吃音者を「自己不一致」に陥らせない(陥らない)ことの大切さ (たびたび再掲載一部改編:初掲載は2007年3月14日)

 どもる人が自分ですべきこと、
 また、どもりで困っている人の身近にいる人(家族、友人、ことばの専門家、精神科医など)がサポートできることで優先順位が高いものは、
どもりを持つ人を「自己不一致」の状態に陥らせないようにすることです。

 どもることは(どもらない人には想像もできないほど、自殺さえ意識するほどに)吃音者に耐え切れないほどの苦痛を与え続けることがあります。

 それは、重さや症状の違い、吃音者が生きている(精神的、経済的)環境の違い、さらには、まわりにいる人(家族・同僚・同級生など)の理解の度合いの違いなどによっても大きく異なってきます。

★考えたくなくても(考えるのをよそうと思うほどに)、24時間常にどもりのことばかり考えてしまい、しゃべることが怖くて仕方がなくなる。

★どもることにより起こる「生きづらさ」を連続的に経験することにより、次第に「生きていくことがつらい、死んでしまった方が楽だ」と思うようになり自殺を試みたり、うつ病などの深刻なこころの病気になることさえあります。
*自分がそうでした。

 ある程度歳をとってからならば(その年齢までなんとか生きられれば)、「良い意味でのあきらめも」でて肩の力も抜けてきて、多少は「生き易く」なってくるケースもあるかも知れませんが、
思春期から30代の中ごろくらいまで(私の場合)は、どんなに強がっても心の底では「治したい・そのうちに治る」と思いたいし、また、そのような希望がなければ、とても生きていられない状況でした。

 自分の子供の頃を思い出してみても、
 親やまわりの人が言ってくれる「大人になれば治るよ」という励ましの言葉を疑いを持ちながらもどこかで信じていて、
「大人になってもどもっている自分の姿」を想定していませんでした。
(したくありませんでした。)

「今はどもって、つらくて恥ずかしい思いをしているが、大人になれば皆と同じように普通にしゃべれるようになるんだ!」と、自分に言い聞かせていました。
*こう思うことで自分の心の平衡をギリギリの線で保っていたような気がします。

 しかし、これも、度が過ぎると、今の自分を生きられなくなります。(自己不一致)
つらい現実があり夢の世界に逃げ込んでみても、現実の自分は幸せになるどころかますます追い詰められていきます。

 いつも自分のなかに違う自分があり、そこに逃げ込むことで、しばしの安堵感を得るということは心理的にとても危険なことです。心の病になってしまいます。
「どもりが治ってから就職しよう。」
「どもりさえ治れば就職できる。」
「学校の成績が悪いのはどもりのせいだ」
・・・これらのことは、ある意味そのとおりかもしれません。

 どもりのせいでうつ状態になり苦しくて苦しくて・・・
 しかし、自分ではどうしたらよいかわからない。

 こんな曇りガラスに爪をたててひっかくような毎日をへとへとになりながら生きている人にとって、「どもりでさえなかったらスムーズに就職もできたかもしれないし、明るく自由闊達な学校生活も送れたかもしれない」と思うこと、そういう思いに逃げ込むことは責められることではありません。

 でも、辛いですが、現実の自分はどもっているのです。
 「どもりがなくなった自分を心のなかに作り上げて」それがあるべき自分・本来の自分と考えて、「今現在、実在するどもる自分」を自分自身で否定してみてもよい方向には進むわけがありません。

 どもりが治るまでは・・・できない、どもりが治ってからなら出来ると考えて、今を生きないで人生を先延ばししてみても無為に時間を過ごすだけです。

 つらいですが今のどもる自分で出来ることから動き始めるしかありません。
*でも、矛盾するようですが、ときには、そんなふうに考えてしまう自分も認めてあげることもとても大切なことす。そういう自分も自分の一部なのだから否定されるものではありません。そういうところがないと余計に自分を追い詰めてしまいます。

 理想の自分とは違うかも知れません(どもりがなければ自分の能力ではもっと違うことが出来るはずだ!と思うかもしれません=実際そうかも知れません。)

 でも、バーチャルな自分に軸足を置くのではなくて、今出来ることから始めることが、結果として時間の浪費をせずして自分らしく生きていける最短距離と考えるべきです。

 いろいろと経験された末にどもりの症状がかなり軽くなっている方に出会うことは、セルフヘルプグループなどに参加しているとそれほどまれなことではありません。
そのような人たちは、軽くなってから動きはじめたのではなくて、地に足が着いている生き方をはじめてから「結果として」吃音の症状が改善されたのです。

 しかし、ここが重要なのですが、吃音の客観的な症状は、結果として改善される人と、そうでない人がいることも事実です。
*「軽くなった人」も突然のぶり返しで、いまの生活に大きな支障が出るということも、当たり前のように起こります。

 何かを成し遂げると必ず症状が軽くなる=そして社会的成功がある、という構図で考えてしまうと、それが、また、自己不一致の原因になってしまいます。

 どもりには、いままで書いてきたような複雑な事情が背景にあります。

 さらに、古くからあり、いまでも形を大きく変えて残っている民間吃音矯正所(のようなもの)の存在や、セルフヘルプグループのなかのいろいろな問題、そして、どもりを専門にする言葉とこころの専門家の質的量的不足が、結果として吃音者に苦しみを与え続けています。

「就職・仕事・職場」などの人生の「現実」を踏まえた吃音の論議が必要です(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2008年6月9日)

 どもり、特に思春期以降の「おとなのどもり」の現実は、専門家と言われている人が「治せない」ことです。
*いまの医学の限界です。仕方がありません。

 一方、矛盾するようですが、思春期以降まで持ち越したどもりでも「改善」されるケースはいくらでもあります。それは、医療の領域ではなくて、吃音者自身が積み重ねてきた民間療法の領域です。

 しかし、その「改善」も、
「どもりでない人と競争しながら働く一般的な企業の事務職や営業職などでの仕事」という位置で考えてみると、一時的なものであったり気休めでしかないことが多いのも事実です。
*治ったか・改善されたかに見えたどもりが突然ぶり返し、場合によってはいままでよりも重くなり、いままでできていた電話や交渉ができなくなること(それで仕事上で追い詰められる)は良くあることです。
*そもそも、どもりとの戦いばかりに心の力を費やしていると、うつ病などの心の病にかかってしまうこともありますので注意が必要です。

