吃音の苦労によりかたくなになりすぎたこころをほぐして生きやすくしていくこと(再掲載一部改編:初掲載は2013年11月7日)

 人はどもりによる耐えがたい苦労を積み重ねれば積み重ねるほど、自分を守るために、そのこころをかたくなに閉ざしていくことがあります。

 結果として、自分の意に反したような生き方(職業の選び方、友人関係の結び方)をしてしまうこともあります。
*セルフヘルプグループなどの吃音者の集まりで、和やかに話していた方が自分のことになると突然ことばが少なくなることがあります。

 自分のこころのなかでは、不自然な(無理な)考え方・生き方とわかっていても、そのように思い、そのような生き方をしようとすることにより、こころがどもりによる苦労のために崩れてしまうのをギリギリのところで防いでいるのかもしれません。

 その形(無理をした生き方)は人により様々です。
★「私はこういう生き方なんだ」と、傍から見てどう考えても無理な(無茶な)生き方(考え方)をしようとしている方
★「私はこれでいいんだ」と、いまの不自然な生き方(ライフスタイル)を(端から見ると)無理に肯定してそこに逃げ込んでいる方

 ほんとうは良くない考え方、無理な考え方・生き方とわかっていても、そうせざるを得ないところまでこころが追い込まれているのかもしれません。

 どちらの場合も、一時的にはこころの平衡が保たれているかのような錯覚に陥りますが、中・長期的にはさらに追い込まれてしまいます。

 こんなことにならないように・・・、
例えば、
★どもりのセルフヘルプグループに参加して、いろいろな症状や重さのどもりを持ち、いろいろな環境で生きている様々な年齢層や立場の異なる吃音者と接して、自分(のどもり)を客観視できるようにすることです。
そして、そこで、何でも話せる友人(親友)を(ひとりで良いので)作るように努力しましょう。

★ホームドクターとしての精神科医・臨床心理士を見つける
ぴたりと自分に合った先生を見つけるのは難しいですが、先生に頼り切るというよりも、「自分を客観視できるように」第三者的な目を提供してもらうのに役立ちます。

★これはいちばん難しかもしれませんが、家族にも最低限の理解をしてもらえるように働きかけていきます。(しかし家族には大きな期待はしないことも自分の心を守るために必要です。)

吃音による様々な不都合を人に伝えることの難しさについて(その1~2)(再掲載一部改編:初掲載は:2014年4月25日・5月12日)

その1***
 今回は、自分がどもりで苦労をしたり悩んでいることを
「親・兄弟・配偶者などの家族・親族」
「学校の先生、友人、恋人」「職場の同僚や上司」
 に伝えることの必要性、難しさ、また、注意点について考えます。
*どもりで悩んでいる当事者が小学生なのか、学生か、社会人かなど、年齢や立場によって、また、どもりの重さや症状の違いによっても伝え方やその問題点が大きく変わってきます。

★なぜ伝えるのか 
 子供の場合ならば、どもりの苦しさやどもりで困っていることを他者にわかってもらい、少しでも自分の心が救われるのと同時に、陰湿ないじめなどに遭わないように予防の意味からも、家族や先生に自分がどもりで悩んでいることを伝えておく必要があると思います。

 第三者から見て「たまに言葉がつっかえているように見える」症状でも、吃音者本人からすれば自殺を日常的に考えるような事態もあることも「あたりまえのようにあるのが」どもりの世界です。
 このようなことがわからないような「どもりに携わろうとするいろいろな分野の専門家」はいないと思いますが? 
もしもそれがわからないと「大きな間違いをすること」となり、どもりを持った人をかえって精神的に追い詰めてしまいます。

 大人の場合は職場において、どもりを持っている自分が言葉の面で「できないこと」と「できること」を上司や同僚に伝えておくことにより、自分が必要以上につらい立場に追い込まれ苦しんだり、同僚やグループとしての仕事の遂行に悪影響を与えないようにすることができます。
*それが事実上できない、つまり、ことばでテキパキと伝えることが仕事を進めるうえで極めて重要な職業においては、仕事に就く際に自分の症状をよく説明し、実際にその環境でやっていけるか話し合う必要があります。
*比較的軽いどもりの場合は特に注意が必要です。同僚や上司は吃音者がどこまでしゃべれるか(もちろんビジネストークです)把握できていないことがほとんどですので、「あいつは消極的だ、サボっている」とか「あんな電話もできないのか!」という誤解を生む結果となり、結果的にその職場に居づらくなってきます。
*いわゆる「有力者のコネ」で、会議や電話、顧客訪問でビジネストークがあたりまえに求められる職場(特に民間企業)に就職してしまった場合は精神的に追い込まれます。純粋な仕事の処理能力以前の「ことばをしゃべる」というごく基本的なところで問題があることを意識して就職活動に望まないと大変なことになります。

