追い詰められている場合には、いや、そうなる前に気軽に通える精神科医や臨床心理士をみつけてください。

 将来的に必要なことは・・・
何回か書いていますが、精神科医、臨床心理士、言語聴覚士、ソーシャルワーカーがチームとなって、どもりを持つ人を長期にわたってサポートし続けられるように、街なかに気軽に通える「言語クリニック」を作ることです。

普通の吃音者のための対策を(再掲載一部改編:初掲載は2007年1月8日)

 私はこのブログで「どもりの人」と「どもりでない人」、
どもりでも、「症状の重い人」と「軽い人」を分けて考えるような方法をとっています。

 このような考え方自体古臭いのかもしれませんが、ここでは、できるだけ「哲学的な吃音論」は避けて、
どもりを持ちながら現実の社会を普通に生きている普通の人々が、できるだけ生きやすくなるようなさまざまなシステムを考えていきたいのです。

 ここで言う普通の人々とは、どもりを持ち大変な苦労をしながらも、(普通の家庭の)経済的な理由から、高校、大学、専門学校などの「学校」を卒業したら普通に就職する人(就職を考える人)のことです。

 そして、普通に就職(就業)とは、
 都市においては、普通に民間企業や役所に入り、(普通に)電話したり交渉したり物を売ったり、農村地においては、普通に農業や漁業に精を出す人たちのことです。

 21世紀の今にあっても、どもりの問題が相変わらず「問題」であり続けている理由が、その普通の生活や仕事をしていく上で大きな障害になっているという事実が変わらずに存在し、
その障害の度合いも、どもりが重いほど大きいという事実があるからです。

 私は、国内において優れた実践を行なってこられたどもりに関わる様々な専門家(と言われる人)でも、高齢になってこられると、吃音を哲学的に偏って捉える度合いが大きくなってくるように感じています。
 若いころは実際に多くのどもりの人と接していた、そのころを経て、中高年以降になってくると、専門家のかた自身も人生のまとめの時期になってくるからでしょうか?

 ここに大きな問題があるような気がします。
 自分自身ではどもりに対する考えが深まり、今までは考えなかった方向からもどもりについて思索を始める。
 そして、「例えば、何かの訓練をしてどもりを治す、少しでも軽くしよう」といういま困っている吃音者があたりまえに考えること・願望の次元を超えて・・・、
哲学的に吃音やどもりを持ったままの人生を考えることはある意味当然のことだと思います。その人にとっては吃音との同居ができたのかもしれません。

 しかし、いまどもりに悩んでいて相談に来る「新しい人々」にとっては、それらの経験値も哲学的な思索もなく、まさにゼロからの出発になるのです。
 吃音者に向き合う専門家も、若い頃の先生だったら、新しく訪れたクライアントの共感を得られるでしょうが、
現在の先生では、クライアントとの心の経験値の差が出てきてしまいます。

 どもりの世界では、いかに専門的な高い学位をもっていても、
「専門家といわれる人々がどもりを治せないという」大きな矛盾があります。

 たとえば、がんの名医がどうして名医かというと、彼らは他の先生では治せないがんを治せるから自他ともに認める名医なのであって、どもりの世界ではそれが当てはまらないのです。

 専門家といわれる彼らはどもりが治せず、本当は意味があるはずの彼らの哲学的な助言さえ、自らどもりを持ちながら社会の一線でそれなりに生きてきた(いわゆるどもりを克服した)一部の人からは嘲笑の対象にまでなり得るというねじれた現実がそこにはあります。

 ある欧米の高名な言語病理学者(どもりを持つ)の言葉のなかに、
「どもりであるから言語病理学者になることであえて楽な世界にいることができる」という正直な独白的な文章を目にしたことがありますが、示唆に富む言葉です。

 それは、日本の高名な禅僧が一般の人に対して、
「(禅寺のなかで日々修行している)われわれよりも、娑婆でいろいろなことにもまれながら日々生きているかたがたの方がよほど修行になる」と言った、というような事にも通じます。