 今回はどもりを「仕事」という観点から考えます。

 その仕事は、時給が千円くらいの「アルバイト」ではなくて、
 結婚し家庭を支えて子供を育てていけるくらいの収入を得るための「正社員としての仕事」と「どもり」について考えていきます。
 これは、きわめて現実的な問題です。
*どうして取り上げたかというと、そういうふうに生きられていない吃音者が多いからです。

 学生時代までは、それなり重い場合でも、いじめなどでひきこもらなければ、なんとか卒業まではもっていくこともできるでしょう。
*陰湿ないじめによるひきこもりはどれくらいあるのでしょうか?統計などはありませんが、現実には、どもりを理由に引きこもっている人、つまり、学校にも行っていないし仕事もしていない人は相当数いるのではないかと思われます。

 学生時代まではなんとか形が付けられていた場合でも、学校を出て就職するときには、また、職場では、そういうわけにはいかないのです。
 ある程度以上の重さのどもりを持つ人のほとんどは、仕事に就くときに大きな壁にぶち当たるのです。
*傍から見て気がつかないような軽いどもりでも、自分で悩んで人生に支障が出ていればそれは「重いどもり」です。

 成人の吃音については(いつも書いているように)公的専門機関によるサポートは事実上なく、一般の病院でも有効なサポートは「ほぼ無い」と考えて良いでしょう。
*日本に数カ所あったとしても通えませんね。

 悩んだあげくに、苦し紛れに門をたたくのが、戦前から綿々と続いてきた「民間無資格どもり矯正所(のようなもの)とネット時代のその変化型」か、吃音当事者の集まりである「どもりのセルフヘルプグループ」です。

 どもり矯正所(のようなもの)についてですが、
 そこに通い「改善」されたかに見えても、いざ独力で就職活動をはじめようとして電話をかけたり交渉したりすると、「改善」は気休めでしかなかったことに気がつきます。
*誰かの力を借りて、いわゆる「コネ」で就職しても、入ってからは独力で就職した以上に苦しむと思います。

 それでも「なんとか生きていくため」に無理して頑張るわけですが、ここからが、どもりとの本当の戦いになるのかもしれません。

 就いた(就こうとする)仕事の種類によって言葉を使う場所や頻度は大きく違いますので一概には言えませんが、職場では、あたりまえのように電話をし難しい交渉もします。
特に厳しい競争にさらされている民間企業の営業職などについた場合(ついてしまった場合)には、どもりを持つ人にとっては相当なプレッシャーのはずです

 そのような「仕事の現実」にさらされている人は、「どもってもよい」などという哲学的な議論や矯正所に通って多少の言語訓練をしたところで、それが無力だということをイヤというほど経験させられるのです。

 しかし、またも矛盾するようですが、就職するまでの第一歩としての「民間矯正所での経験(そこの内容ではなくて、そこで知り合った友人たちとの関係です)」や、「セルフヘルプグループで同じ悩みを抱えている方たちとの語らい」の効果は否定できない価値があるのです。

「学校を出ても就職できずに引きこもってしまった場合」や、
「どもりからうつ病になって苦しい思いをした場合」から徐々に立ち直って、重い腰を上げて就職活動をはじめ、はじめて働き始めるくらいまでには、どもりでない人にはまったく想像がつかないくらいの「心の力」を必要としますが、同じ悩みを持つ友との何気ない語らいがそれを与えてくれるのです。

 どもりについては机上の空論ではなくて、
 どもりで悩んで自信をなくしてしまったり引きこもっている人がリスタートし、安定した仕事に就けた時にはじめて「どもったままで良い」という哲学的な議論ができる余裕が出るのだと思います。

「仕事」には、言葉を主に使う仕事もあれば、そうでない仕事もあります。
いわゆるサラリーマンにしても、営業もあれば、技術系、工場勤務もあり、言葉を使う頻度や場所も様々です。
その他、福祉関係、農業・漁業と、仕事は実にたくさんの種類があることを我々は忘れているのではないでしょうか?

 人生は、「こうでないといけない」という世界ではなく、「正解」はありません。いろいろな生き方が可能なのです。
 あまり思い詰めないで、「自分らしく自分なりの生き方をすればよい」、ということも忘れてはいけないと思います。

 ご家族や近くにいる方も吃音者本人を暖かくサポートしていただければ、どもりで悩んでいる人が過度に精神的に追い詰められずに生きやすくなるのではないでしょうか。

どもりを持った人のいまの時期(入学・進級・就職の時期)その2

 どもりを持った人、それもある程度以上の重さのどもりをもっている場合は、新学期、入学、入社、転職後に大きな困難が伴います。
*いつも書いていることですが、どもりの重さとは、傍から見てどもっているその重さだけではありません。傍から見てほとんどどもっていないか、むしろ饒舌に見えても、名前などの特定のことばを言うときに突然、おおどもりになる場合もあり、それで仕事や学業に自分として支障がでていて自殺を考えている場合もあります。

 もっとも、それ以前に、どもりを原因として、それら(入学・進級、就職・転職)がうまくできずに、どうして良いかわからない状態(でも家族からは非難されている)か、引きこもり(がち)になっている方もそれなりの数いらっしゃると思います。私もそういう経験があります。

 ここでのキーワードが、「いまの自分に合った環境なのかどうか?」ということです。
入ったのが名門の学校か、有名会社かということではないのです。
 いまの自分のしゃべりのレベル(流暢性)が、いまの学校や職場で必要とされているそれに合っているかどうかということなのです。

 向上心のある方ほど無理をします。また、前向きな生き方を提案している文章や他のひとの考え方に影響されて、がんばればなんとかなり道が開けると考えてがんばってしまうと、無理がたたってこころが疲弊してしまい、気がついたときにはこころの病気になり追い詰められているということはよくあることです。

 どもりは言語の障害であり、原因が不明、治療法も確立されていません。

 せめて、ことばの問題の国家資格者である「言語聴覚士」、それも子供から大人までのどもりに幅広い知識と臨床経験を持つ方がいて、吃音者が住む街で日常的に通える範囲で開業しいるか、その地域の総合病院にて気軽にかかれる吃音外来をしているような状況であれば相談できるのですが、そういう状況ではありません。