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その2
ある程度以上の重さのどもりを持っていることににより・・・、
★家庭内での生活(家族とのコミュニケーション)、
★日常生活での基本的なコミュニケーション(買い物をする、電話をかける、趣味のサークル活動など・・・)
★友人関係のコミュニケーション
★学校生活や職場での活動(先生やクラスメイト、同僚や上司、取引先とのコミュニケーション)、
★就職(転職)活動中のコミュニケーション、
さらに、
★どもりのセルフヘルプグループの仲間内でのコミュニケーション

 に一定程度以上の支障が生じ、結果として人生に「様々な悪影響」が出てきます。
*この場合の「ある程度以上の重さのどもり」とは、それぞれのシーンでの意思疎通に支障がることですが、第三者から見た・聴いた症状はごく軽いものでも、本人が気にしてうつ状態になり生活に支障が出ている場合も同様です。
 このあたりのことがどもりの問題を難しくしています。家族や中途半端な専門家では理解できないことが多いです。重さの異なる吃音者どうしでも誤解を生む場合が多いようです。

 様々な悪影響とは、たとえば・・・、
 子供の場合は、授業中のどもることへの恐怖心や、クラスメート(場合によっては先生からのから)のからかいやいじめにより次第にうつ状態になり成績が下がること。
 社会人の場合は、職場において、挨拶をする、電話をとる、顧客と交渉するなどのごく当たり前にすることに支障が出て、自分の仕事やチームとしての仕事を停滞させてしまうこと。結果的にその職場に居づらくなることが多いようです。

 どちらもそれぞれの人生に直接的な(場合によっては決定的な)悪影響をもたらします。

 日常的に笑われて恥をかいたり、あからさまに迷惑そうな顔をされるなどの経験を続けていくと、吃音者本人のこころが大きく傷つけられ、生きる気力をなくすこととなります。(私がそうでした)

★吃音者をサポートする側は、まずは傾聴に徹することです。(吃音者が安心して本音を言えるような下地を作る) 

 どもりについてはその原因も医学的に解明されていないので、当然、投薬や手術による根治療法はなく、確実なリハビリテーション法もありません。
 そういう現状において、やっかいなのは、実は同じどもりを持つ人のなかの「先輩」かもしれません。
自分の経験からの「治療法」「心構え」を押しつけようとする場合も少なくありません。
 たとえそれが善意から出たことばだとしても、いま悩んでいる人のこころを傷つけてしまう可能性が大いにあります。
 どもりの重さも症状も、そして生きている環境も実に様々だからです

 また「専門家」と言われる人でも、どもりについて決めつけたような見解を持っている方もやっかいな人となり得ます。
 どもりを持つ子供やおとながいる家族(親、兄弟、祖父母)、学校の先生、専門家と言われる人々、さらには同じ吃音仲間でさえもが、まず、すべきことは、
吃音者(児)の言うことにひたすら耳を傾けることです。

2024年のどもりと学校・職業

 以前は、年末か年頭には「いま(今年)の吃音者を取り巻く状況」の様なことを書いていましたが、ここ1~2年書いていませんでした。

 今年こそは書こうと元日の夕方にPCに向かったのですが、突然の緊急地震速報!
 東京湾岸の都市部に住む私にとっては大きな揺れではありませんでしたが、すっかり書く気持ちを失ってしまいました。
*いつ首都圏直下地震が起こるかわかりません。

 地震でお亡くなりになった方のご冥福と避難されている方々のご健康を祈ります。
 日本で繰り返される巨大災害、非常事態庁のような専門機関(普段からそれのみを考えて、強力な権限を持った機関)の早急な創設が必要だと思います。

あらためて・・・
 2024年、いまを生きる、どもりを持った様々な方々にとっては家庭、学校や仕事はどうなっているのでしょうか?
もうちょっと考えてから書こうと思います。

吃音:本人の本来持つ「ことばに対する想いや知性」と、しかし実際にはどもってしまい、それらを話すことばとして(上手に)表現できないことがもたらすもの(その1、その2)再掲載一部改編(初掲載は2019年6月30日)