「普通のどもりの人々」が良い方向にすすめるシステムを考えていきたいと思います。

2020年吃音(者)を取り巻く状況

 毎年、年頭にはこんなことを書いています。
 どもりを持つ(子供の頃から持ってきた)当事者として書いていきます。

 2020年といっても、吃音者を取り巻く状況は代わり映えはしていません。

 今日は多くの職場では働き始める日です。(すでに始まっている方も多いかと思います)
 学校も始まります。

 私が思い出すのは、学生のときでも社会人になってからでも、休みに入る前の晩がいちばん安心できて、休みの最後の日の夜がいちばん辛くなりました。
 なぜならば、明日から学校や職場で話すことの恐怖が始まるからです。
しばらく休んでいた分、話すことへの恐怖心が増しています。

 あえて、年末休みに入ってからも(話すことから遠ざからないために)会社に出て電話対応したこともあります。
*このあたりの対応も、どもりの重さの違いで変わってくると思います。

 さて、このブログにコメント(公開・非公開)を寄せていただいた方のなかでも、
★学校でどもってうまく本が読めなかったり会話ができなくて、笑われたりいじめにあったりしたこと
★お子さんのPTAの電話連絡が恐くてできない方、
★職場で自社名すら(うまく)言えなくなり社内ではなくて非常階段や公園で電話する方(それでもどもってしまい顧客から担当の変更を要請されその後うつとなり退社)、
  など、どもりにより辛酸をなめられてきた方の生の言葉が寄せられます。

 そのような状況に対するしっかりとしたサポートシステムが事実上ない状態のまま2020年も始まりました。

★どもりで困っているこどもから大人が気軽に通える、家の近くにある言語聴覚士がいる言語クリニック(精神科医、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどがチームとしてサポートしている)があること

★学校でのどもりによる困りごとやいじめに対応する(こども側にたってサポートしてくれ、権限を持って学校側に意見してくれる)(言語聴覚士、ソーシャルワーカー)などのサポーターがいること

★職場(就職活動や仕事上)でのどもりによるパワハラ等に対応できる、(権限のある)ソーシャルワーカーなどがいること、

 これが吃音に関する「初夢」です!

吃音:オックスフォード流吃音、サンダーバード、そして、白洲次郎(再掲載一部改編:初掲載は2011年1月7日)

 今回の書き込みの初回は2011年1月です。東日本大震災の前になります。
 テレビドラマは、20~30年ほど前までは、戦前から戦中をはさんで展開されるというものが定番のようにありました。
 戦中・戦後の苦労ということなのでしょうが、最近は東日本大震災以前と以後というようなくくりで作られたドラマも出てきました。

PTG(ポスト・トラウマティック・グロース=Post Traumatic Growth 、(心的)外傷後成長)という言葉があります。最近語られることが多くなりました。
 とても苦しく悲しい、衝撃的な経験をしたあとに(そのときはとても厳しい時間を生きても)その後はむしろ人間として成長する、というなこと。
(苦しい心的経験をすればその人は必ず精神的に成長するということではありません)

 そのような雰囲気を持ったテレビドラマも出てきました。

 本題に入ります。

 予備校生の時に英語の先生がケンブリッジだかオックスフォード卒のイギリス人でした。
 若くて背が高くて着こなしも良くて、初めて身近で定期的に接したガイジンだったためにそれなりのカルチャーショックでした。

 彼はどもりながら授業を進めていくのだけれども、それがなかなか格好いいんです。(どもりの私にはカルチャーショックでした)

 それから少し経ってから、たまたま何かの本かTVで、イギリスの教養人はすらすらしゃべるのではなくてどもりながらしゃべるのを好むらしいということを知りまたまたショックを受けました。
オックスフォード流のどもり、らしいですね。

 それから、かなりたってから(つまり現在に近い過去)ですが、
 こどもの時に熱中した人形劇「サンダーバード」に出ていた「ブレインズ」という名前の科学者は、オリジナルの英語版で聞くと結構どもっていることを知り、これもまたカルチャーショックを受けました。

 またまたちょっとたってから、たまたま正月番組で、
 みのもんたさんかさんまさんが司会をしていた、「すごい日本人」みたいな番組で「白洲次郎」のことを知りました。(白洲次郎について書かれた書物をお読みになることをおすすめします。日本人もこんなにかっこのいい生き方ができる人がいたことを知ることになると思います。)