 そういう前提のもとで我々ができることは、21世紀の2024年現在でも・・・私が80年代末から90年代初め頃にしていたのと同じように、
 どもりのセルフヘルプグループに参加して、いままでは誰にも打ち明けられなかったどもりの悩みを分かち合って、疲れ切ったこころをほぐし、
必要に応じて仲間内での様々な工夫で流暢性を確保する、
このような、何十年も前の過去から行われてきた「苦しまぎれの民間療法」をすることくらいです。

参考:
「吃音者が本来希望する仕事に就くために、ことばの流暢性を高める工夫をすることと、努力しても希望通りにいかないときに諦めて別の生き方見つけること(プラクティカルな見地から) その1からその4 まで」

「真面目で向上心のある吃音者がむしろ追い込まれる」

吃音:オックスフォード流吃音、サンダーバード、そして、白洲次郎(たびたび再掲載:初掲載は2011年1月7日)

 昔、予備校生の時に、英語の先生がケンブリッジだかオックスフォード卒のイギリス人でした。
 若くて背が高くて着こなしも良くて、初めて身近で定期的に接したガイジンだったためにそれなりのカルチャーショックでした。

 彼はどもりながら授業を進めていくのだけれども、それがなかなか格好いいんです。(子供の頃からどもりで悩んでいた私にはカルチャーショックでした)

 それから少し経ってから、たまたま何かの本かTVで、イギリスの教養人はすらすらしゃべるのではなくて、むしろどもりながらしゃべるのを好むらしいということを知り、またまたショックを受けました。本当だろうか?と
 オックスフォード流のどもり、らしいですね。

 それから、かなりたってから(つまり現在に近い過去)ですが、
 こどもの時に熱中した人形劇「サンダーバード」に出ていた「ブレインズ」という名前の科学者は、オリジナルの英語版で聞くと結構どもっていることを知り、これもまたカルチャーショックを受けました。

 またまたちょっとたってから、たまたま正月番組で、
 みのもんたさんかさんまさんが司会をしていた、「すごい日本人」みたいな番組で「白洲次郎」のことを知りました。(白洲次郎について書かれた書物をお読みになることをおすすめします。日本人もこんなにかっこのいい生き方ができる人がいたことを知ることになると思います。)
 白洲次郎ブームが始まるきっかけとなった番組をたまたま見たわけですが、彼が子供の頃からどもりであったことを知るとともに、GHQから「従順ならざるただひとりの日本人」と言われていて、ケンブリッジ仕込みのタフな交渉力で対等に交渉をしていくというカッコイイ逸話も知りました。(あのマッカーサー元帥さえしかりつけたという・・・)

 その白洲次郎が新憲法の起草に関わっているときにGHQの高官に出した手紙というのも印象に残っています。
 山の絵を描いて、ふもとから頂上にまっすぐに進む線と、もう一つは、ふもとから迂回しながら徐々に上っていく曲がりくねった線を引き、
Your Way(つまりアメリカ側はアメリカ的に最短距離を論理的かつ効率的に進もうとするが)、Our Way(我々日本人は遠回りして「いろいろ寄り道して」同じ頂上に達する)というような説明の手紙でした。

 どもりについても同じようなことが言えるのではないか。
 原因がわからず、従って確実な治療法がない現在、いろいろ寄り道しながら頂上を目指すしかないのではないか?
 そして、その頂上もひとつではなくて、いくつかの頂上があり選んでいけるような形にしたいものです。

 時間軸にそっていくつかどもりにまつわる話を書きましたが、
 勘違いされやすいのは、どもりは気が小さかったり神経質だからなるのではないということ、
最初に「どもり」という症状があり、結果的に神経質になったり、どもり始めた子供の頃からの家庭環境の悪さからどもりが神経症的・うつ病的な症状を呈してきたりするのですね。

 白洲次郎の話にしても、オックスフォード流のどもり(こちらはわざとどもり風にはなすらしい)の話でも、
 彼らが比較的軽いどもりだからそれが逸話になるのであって、自分の名前を言うのにもいちいち大きくどもってしまう、電話口でもただ口をパクパクさせているだけでことばが出てこないような重いどもりだったり、比較的軽いにしてもそれによりうつのような症状になりこころが傷つき毎日生きていくのが苦しいような状態ならば、それは話しが全く大きく違ってくるということです。勘違いしないようにしなくてはいけません。

 親がどもり始めた我が子へ「ゆっくりしゃべりなさい」「落ち着いてしゃべりなさい」とアドバイスしたり、どもったことばを言い直しをさせたりすることは、
どもりを持った人のこころをかえって傷つけ、そのどもりを重い固定化されたもの、メンタル的にも複雑なものへと進めてしまうような危険性があります。

卒業式のシーズンの吃音者(どもりを持つた人)は

 いま頃になると、1980年代末、大卒後も就職できずに民間のどもり矯正所に通っていた自分を思い出します。

 その時期は暗かった時期かというと実はそうでもないのです。

 なぜかというと、いままで誰にも言えなかったどもりの悩みを思う存分話し合える仲間をはじめて見つけたからです。
*私がどもりを自覚しはじめた(悩み出した)のは小学校の3年くらいです。親が言うには3歳くらいからどもり始めたようですが、学校で本をよまされたり、発表をするたびにどもるので笑われたりしているうちに3年生くらいになって悩み出したのでしょう。

 1990年代中頃くらいまでは、都内には民間のどもり矯正所(無資格のものです)が数カ所ありました。
 その多くは昭和30年代くらいからはじまったのでしょうか。
 なかには戦前からあった有名な?矯正所もあり、漫画雑誌や週刊誌に小さな広告が載っていたり電信柱に広告が貼ってあったりもしました。(なんともアナログな時代です)

 卒業の時期の3月や夏休みになると、全国から泊まりがけで都内のどもり矯正所に来る人たちがいて彼らと仲良くなったりしたものです。
 当時の民間矯正所については、いままで何回も書いてきたように、多くの問題を抱えていましたが、ひとつだけ良かったことはどもりについてなんでも話せる友が得られたことでした。
*いまでは、どもりのセルフヘルプグループがその役を果たしているのでしょう。