 今回はテーマが舌っ足らずなので、まずは例で補足します。
 
例えば学校では・・・
★十分に分かっている答えなのに、どもりそうなので(恥ずかしい想いをしたくないので)「分かりません」と答える

★思い切って答えたのだが、どもりながら答えたために、「答えられた」という結果よりも、どもってしまった、そして笑われたという敗北感・劣等感の方が大きくて落ち込んだ

★黙読の段階ではすべて読める(理解できる)教科書の内容なのに、いざ、「声に出して読め」と言われると、最初のことばすら出なかったり、しどろもどろのどもりながらになってしまい笑われて、いつものように落ち込んだ

職場では・・・
★顧客の前(または電話で)で、(どもりでない人には)あたりまえに言えるはずの「自社の名前」や「自分の名前」が(なかなか)出てこない
こんなことが続き、顧客から担当の変更を求められてきた。(まともにしゃべれる人にしてください、と)

★会議やプレゼンテーションにおいて、(頭のなかでは素晴らしい内容ができあがっていても)実際にことばにだす段階ではどもってしまい(うまく)言えない、表現できない、結果として相手に伝わらない(仕事にならない)

 つまり、知識や想い、そして、ことばに出すまでの準備としては十分なのに、
実際にことばに出そうとする(出す)瞬間に・・・、
言うべきことばが発語できないか、どもり特有の「すすすずずき・・・」というかたちになってしまい、情報や意見を相手にタイムリーかつ正確に伝えられないことにより、自尊心が大きく傷つけられてしまう、(学校や社会では低い評価となる)

・・・こんな毎日の繰り返しでは、どもりを持つ人の心が確実に傷つき腐ってきてしまう。

 その人が本来持っている知性や想いを相手に伝えるための道具である「話すことば」が不完全なために、
学校生活(学習)や職場での仕事、家庭内での基本的なコミュニケーションに支障が出てしまい、自分の頭のなかでできあがっていることばと、相手に実際に伝わることばとのギャップに自分自身が悩み、落ち込み、自分自身をも低い評価にしてしまう。

その2
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 その人が本来持っている知性や想いを相手に伝えるための道具である「話すことば」がどもりのために不完全になり、学校生活(学習)や職場での仕事、家庭内での基本的なコミュニケーションに支障が出てしまい、
「自分の頭のなかでできあがっていることば」と、「相手に実際に伝わることば」とのギャップに自分自身が悩み、落ち込み、自分自身を低い評価にしてしまう。
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 このギャップこそが、どもりの悩みの中核かもしれません。

 言語障害なのだから仕方ないといわれてしまってはそれまでですが、どもりを持つ人は「自分は障害者ではない」と思いがちです。

 なぜならば、「家族や親しい友達との何気ない会話でも常にどもるような重い状態」の人よりも、比較的軽い人(どもりの調子に波があり、調子が良いときは短時間の会話程度ならばどもりと気づかれないことがあるが、調子が悪くなると日常のコミュニケーションにも支障が出る)が多数派だからです。

 そういう人は自分のことを言語障害者ではないと思っている(思いたい)のです。

 さて、どもりを持った人が様々な学校内での活動や職場での仕事のシーン、
★例えば、学校で発表する、教科書を指名されて立ち上がってひとりで読む、学内の委員会の委員として発表する・討議する、

★社内や社外の会議、顧客の前でのプレゼンテーション、仕事上のトラブルが発生し顧客にそれを説明するときなどは、その人のコミュニケーション能力の見せ所であり、仕事をする人間としての真骨頂でもあるはずです。

 しかし、吃音者はそれができないか極めて苦手である、
 何よりも、評価するのは学校の先生、仕事上の上司や顧客であるということから、緊張も加わり、さらにどもりがひどくなる条件が増えます。

 上手に読もうとするほど、うまくプレゼンしようとするほど・・・その人の本来のどもりの症状や重さ以上に緊張感も加わり、さらに重いどもりとなって良い結果を出しません。
この繰り返しが、吃音者の人生を狂わせるのです。