 白洲次郎ブームが始まるきっかけとなった番組をたまたま見たわけですが、彼が子供の頃からどもりであったことを知るとともに、GHQから「従順ならざるただひとりの日本人」と言われていて、ケンブリッジ仕込みのタフな交渉力で対等に交渉をしていくというカッコイイ逸話も知りました。(あのマッカーサー元帥さえしかりつけたという・・・)

 その白洲次郎が新憲法の起草に関わっているときにGHQの高官に出した手紙というのも印象に残っています。
山の絵を描いて、ふもとから頂上にまっすぐに進む線と、もう一つは、ふもとから迂回しながら徐々に上っていく曲がりくねった線を引き、
Your Way(つまりアメリカ側はアメリカ的に最短距離を論理的かつ効率的に進もうとするが)、Our Way(我々日本人は遠回りして「いろいろ寄り道して」同じ頂上に達する)というような説明の手紙でした。

 どもりについても同じようなことが言えるのではないか。
 原因がわからず、従って確実な治療法がない現在、いろいろ寄り道しながら頂上を目指すしかないのではないか?
 そして、その頂上もひとつではなくて、いくつかの頂上があり選んでいけるような形にしたいものです。

 時間軸にそっていくつかどもりにまつわる話を書きましたが、
 勘違いされやすいのは、どもりは気が小さかったり神経質だからなるのではないということ、
最初に「どもり」という症状があり、結果的に神経質になったり、どもり始めた子供の頃からの家庭環境の悪さからどもりが神経症的・うつ病的な症状を呈してきたりするのですね。

 白洲次郎の話にしても、オックスフォード流のどもり(こちらはわざとどもり風にはなすらしい)の話でも、
彼らが比較的軽いどもりだからそれが逸話になるのであって、自分の名前を言うのにもいちいち大きくどもってしまう、電話口でもただ口をパクパクさせているだけでことばが出てこないような重いどもりだったり、比較的軽いにしてもそれによりうつのような症状になりこころが傷つき毎日生きていくのが苦しいような状態ならば、それは話しが全く大きく違ってくるということです。勘違いしないようにしなくてはいけません。

 親がどもり始めた我が子へ「ゆっくりしゃべりなさい」「落ち着いてしゃべりなさい」とアドバイスしたり、どもったことばを言い直しをさせたりすることは、
どもりを持った人のこころをかえって傷つけ、そのどもりを重い固定化されたもの、メンタル的にも複雑なものへと進めてしまうような危険性があります。

僕らは奇跡でできている

 テレビは決して見るほうではなく、でも「私はテレビなど見ません」などと拒絶するほどでもない私は、ワンクールで一番組ぐらいはドラマを続けて見ている感じでしょうか。

 今回のクールでは、高橋一生主演のフジテレビ「僕らは奇跡でできている」を見ています。
 高橋一生が演じるところの都市文化大学動物生態学研究室講師の相河一輝(あいかわかずき)は、まわりの空気を読めなかったり、でも自分の好きな分野に関しては膨大な知識があり・・・と発達障害(アスペルガー症候群??)を持った男性(20代後半の設定か?)のように見えます。

 このドラマの暖かさは、「できないことをあげつらっていくのではなくて、できることを見つけていく」ことで、
彼(一輝)の純粋な行動や言動が、まわりに良い意味で拡散していく過程を描いているように見えます。

 自分らしい生き方ができている、確かに限られた範囲でかもしれないが、生きることができている・・・
 たいへんすがすがしさを持って毎回見ています。

 こういうふうにできていけば、世の中変わっていくなあ~と思いながら楽しんでいます。(高橋一生、なかなか良い演技です)

「吃音にこだわる」と「吃音で困る」の違いは (再掲載一部改編:初掲載は2011年10月22日)

 吃音者が生きていく上で・・・、
どもりに「こだわる」ことをやめて、毎日の生活、つまり「生きていくこと」を優先させていこうという考え方があります。
*どもりの重さの違いや環境(特に子供のときの家庭環境)の違いによって、こだわり方、こだわる度合いも大きく変わってくるでしょう。