吃音による様々な不都合を人に伝えることの難しさについて(その1~2)(再掲載一部改編:初掲載は:2014年4月25日・5月12日)

その1***
 今回は、自分がどもりで苦労をしたり悩んでいることを
「親・兄弟・配偶者などの家族・親族」
「学校の先生、友人、恋人」「職場の同僚や上司」
 に伝えることの必要性、難しさ、また、注意点について考えます。
*どもりで悩んでいる当事者が小学生なのか、学生か、社会人かなど、年齢や立場によって、また、どもりの重さや症状の違いによっても伝え方やその問題点が大きく変わってきます。

★なぜ伝えるのか 
 子供の場合ならば、どもりの苦しさやどもりで困っていることを他者にわかってもらい、少しでも自分の心が救われるのと同時に、陰湿ないじめなどに遭わないように予防の意味からも、家族や先生に自分がどもりで悩んでいることを伝えておく必要があると思います。

 第三者から見て「たまに言葉がつっかえているように見える」症状でも、吃音者本人からすれば自殺を日常的に考えるような事態もあることも「あたりまえのようにあるのが」どもりの世界です。
 このようなことがわからないような「どもりに携わろうとするいろいろな分野の専門家」はいないと思いますが? 
もしもそれがわからないと「大きな間違いをすること」となり、どもりを持った人をかえって精神的に追い詰めてしまいます。

 大人の場合は職場において、どもりを持っている自分が言葉の面で「できないこと」と「できること」を上司や同僚に伝えておくことにより、自分が必要以上につらい立場に追い込まれ苦しんだり、同僚やグループとしての仕事の遂行に悪影響を与えないようにすることができます。
*それが事実上できない、つまり、ことばでテキパキと伝えることが仕事を進めるうえで極めて重要な職業においては、仕事に就く際に自分の症状をよく説明し、実際にその環境でやっていけるか話し合う必要があります。
*比較的軽いどもりの場合は特に注意が必要です。同僚や上司は吃音者がどこまでしゃべれるか(もちろんビジネストークです)把握できていないことがほとんどですので、「あいつは消極的だ、サボっている」とか「あんな電話もできないのか!」という誤解を生む結果となり、結果的にその職場に居づらくなってきます。
*いわゆる「有力者のコネ」で、会議や電話、顧客訪問でビジネストークがあたりまえに求められる職場(特に民間企業)に就職してしまった場合は精神的に追い込まれます。純粋な仕事の処理能力以前の「ことばをしゃべる」というごく基本的なところで問題があることを意識して就職活動に望まないと大変なことになります。

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その2
ある程度以上の重さのどもりを持っていることににより・・・、
★家庭内での生活(家族とのコミュニケーション)、
★日常生活での基本的なコミュニケーション(買い物をする、電話をかける、趣味のサークル活動など・・・)
★友人関係のコミュニケーション
★学校生活や職場での活動(先生やクラスメイト、同僚や上司、取引先とのコミュニケーション)、
★就職(転職)活動中のコミュニケーション、
さらに、
★どもりのセルフヘルプグループの仲間内でのコミュニケーション

 に一定程度以上の支障が生じ、結果として人生に「様々な悪影響」が出てきます。
*この場合の「ある程度以上の重さのどもり」とは、それぞれのシーンでの意思疎通に支障がることですが、第三者から見た・聴いた症状はごく軽いものでも、本人が気にしてうつ状態になり生活に支障が出ている場合も同様です。
 このあたりのことがどもりの問題を難しくしています。家族や中途半端な専門家では理解できないことが多いです。重さの異なる吃音者どうしでも誤解を生む場合が多いようです。

 様々な悪影響とは、たとえば・・・、
 子供の場合は、授業中のどもることへの恐怖心や、クラスメート(場合によっては先生からのから)のからかいやいじめにより次第にうつ状態になり成績が下がること。
 社会人の場合は、職場において、挨拶をする、電話をとる、顧客と交渉するなどのごく当たり前にすることに支障が出て、自分の仕事やチームとしての仕事を停滞させてしまうこと。結果的にその職場に居づらくなることが多いようです。

 どちらもそれぞれの人生に直接的な(場合によっては決定的な)悪影響をもたらします。

 日常的に笑われて恥をかいたり、あからさまに迷惑そうな顔をされるなどの経験を続けていくと、吃音者本人のこころが大きく傷つけられ、生きる気力をなくすこととなります。(私がそうでした)

★吃音者をサポートする側は、まずは傾聴に徹することです。(吃音者が安心して本音を言えるような下地を作る) 

 どもりについてはその原因も医学的に解明されていないので、当然、投薬や手術による根治療法はなく、確実なリハビリテーション法もありません。
 そういう現状において、やっかいなのは、実は同じどもりを持つ人のなかの「先輩」かもしれません。
自分の経験からの「治療法」「心構え」を押しつけようとする場合も少なくありません。
 たとえそれが善意から出たことばだとしても、いま悩んでいる人のこころを傷つけてしまう可能性が大いにあります。
 どもりの重さも症状も、そして生きている環境も実に様々だからです

 また「専門家」と言われる人でも、どもりについて決めつけたような見解を持っている方もやっかいな人となり得ます。
 どもりを持つ子供やおとながいる家族(親、兄弟、祖父母)、学校の先生、専門家と言われる人々、さらには同じ吃音仲間でさえもが、まず、すべきことは、
吃音者(児)の言うことにひたすら耳を傾けることです。

吃音:本人の本来持つ「ことばに対する想いや知性」と、しかし実際にはどもってしまい、それらを話すことばとして(上手に)表現できないことがもたらすもの(その1、その2)再掲載一部改編(初掲載は2019年6月30日)

 今回はテーマが舌っ足らずなので、まずは例で補足します。
 
例えば学校では・・・
★十分に分かっている答えなのに、どもりそうなので(恥ずかしい想いをしたくないので)「分かりません」と答える

★思い切って答えたのだが、どもりながら答えたために、「答えられた」という結果よりも、どもってしまった、そして笑われたという敗北感・劣等感の方が大きくて落ち込んだ

★黙読の段階ではすべて読める(理解できる)教科書の内容なのに、いざ、「声に出して読め」と言われると、最初のことばすら出なかったり、しどろもどろのどもりながらになってしまい笑われて、いつものように落ち込んだ