我々吃音者ができることは・・

★自分たちで工夫して練習する
 どもりのセルフヘルプグループのメンバーのなかの気の合う人たちとよく話し合い、苦手なこと(電話、発表、自己紹介、交渉など)を想定して、それに近い状況を再現しながらうまく切り抜ける(どもりながらもその場を切り抜ける)方法などを探していく、
 公民館の部屋などは安く借りられるので、苦手な状況を再現した「サイコドラマ」を行ない、しようとしていることがどもりながらも(なんとか)できる方法を学んでいく。
参考:「吃音仲間でできること」(セルフヘルプグループの原点に戻る)、「お互いに信頼できる吃音者が集まってできること」

★悩みを共有できる親友を持つ
 いつものように書いていることですが、どもりの悩みを真剣に聞いてくれる人はほとんどいない、見つかりません。(家族も含めて)
 そこで、どもりのセルフヘルプグループなどに参加してひとりでよいので、何でも話し合える親友をみつけてください。

★こころの危機管理のためにホームドクターとしての精神科医や臨床心理士を持つ
 これもいつものように書いていることです。
 どもりの悩みは放置しておくと、うつ病などのこころの病気になることがあります。なってからでは治療に時間やお金がかかりたいへんです。
 危機管理のために、日常的に気軽にかかることのできる精神科医や臨床心理士をみつけておいてください。彼らはどもりについて深い知識はありませんが、こちらから吃音者のこころについて説明すれば、彼らの専門知識をもってサポートしてくれるでしょう。

吃音:多様性という欺瞞(ぎまん)再掲載、初掲載は2019年2月6日

 今回は強い表現で始めました。
 このごろ、多様性という言葉がよく使われます。
 ある問題を語るときに・考えるときに、
「多様性」という言葉で片付けられ過ぎてはいないか?と考えることがあります。

 多様性を受け入れろ 多様性を大切にしないといけない
 一見、もっともらしい言葉ですが、事象が起きている現場の混乱ぶりを考えると、そんな言葉では片付けてはいけないような気がしています。

 今回は「どもること」と「多様性」という言葉について書いてみたいと思います。

 吃音者が実際に、家庭生活(日常生活)、学校生活、就職・転職活動、職場において、
どもることにより、言葉がうまくしゃべれない、
自分の意思がタイムリーにひとに伝えられない
(求められる「タイムリーさ」その場所や状況で違うのが現実です)
こんな日々の連続は、吃音者のこころを疲弊させ生きていく力を失わせます。 

 連続的な大きなストレスのために、うつ状態からうつ病となり、学校や職場に足が向かなくなってついには引きこもりになってしまうことも、決してまれなことではありません。

 どもることで(学校や職場で、または、家庭内で)パワハラやいじめを受けている、
 いじめは受けていないが、自分がどもることにより職場の仕事の内容に悪い影響が出ていることを自分として感じている。

 また、チームとしての仕事にも悪影響が出ているときなどには、自分の存在を否定したくなるような、ここにいてはいけないような気持ちに襲われつつ、それでも生きていくために(稼ぐために)、作り笑いをしながら明るく振る舞って職場に居続けなければならない惨めさを感じながら毎日を生きている、

 そのような現実の前で、
「これからは社会は多様性を考えなければならない・・・」などと、
テレビに出てくるコメンテーターのようなことを言ってみても、考えてみても、現実は、良い方向には進みません。

 多様性を語るのならば、いろいろな立場の人が共存できるように、そのための工程表を作り具体的に法律で縛るなりして、社会のなかで多様性がほんとうに受け入れられていくように、ある意味強制的にでも、多様性を受け入れるための装置を社会のなかに作っていかなければならないと思います。

 ひとは基本的に自己チューです、自分ファーストです。
 どもりの問題で言えば、同じ職場に吃音者がいても自分の仕事に悪影響が出なければ、(まともな人ならば)からかったりいじめたりはしないでしょう。
 しかし、自分の仕事やチームとしての仕事に悪影響が出れば、途端に吃音者を責め始めると思います。
 そういう現実を踏まえてうえで多様性について考えていかないと、現実的にものごとは進まないと思います。

吃音:「小学生の頃」、「吃音を持つ子供にとっての思春期は」、「吃音者にとっての思春期後期」 (再掲載一部改編、3回分:初掲載は2010年5月19、20,21日)

★小学生の頃★
 どもりを持った子供が自然に治らずに小学生になり、徐々にどもりであることを意識し始める2~3年生、
授業中に先生に指名されても本が(うまく)読めなくなり、
先生の質問に答えようとしても、最初のことばがなかなか出てこなくなるなどのことが続くと・・・、
そのどもりは「単なる症状」の域を超えて2次的な「心理的などもり」へと進んでしまいます。
*人によってはもっと小さな頃からこうなることもあるでしょう。