 一方、どもりで悩んでいる人(私もそのひとりですが)と深く話し込んでいくと、どもりに「こだわっている」のではなくて、もっと単純な話しで「どもることで困っている」ということがよく分かります。

 おとなの場合で言えば、
★どもることで仕事に大きな支障が出て困っている。このままでは職場に居づらい

★どもるために就職・転職できないで困っている。
*他の能力は十分にあるのに、どもりのために希望する職種に就職できないということも含む

★日常生活や親戚付き合いにおけるコミュニケーションに支障が出てこまっている
ということなのです。

 子供でいえば、
★学校の授業中や休み時間に大きくどもったり分かっていることが言えずに困っている。劣等感にうちひしがれている。

★どもることを笑われたりからかわれたりすることにより恥ずかしい想いをし、劣等感の塊になっている。(陰湿ないじめを受けていることを含む)

★死にたいと思うほど深刻に悩んでいるのに、家族はその想いを受け止めてくれずに困っている。

 つまり、哲学ではなくて生活(生きていくこと)に根ざした問題なのです。
子供でいえば将来(進路)のことで大きな不安を感じて困っているということ。
大人でいえば、人と関わって、話して、働いてお金を稼いで生きていくのに困る、という問題なのです。

★どもりが軽くなるか治る(そうするために自分でいろいろと努力する)
★ことばで勝負しない仕事に変える
★いじめられている学校から転校する
 などにより、どもることにより困る割合が減るか、減らしていけば、結果的にどもりにこだわる割合も減っていくでしょう。哲学ではなくて身体感覚なのです。
*現実的には、転校先の学校でまたいじめられる、転職先の職場でも同じような苦労をすることもあり得ます。

それを実現するのにはふた通りあるのではないか。
★ひとつ目は、自分の生活環境、生活圏を変えることです。
 極端な話しでいえば、どもりをもっている人たちが独自のコミュティーを作り(解放区のようなもの)そのなかで生きていくことです。
 かつて、「〇〇運動」という名前で独自の人生観を持った人たちが集まって村のようなものを作り集団生活するようなことがあったらしいですが、それに近いかもしれません。
 もう少し現実的にいえば、UターンやIターンで都会から離れることです。たとえ、収入が大きく減っても、地方でゆったりと過ごすことにより自分が取り戻せるかも知れません。
 また、現在地を離れない場合でも、生活レベルを下げてもよいという覚悟ができれば、ことばの面で必要以上に無理をしない職業に変わるということで困る度合いを減らせるでしょう。

★もう一つは、自分を、いま生きている環境やこれから生きたい環境に自分を適応させるべく努力することです。
 それには、心理カウンセリング(本人、家族)やリハビリテ-ション(言語訓練)を行なうことにより、どもりを少しでも軽くすることがあります。
 また、仕事に支障が出ないように、どもりの度合いを低いレベルで維持するように努力することも含まれます。
*現実にはどもり(特に思春期以降)に精通した言語聴覚士は極めて少ないので自分で工夫する必要があります。どもりのセルフヘルプグループなどで知り合った気の合う仲間で集まり公民館などの部屋を借りて、どもりそうな場面を再現し、問題点や対策を話しあい考えるサイコドラマと学習会を行なうのも効果的だと思います。

 自分なりに努力しても、どうしても仕事に支障が出てしまい精神的に耐えられないならば、自分の心と体を守るために、計画的に転職・転業していくことも含まれます。

 しかし、これらがなかなかうまくいかないから、いまに至るまで、ある程度以上の重さの吃音を持つ人は困っているのです。
*背景には、どもりの原因が医学的にわかっていないのでしっかりとした治療法がない、効果的なリハビリテーションができない、社会的にどもりの苦しさが認知されていないのでしっかりとした対策がなされない、ということがあります。

 今回書いてきたことも、「重さや症状の違い」や「育った環境の違い」によって大きく変わってきてしまいます。
どもりの問題は、ケース毎にすべて違うものだと考える必要があります。
*違うからこそ、吃音者どうしで違いを意識しつつ協同してできることがあるのではないか、と思います。