職場では・・・
★顧客の前(または電話で)で、(どもりでない人には)あたりまえに言えるはずの「自社の名前」や「自分の名前」が(なかなか)出てこない
こんなことが続き、顧客から担当の変更を求められてきた。(まともにしゃべれる人にしてください、と)

★会議やプレゼンテーションにおいて、(頭のなかでは素晴らしい内容ができあがっていても)実際にことばにだす段階ではどもってしまい(うまく)言えない、表現できない、結果として相手に伝わらない(仕事にならない)

 つまり、知識や想い、そして、ことばに出すまでの準備としては十分なのに、
実際にことばに出そうとする(出す)瞬間に・・・、
言うべきことばが発語できないか、どもり特有の「すすすずずき・・・」というかたちになってしまい、情報や意見を相手にタイムリーかつ正確に伝えられないことにより、自尊心が大きく傷つけられてしまう、(学校や社会では低い評価となる)

・・・こんな毎日の繰り返しでは、どもりを持つ人の心が確実に傷つき腐ってきてしまう。

 その人が本来持っている知性や想いを相手に伝えるための道具である「話すことば」が不完全なために、
学校生活(学習)や職場での仕事、家庭内での基本的なコミュニケーションに支障が出てしまい、自分の頭のなかでできあがっていることばと、相手に実際に伝わることばとのギャップに自分自身が悩み、落ち込み、自分自身をも低い評価にしてしまう。

その2
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 その人が本来持っている知性や想いを相手に伝えるための道具である「話すことば」がどもりのために不完全になり、学校生活(学習)や職場での仕事、家庭内での基本的なコミュニケーションに支障が出てしまい、
「自分の頭のなかでできあがっていることば」と、「相手に実際に伝わることば」とのギャップに自分自身が悩み、落ち込み、自分自身を低い評価にしてしまう。
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 このギャップこそが、どもりの悩みの中核かもしれません。

 言語障害なのだから仕方ないといわれてしまってはそれまでですが、どもりを持つ人は「自分は障害者ではない」と思いがちです。

 なぜならば、「家族や親しい友達との何気ない会話でも常にどもるような重い状態」の人よりも、比較的軽い人(どもりの調子に波があり、調子が良いときは短時間の会話程度ならばどもりと気づかれないことがあるが、調子が悪くなると日常のコミュニケーションにも支障が出る)が多数派だからです。

 そういう人は自分のことを言語障害者ではないと思っている(思いたい)のです。

 さて、どもりを持った人が様々な学校内での活動や職場での仕事のシーン、
★例えば、学校で発表する、教科書を指名されて立ち上がってひとりで読む、学内の委員会の委員として発表する・討議する、

★社内や社外の会議、顧客の前でのプレゼンテーション、仕事上のトラブルが発生し顧客にそれを説明するときなどは、その人のコミュニケーション能力の見せ所であり、仕事をする人間としての真骨頂でもあるはずです。

 しかし、吃音者はそれができないか極めて苦手である、
 何よりも、評価するのは学校の先生、仕事上の上司や顧客であるということから、緊張も加わり、さらにどもりがひどくなる条件が増えます。

 上手に読もうとするほど、うまくプレゼンしようとするほど・・・その人の本来のどもりの症状や重さ以上に緊張感も加わり、さらに重いどもりとなって良い結果を出しません。
この繰り返しが、吃音者の人生を狂わせるのです。

我々吃音者ができることは・・

★自分たちで工夫して練習する
 どもりのセルフヘルプグループのメンバーのなかの気の合う人たちとよく話し合い、苦手なこと(電話、発表、自己紹介、交渉など)を想定して、それに近い状況を再現しながらうまく切り抜ける(どもりながらもその場を切り抜ける)方法などを探していく、
 公民館の部屋などは安く借りられるので、苦手な状況を再現した「サイコドラマ」を行ない、しようとしていることがどもりながらも(なんとか)できる方法を学んでいく。
参考:「吃音仲間でできること」(セルフヘルプグループの原点に戻る)、「お互いに信頼できる吃音者が集まってできること」

★悩みを共有できる親友を持つ
 いつものように書いていることですが、どもりの悩みを真剣に聞いてくれる人はほとんどいない、見つかりません。(家族も含めて)
 そこで、どもりのセルフヘルプグループなどに参加してひとりでよいので、何でも話し合える親友をみつけてください。

★こころの危機管理のためにホームドクターとしての精神科医や臨床心理士を持つ
 これもいつものように書いていることです。
 どもりの悩みは放置しておくと、うつ病などのこころの病気になることがあります。なってからでは治療に時間やお金がかかりたいへんです。
 危機管理のために、日常的に気軽にかかることのできる精神科医や臨床心理士をみつけておいてください。彼らはどもりについて深い知識はありませんが、こちらから吃音者のこころについて説明すれば、彼らの専門知識をもってサポートしてくれるでしょう。

吃音:「小学生の頃」、「吃音を持つ子供にとっての思春期は」、「吃音者にとっての思春期後期」 (再掲載一部改編、3回分:初掲載は2010年5月19、20,21日)

★小学生の頃★
 どもりを持った子供が自然に治らずに小学生になり、徐々にどもりであることを意識し始める2~3年生、
授業中に先生に指名されても本が(うまく)読めなくなり、
先生の質問に答えようとしても、最初のことばがなかなか出てこなくなるなどのことが続くと・・・、
そのどもりは「単なる症状」の域を超えて2次的な「心理的などもり」へと進んでしまいます。
*人によってはもっと小さな頃からこうなることもあるでしょう。

 その背景には他者の関与があると思います。
学校では、どもるたびに同級生に笑われたりまねをされることもあるでしょう。
 そのようなことをする同級生に先生が注意をしたとしても、注意の仕方によっては、かえって陰湿ないじめになるかもしれません。(ネットも含めた)

 そのうえ・・・、
 学校から家に帰ったときに悩みを素直に打ち明けられるような家庭ならば良いのですが、忙しいことを言い訳に我が子の悩みに無関心を装ったり、かえって厳しい言葉を発してしまうとか・・・、