 その背景には他者の関与があると思います。
学校では、どもるたびに同級生に笑われたりまねをされることもあるでしょう。
 そのようなことをする同級生に先生が注意をしたとしても、注意の仕方によっては、かえって陰湿ないじめになるかもしれません。(ネットも含めた)

 そのうえ・・・、
 学校から家に帰ったときに悩みを素直に打ち明けられるような家庭ならば良いのですが、忙しいことを言い訳に我が子の悩みに無関心を装ったり、かえって厳しい言葉を発してしまうとか・・・、

 どもる度に「ゆっくりしゃべりなさい」と注意、どもったことばを言い直しをさせるようなことで、かえってどもりを過剰に意識させるようになってしまいます。

 この時期は、本人の心構えというよりは、まわりがどのようにサポートするかということが重要となります。

 学校では、友達に理解を求めて傷つくような言葉を発しないようにすることなど実際には不可能です。
 また、どもりを持つ子供の心理まで研究してくれ対処してくれる先生はどれほどいるでしょうか?
*それでなくても雑用で忙しい先生ですから。
*それでも、親として、先生に対して子供がどもりで悩んでいることを相談しておくことは必要だと思います。

 一方、家庭においては、家族の努力で、どもりを持つ子供が「居やすい」「心休まるところ」とすることができます。(学校では間違いなく神経をすり減らして帰ってきていますから)
 それはどもりで悩んでいる我が子を甘やかせということではなくて、むしろ質実剛健な雰囲気のなかで育てればいいでしょう。

 どもる度にいちいち注意するようなことはせずに、ゆったりとした雰囲気の家庭にすることを心がけるのがいちばんです。
親もゆっくりとしゃべることを心がけ、笑いが絶えないような家庭を目指してください。
 子供のほうから、「どもりでこんなふうに悩んでいる」「きょうはどもって笑われてしまった」などと、わだかまりなく悩みを打ち明けられるような家庭になればしめたものです。
*実際は、こんな家庭はきわめて少数です。

 これらのことと平行して、
 探すのに時間はかかると思いますが、どもりに関心を持ってくれている心や言葉の専門家である言語聴覚士や臨床心理士、精神科医に相談すると良いと思います。
*本当は、吃音児の心理を知り臨床経験豊富な言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などが日常的に通える範囲にいて、カウンセリングのほか、必要に応じて適切な言語訓練なども受けられるような体制があればよいのですが、いまの日本には事実上ありません。

★吃音を持つ子供にとっての思春期は★
 思春期は一般的にいってもいろいろと大変な時期です。
 友達関係、勉強、クラブ活動、受験など、あらゆることがダイナミックに変わる時期であるだけに、障害のない人にとっても大変な時期だと思います。

 どもりを持っている子供にとってはどうなのでしょう?
 学校生活(授業、クラブ活動、委員会活動など)はまさにしゃべることの連続です。
 授業中には先生の質問に答えたり、指名されてテキストを音読したり、まさに、声に出してしゃべる・発表することが毎日の仕事というような、いまになって振り返ってみてもぞっとする地獄のような日々です。(いまでも良く夢に見ます)

 私の場合は、最初の言葉がブロックされて出ないタイプ、それもかなり神経質などもりでしたので、調子の悪いときは指名されても立ちんぼで「しゃべれない」こととなり、「わざとしゃべらない」と思われてしまうような状態になるのです。

 元々の性格が引っ込み思案ならば良かったのかもしれませんが、自分の意見をはっきりと述べたい目立ちたいタイプの子供だったので、
また、調子がよいときにはほとんどどもらないこともあるような調子の波の振幅が大きいどもりだったので、
「言いたいことがたくさんあるのにそれが言えない」ということがフラストレーションとなり、また、深刻な家庭内不和がある環境も背景にあり、いま考えると明らかに強迫神経症に陥っていました。
*しかし、当時(70年代~80年代初頭)は、精神科・神経科に行こうなどとは夢にも思いませんでした。精神科という言葉自体に拒否反応がありました。

 そのような毎日の繰り返しに、よく耐えてきたと思います。
「自殺」ということばを常に懐にしまっている子供でしたが、中学・高校の頃はまだ心に柔軟性(のびしろ)があったのでしょう。我ながらよく耐えてきたと思います。