 どもる度に「ゆっくりしゃべりなさい」と注意、どもったことばを言い直しをさせるようなことで、かえってどもりを過剰に意識させるようになってしまいます。

 この時期は、本人の心構えというよりは、まわりがどのようにサポートするかということが重要となります。

 学校では、友達に理解を求めて傷つくような言葉を発しないようにすることなど実際には不可能です。
 また、どもりを持つ子供の心理まで研究してくれ対処してくれる先生はどれほどいるでしょうか?
*それでなくても雑用で忙しい先生ですから。
*それでも、親として、先生に対して子供がどもりで悩んでいることを相談しておくことは必要だと思います。

 一方、家庭においては、家族の努力で、どもりを持つ子供が「居やすい」「心休まるところ」とすることができます。(学校では間違いなく神経をすり減らして帰ってきていますから)
 それはどもりで悩んでいる我が子を甘やかせということではなくて、むしろ質実剛健な雰囲気のなかで育てればいいでしょう。

 どもる度にいちいち注意するようなことはせずに、ゆったりとした雰囲気の家庭にすることを心がけるのがいちばんです。
親もゆっくりとしゃべることを心がけ、笑いが絶えないような家庭を目指してください。
 子供のほうから、「どもりでこんなふうに悩んでいる」「きょうはどもって笑われてしまった」などと、わだかまりなく悩みを打ち明けられるような家庭になればしめたものです。
*実際は、こんな家庭はきわめて少数です。

 これらのことと平行して、
 探すのに時間はかかると思いますが、どもりに関心を持ってくれている心や言葉の専門家である言語聴覚士や臨床心理士、精神科医に相談すると良いと思います。
*本当は、吃音児の心理を知り臨床経験豊富な言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などが日常的に通える範囲にいて、カウンセリングのほか、必要に応じて適切な言語訓練なども受けられるような体制があればよいのですが、いまの日本には事実上ありません。

★吃音を持つ子供にとっての思春期は★
 思春期は一般的にいってもいろいろと大変な時期です。
 友達関係、勉強、クラブ活動、受験など、あらゆることがダイナミックに変わる時期であるだけに、障害のない人にとっても大変な時期だと思います。

 どもりを持っている子供にとってはどうなのでしょう?
 学校生活(授業、クラブ活動、委員会活動など)はまさにしゃべることの連続です。
 授業中には先生の質問に答えたり、指名されてテキストを音読したり、まさに、声に出してしゃべる・発表することが毎日の仕事というような、いまになって振り返ってみてもぞっとする地獄のような日々です。(いまでも良く夢に見ます)

 私の場合は、最初の言葉がブロックされて出ないタイプ、それもかなり神経質などもりでしたので、調子の悪いときは指名されても立ちんぼで「しゃべれない」こととなり、「わざとしゃべらない」と思われてしまうような状態になるのです。

 元々の性格が引っ込み思案ならば良かったのかもしれませんが、自分の意見をはっきりと述べたい目立ちたいタイプの子供だったので、
また、調子がよいときにはほとんどどもらないこともあるような調子の波の振幅が大きいどもりだったので、
「言いたいことがたくさんあるのにそれが言えない」ということがフラストレーションとなり、また、深刻な家庭内不和がある環境も背景にあり、いま考えると明らかに強迫神経症に陥っていました。
*しかし、当時(70年代~80年代初頭)は、精神科・神経科に行こうなどとは夢にも思いませんでした。精神科という言葉自体に拒否反応がありました。

 そのような毎日の繰り返しに、よく耐えてきたと思います。
「自殺」ということばを常に懐にしまっている子供でしたが、中学・高校の頃はまだ心に柔軟性(のびしろ)があったのでしょう。我ながらよく耐えてきたと思います。

 調査資料などはありませんが、耐えきれずに自殺の道を選ぶ子供はどれくらいいるのでしょうか?
 インターネットが一般的になった今日、ごくまれに、我が子や兄弟を吃音の悩みによる自殺で亡くした書き込みに接することがあります。

 では、思春期(小学校高学年~高校生くらい)にある、どもりで悩んでいる子供はどうすればよいのでしょうか?
 また、そのような子供を持つ親はどうすればよいのでしょうか?
*いい歳になったいまでも、思春期の頃のことを書き始めると心が大きく揺さぶられます。つらい出来事がフラッシュバックします。自分にとってよほどつ辛く、しかも、それを誰にも言えない時期でした。よく、自殺しなかったなと思います。

★自分でできること
 これは、今の年齢になっているからこそ言えることかもしれません。
 実際に、思春期まっただ中でどもりで悩んでいる皆さんは、こんなふうに冷静に考えることができずに心がフリーズしてるかもしれません。
*いまの私が、当時の私のところにタイムスリップしてアドバイスするつもりで書きます。

1、10歳代なんて人生始まったばかりです。 若い頃にたとえ数年間のつまずきがあったとしてもたいしたことはないのです。(でも、その頃には、なかなか、それはわかりませんね。)

2、「ジコチュウ」で生きましょう。自分を責めるように生きている場合が多いのでそれでちょうどよいかもしれません。

3、「家」や「親」に必要以上に気を遣うことはやめましょう。親は先に死んじゃうので自分のこれからの人生を最後まで責任とってくれません。(難しいことですが)どもっている本当の自分を親に見せましょう。

4、自分のことは自分がいちばんわかっています。常に自分を冷静に分析する習慣をつけましよう。

5、どもりを持ちながら学校に行くのが耐えられないくらいに苦しいのならば、我慢せずにいかなくなるのもひとつの方法です。上の学校に進むには他の方法もあります。人は苦しむために生きているのではありません。
*引きこもってしまってからでは自分の心が自由にならなくなります。その前にぜひ信用できる誰かに(いなかったらこころの電話等の相談先に)相談してください。

6、ひとりで良いので、安心して自分の心の内をさらけ出せる人を確保することです。

7、悩みを素直にぶつけられる「マイ精神科医」、「マイ臨床心理士」、「マイ言語聴覚士」を見つけてください。

8、必要に応じてどもりのセルフヘルプグループに参加してみましょう。相談会やキャンプなどで是非同じ悩みを持っている友達を作ってください。

★親ができること

1、もしも子供がどもりの苦しさを訴えてきたら、傾聴しましょう。

2、親からみて子供がどもっていれば、その子は間違いなく悩んでいます。

3、子供のどもりを軽く見ないで、場合によってはその子の人生を大きく変えてしまうかもしれないくらいに考えてください。深刻にならないで真剣になってください。

4、民間療法やご近所情報などのインチキ情報に振り回されないことです。我が子のどもりを本当に心配しているならば、日本中、世界中の権威者を探すくらいの真剣さが必要です。その気持ちは子供に伝わります。

5、甘やかす必要はありません。質実剛健な家庭を作って家庭のなかは努めて明るくすがすがしくしましょう。

★吃音者にとっての思春期後期★
 思春期後期、ここでは高校生から大学時代前半くらいとして考えます。
 どもりを持ったまま高校生に。
 本来は楽しい高校生活かもしれませんが、進学や就職がだんだん近づいてくるということを実感する頃です。 
 高校もいろいろですが、進学校に入れば入った直後から熾烈な競争のなかに放り込まれますし、学級崩壊(学校崩壊)しているようなところに入っても別の苦労があります。

 私の記憶のなかにあるのは、合格が決まり3月中に行われたオリエンテーション時に、名前の申告でどもってしまったこと。
いまでも覚えているということは余程のトラウマになっているのだと思います。 そのときには、「これじゃあ高校生活も大変だな」と暗澹たる気持ちになりました。

 高校でも相変わらず(今まで以上に)授業中の恐怖は続くでしょう。
 特に国語関係のテキストを読まされるときは如何ともしがたいです。
「源氏物語」をどもりまくって読んでみても・・・。

★思春期後期を迎えた吃音者にアドバイスするとすれば、

1、授業中、いつ指名されてテキストを読まされるかと震えているのでは肝心な勉強に身が入りません。
 思い切って先生に言って教科書を読む時に指名しないようにしてもらうのもひとつの方法ですが、いろいろな意味で微妙なところです。そのあたりも考えながらの対策となります。

 いまの時点での考えですが、そして、あくまでも家庭に理解があり経済的にもクリアーされればですが、
いまの学校生活がどもることにより耐え難いものならば、思い切ってやめて、大検のコースに進む方法もあります。
 それはそれで大変かもしれませんが、精神的に救われるのならばそういうコースを選択することも考えてよいと思います。
 心の病気になってしまうと回復に時間がかかります。

2、少しでも言葉の流暢性を向上させたい 毎日の学校生活で言葉の問題に直面せざるを得ない人の正直な気持ちでしょう。
*もちろん、そう思わない方もいると思います。

 しかし、そういう思いに対応する、公的・専門的な立場からの組織的なサポートはありません。
 そこで考えられるのが、自分たちで「サークル」を立ち上げることです。

 仲間どうして専門書を読みあって勉強しても良いでしょうし、国内外の心や言葉の専門家を訪ねてみるのも良いでしょう。
 仲間内で工夫して心理面のサポートシステムを作っても良いし、いろいろと工夫しながら言語訓練をやってみるのも良いですね。

 私の場合はグループでサイコドラマを行いました。(成人して大卒後からですが)
 公民館の部屋を借りて授業中やオフィスを再現し、どもる場面を再現しながら皆で対処方法を考えていきました。

 この活動の特徴は、客観的にみた症状は変わらなくても、なぜか、「自分はだいぶ軽くなったと」言い、アクティブに活動できるように元気になってくるのです。
 自分たちだけでグループを作るのが難しかったら、既存のセルプヘルプグループ主催で開かれる若い人向けの集まりなどに積極的に参加して、徐々に友達を増やしていけば無理なく作れます。

3、心やことばのホームドクターを持ちましょう
 20世紀には考えられませんでしたが、いまでは、特に都市部では、近年のうつ病の大流行もあり精神科や神経科は敷居がかなり低くなりました。
こころを診てくれる専門家である精神科医や神経科医。彼らのスタッフであることの多い臨床心理士。自分のことをよくわかってくれている先生を確保しておいて、定期的に診てもらいましょう。

 しかし彼らは、どもりの知識は驚くほどないのが現状です。 
 こちらから吃音者の気持ちを丁寧に説明してあげることです。
日記を書いてそれを見せてあげれば、説明下手な吃音者にはよいと思います。精神科医の立場でいろいろと考えてくれます。
 精神・神経科の病院を選ぶ時の注意事項ですが、先生が一人しかいないところよりも複数いる中規模の病院が良いと思います。 精神科医は特に相性が重要ですから、合わない場合は変更できるところが良いと思います。 精神科医と臨床心理士がチームを組んでいて、最初は精神科医に診てもらい、その後は臨床心理士の時間をかけたカウンセリングを受けられるような病院もあります。
*大学病院などの大病院は常に込んでいて短時間の診療になりがちです。
とにかく、できるだけ多くの情報を得て自分にあった先生や病院を見つけてください。

4、現実を見つめながら将来を考えること
 近い将来のある日突然にどもりが治るということは、この時期までどもり続けてきたわけですから考えにくいと思います。
 いまどもっている自分をとりあえずでも自分の心の中で認めてあげて将来設計をしていくと無理がありません。

 徐々に「自分にとってのよい方向」に向かえばよい、人生何回でもやり直しがきく。これくらいのこころの柔軟性をもって、いまできることを着実にこなしていくのがよいと思います。
 その際にも必要なのは、何でも話せる「親友」です。親友はひとりいれば十分です。生涯を通しての友人となるでしょう。

吃音:「その人本来の良さ」を損なってしまうかもしれない子供の頃からの吃音による苦労の連続(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2009年5月1日)

 (日常のことばによるコミュニケーションに支障がでるような)ある程度以上の重さのどもりを持つ人のどもることによる「心の疲労」。

 それを、「こころの歪み」まで進めさせてしまい、
 うつ病などの心の病気になり、人生そのものに悪影響を与えてしまわないようにするためには、吃音者本人はどのように生きたらよいか?

 また、家族などのまわりにいる人たちはどのように吃音者をサポートすべきなのでしょうか?
*短い文章で書ききれることではないのは承知の上で!