 調査資料などはありませんが、耐えきれずに自殺の道を選ぶ子供はどれくらいいるのでしょうか?
 インターネットが一般的になった今日、ごくまれに、我が子や兄弟を吃音の悩みによる自殺で亡くした書き込みに接することがあります。

 では、思春期(小学校高学年~高校生くらい)にある、どもりで悩んでいる子供はどうすればよいのでしょうか?
 また、そのような子供を持つ親はどうすればよいのでしょうか?
*いい歳になったいまでも、思春期の頃のことを書き始めると心が大きく揺さぶられます。つらい出来事がフラッシュバックします。自分にとってよほどつ辛く、しかも、それを誰にも言えない時期でした。よく、自殺しなかったなと思います。

★自分でできること
 これは、今の年齢になっているからこそ言えることかもしれません。
 実際に、思春期まっただ中でどもりで悩んでいる皆さんは、こんなふうに冷静に考えることができずに心がフリーズしてるかもしれません。
*いまの私が、当時の私のところにタイムスリップしてアドバイスするつもりで書きます。

1、10歳代なんて人生始まったばかりです。 若い頃にたとえ数年間のつまずきがあったとしてもたいしたことはないのです。(でも、その頃には、なかなか、それはわかりませんね。)

2、「ジコチュウ」で生きましょう。自分を責めるように生きている場合が多いのでそれでちょうどよいかもしれません。

3、「家」や「親」に必要以上に気を遣うことはやめましょう。親は先に死んじゃうので自分のこれからの人生を最後まで責任とってくれません。(難しいことですが)どもっている本当の自分を親に見せましょう。

4、自分のことは自分がいちばんわかっています。常に自分を冷静に分析する習慣をつけましよう。

5、どもりを持ちながら学校に行くのが耐えられないくらいに苦しいのならば、我慢せずにいかなくなるのもひとつの方法です。上の学校に進むには他の方法もあります。人は苦しむために生きているのではありません。
*引きこもってしまってからでは自分の心が自由にならなくなります。その前にぜひ信用できる誰かに(いなかったらこころの電話等の相談先に)相談してください。

6、ひとりで良いので、安心して自分の心の内をさらけ出せる人を確保することです。

7、悩みを素直にぶつけられる「マイ精神科医」、「マイ臨床心理士」、「マイ言語聴覚士」を見つけてください。

8、必要に応じてどもりのセルフヘルプグループに参加してみましょう。相談会やキャンプなどで是非同じ悩みを持っている友達を作ってください。

★親ができること

1、もしも子供がどもりの苦しさを訴えてきたら、傾聴しましょう。

2、親からみて子供がどもっていれば、その子は間違いなく悩んでいます。

3、子供のどもりを軽く見ないで、場合によってはその子の人生を大きく変えてしまうかもしれないくらいに考えてください。深刻にならないで真剣になってください。

4、民間療法やご近所情報などのインチキ情報に振り回されないことです。我が子のどもりを本当に心配しているならば、日本中、世界中の権威者を探すくらいの真剣さが必要です。その気持ちは子供に伝わります。

5、甘やかす必要はありません。質実剛健な家庭を作って家庭のなかは努めて明るくすがすがしくしましょう。

★吃音者にとっての思春期後期★
 思春期後期、ここでは高校生から大学時代前半くらいとして考えます。
 どもりを持ったまま高校生に。
 本来は楽しい高校生活かもしれませんが、進学や就職がだんだん近づいてくるということを実感する頃です。 
 高校もいろいろですが、進学校に入れば入った直後から熾烈な競争のなかに放り込まれますし、学級崩壊(学校崩壊)しているようなところに入っても別の苦労があります。

 私の記憶のなかにあるのは、合格が決まり3月中に行われたオリエンテーション時に、名前の申告でどもってしまったこと。
いまでも覚えているということは余程のトラウマになっているのだと思います。 そのときには、「これじゃあ高校生活も大変だな」と暗澹たる気持ちになりました。

 高校でも相変わらず(今まで以上に)授業中の恐怖は続くでしょう。
 特に国語関係のテキストを読まされるときは如何ともしがたいです。
「源氏物語」をどもりまくって読んでみても・・・。

★思春期後期を迎えた吃音者にアドバイスするとすれば、

1、授業中、いつ指名されてテキストを読まされるかと震えているのでは肝心な勉強に身が入りません。
 思い切って先生に言って教科書を読む時に指名しないようにしてもらうのもひとつの方法ですが、いろいろな意味で微妙なところです。そのあたりも考えながらの対策となります。