 もともとは素直で積極的な子供だったのが、どもることによる耐えがたい経験を継続的にすることにより、「暗く消極的な性格」になってしまう(または、そのように見えてしまう)ことは希なことではありません。
*自殺に至るような学校や職場での陰湿ないじめの問題もありますので、それらも考えなくてなりません。

 しかし、どもりのセルフヘルプグループなどの集まりに出てみると、「これがどもりの人たちか?」と思うほど、明るくよくしゃべり積極的な人が多いのに驚かされます。
*どもりの重さにより、また、その人がどのような環境に生きているのかによっても、このあたりも大きく変わってきます。

 その場で思うことは、本来はこういう性格の方々が「無口で暗い性格」に思われてしまうことの問題。
 また(学校や職場や家庭の)ある環境下では、そのように思われるような振る舞いを(結果として)してしまう。
 いわゆる「いい人」ほど、本当は深く悩んでいるのに周囲に心配をさせないように明るく振る舞うこと。どもることによる生活上の悩みや心の疲労を心の隅に無理矢理押し込んでいると、こころの疲労がどんどん蓄積していってしまう、ということがあるのです。

 心の疲労はあるレベルまでは我慢できてしまいますが、我慢しすぎると「うつ病」をはじめとする心の病になってしまいます。
症状が体に表れてきた時点では、治癒に何年もかかるような重い病状になっていることが多いのです。

 こんな事態に陥らないように・・・、

★(家族、友人、精神科医など)ひとりで良いので、どもりの悩みを何のためらいもなく話せて受け止めてくれる人を持つことです。
*できれば何でも話せる親友をひとり、持てれば良いですね。

★(現実にはなかなかたいへんなことですが)家族や友人・上司などに、できるだけどもりのことを理解してもらうように働きかけること。どもりを理由にして、いじめられたり馬鹿にされたりしないような環境を自分で作り上げるように工夫する。

 以上のことをいま生きている環境では実現できなかったら、
例えば家族からの自立、Iターン、会社の転職、転業などで、生きる環境を大きく変えることも必要かも知れません。

 遠慮せずに思いっきり安心してどもれる場所(時間)があれば良いです。

★自分を責めないこと。(ジコチューに生きること)
 まじめで良い人ほど、「どもっているのは自分の心が弱いからだ」などと自分を責めてしまいます。

 そんなことをしても良いことはありません。かえって症状も悪化するだろうし、心も痛むだけです。

 いまの世の中、ほとんどの人は自分が生きるので精一杯です。
 思いっきり「ジコチュー」に生きてください。自分では「自己チューすぎるかな」と思っても、たぶんそれで、傍から見ると普通に生きているくらいになると思います。

★(本人が望むならば)少しでもことばの流ちょう性を高めるための「言語訓練」をすることも良いことだと思います。

 この考え方には両極端の議論があることは承知しています。
「どもったままでよい」という考え方と、「少しでも流ちょうにしゃべれるようにいろいろとトライすべき」という考え方です。

 ある場面では「どもったまま生きていこう」と考えた同じ人が、違う場面では「それでも少しでも軽くしたい」と思うことがあたりまえのようにありますが、
それは人間としてあたりまえのことです。そのような「人間的なところ」を大切にしましょう。

 いまの日本では、思春期以降(中学生以降)のどもりの方々に対して継続的にしっかりとしたカウンセリングを行ったり言語訓練を行う病院やリハビリ施設などは事実上ありません。あったとしても全国に数カ所では通えません。
*それ以前の子供に対しても残念ながら同じような状況ですね。

 ですから、現状では、仲間うちでサークル的な活動をするしかないのです。
 しかし、その仲間うちのサークル活動が、思いのほか(結果としてですが)どもりを軽くしたり、ことばの症状はそのままでも、しだいに元気が出てきて、いままではできなかったこと(例えば就職など)ができたりすることがあるのです。

*この際に注意しなければいけないことは、グループ内での「重い人」と「軽い人」などのいろいろな「違い」を常に考えながら活動していかないといけないということです。注意を怠ると、結果的に心が傷ついてしまい集まりに参加できなくなる方が出ることがありますので、「違い」を尊重し互いのことを思いやりながら進めていくことが必要です。

 とにかくいろいろな考え方がありますが・・・
 いま、自分が生きている場所(職場・学校など)に少しでも「適応」できた方が現実を生きていくのが楽ですから、ここであえて提案しています。

 人生にはどもりでなくても苦労の種はいくらでもありますので、これ以上ふやさなくても良いでしょう。
 とにかく自分を大切にしましょう。
 必要以上の無理や我慢をして、こころの病気にならないように工夫して、自分を上手に守って良い方向に持っていきましょう。

どもりと学校、仕事

 前回は、テレビ報道で見た吃音カフェについてとりあげました。

 私がこの報道から感じたことは、現実(特に仕事の現場)との乖離です。

 吃音カフェがいけないとか意味がないということではなくて、
 ひとりの吃音者がいて、次に吃音カフェのような立ち位置があり、もうひとつ、もうひとつと、階段を上がるように現実に近づくような負荷がかかる現場で、「話すこと」をしていかないと、
 「仕事の現場」(学校も同じようなもの、子供の分だけかえって厳しいかもしれません)は、どもりを持つ人のいろいろな事情(いままでのいろいろなことなど)を常に考慮して配慮するほどの余裕のある現場ではないので、吃音カフェでの経験が、かえって現実の職場の厳しさに耐えきれなくさせることになるかもしれません。
*どもりを持ちながら様々な現実の仕事の世界で試行錯誤されてきた、いままでの大勢の先輩方の貴重な経験があるはずなのですが、それらがうまく生かされていません。(前回書いたように、吃音者個人、セルフヘルプグループ、吃音カフェのような試行、言葉や心の専門家が有機的につながっていない)

 また、吃音にはその重さの違い(傍から見てわかるどもり具合の違いと、どもっていないように見えても本人はかなり悩んでいる心理的な重さの違い)があり、
特に心理的に追い詰められている吃音者の場合は、自分がどもりであることを開示して誰かと分かち合ったり、吃音カフェのような、仕事の現場の前段階、に進めない吃音者も多いのです。
*吃音者のこころはとてもセンシティヴです。

参考:真面目で向上心のある吃音者がむしろ追い込まれる