 いまの時点での考えですが、そして、あくまでも家庭に理解があり経済的にもクリアーされればですが、
いまの学校生活がどもることにより耐え難いものならば、思い切ってやめて、大検のコースに進む方法もあります。
 それはそれで大変かもしれませんが、精神的に救われるのならばそういうコースを選択することも考えてよいと思います。
 心の病気になってしまうと回復に時間がかかります。

2、少しでも言葉の流暢性を向上させたい 毎日の学校生活で言葉の問題に直面せざるを得ない人の正直な気持ちでしょう。
*もちろん、そう思わない方もいると思います。

 しかし、そういう思いに対応する、公的・専門的な立場からの組織的なサポートはありません。
 そこで考えられるのが、自分たちで「サークル」を立ち上げることです。

 仲間どうして専門書を読みあって勉強しても良いでしょうし、国内外の心や言葉の専門家を訪ねてみるのも良いでしょう。
 仲間内で工夫して心理面のサポートシステムを作っても良いし、いろいろと工夫しながら言語訓練をやってみるのも良いですね。

 私の場合はグループでサイコドラマを行いました。(成人して大卒後からですが)
 公民館の部屋を借りて授業中やオフィスを再現し、どもる場面を再現しながら皆で対処方法を考えていきました。

 この活動の特徴は、客観的にみた症状は変わらなくても、なぜか、「自分はだいぶ軽くなったと」言い、アクティブに活動できるように元気になってくるのです。
 自分たちだけでグループを作るのが難しかったら、既存のセルプヘルプグループ主催で開かれる若い人向けの集まりなどに積極的に参加して、徐々に友達を増やしていけば無理なく作れます。

3、心やことばのホームドクターを持ちましょう
 20世紀には考えられませんでしたが、いまでは、特に都市部では、近年のうつ病の大流行もあり精神科や神経科は敷居がかなり低くなりました。
こころを診てくれる専門家である精神科医や神経科医。彼らのスタッフであることの多い臨床心理士。自分のことをよくわかってくれている先生を確保しておいて、定期的に診てもらいましょう。

 しかし彼らは、どもりの知識は驚くほどないのが現状です。 
 こちらから吃音者の気持ちを丁寧に説明してあげることです。
日記を書いてそれを見せてあげれば、説明下手な吃音者にはよいと思います。精神科医の立場でいろいろと考えてくれます。
 精神・神経科の病院を選ぶ時の注意事項ですが、先生が一人しかいないところよりも複数いる中規模の病院が良いと思います。 精神科医は特に相性が重要ですから、合わない場合は変更できるところが良いと思います。 精神科医と臨床心理士がチームを組んでいて、最初は精神科医に診てもらい、その後は臨床心理士の時間をかけたカウンセリングを受けられるような病院もあります。
*大学病院などの大病院は常に込んでいて短時間の診療になりがちです。
とにかく、できるだけ多くの情報を得て自分にあった先生や病院を見つけてください。

4、現実を見つめながら将来を考えること
 近い将来のある日突然にどもりが治るということは、この時期までどもり続けてきたわけですから考えにくいと思います。
 いまどもっている自分をとりあえずでも自分の心の中で認めてあげて将来設計をしていくと無理がありません。

 徐々に「自分にとってのよい方向」に向かえばよい、人生何回でもやり直しがきく。これくらいのこころの柔軟性をもって、いまできることを着実にこなしていくのがよいと思います。
 その際にも必要なのは、何でも話せる「親友」です。親友はひとりいれば十分です。生涯を通しての友人となるでしょう。

吃音者が、自分の人生で自分なりの「立ち位置(生きる場所)」を見つけられるようになるには、どのようなサポート体制を構築していけばよいのだろうか?(再掲載一部改編:2008年9月24日)

 「ある程度以上の重さのどもりを持っていて人生のいろいろな局面で耐えがたい苦労をしている人が、自分なりの立ち位置を自分で見つけられるようになる」ためのサポートというのは、
言い換えれば、「どもりを持っている人が自分なりの生き方をできる場所を社会(家庭、地域社会、職場)のなかで見つけることができて、生活していけるだけのお金を自分で稼ぐことができ、それなりの生きがいをも持つことができる」ということだと思います。
*どもりには第三者がほとんど気づかないようなごく軽いものから、しゃべる言葉のほとんどがどもるような重いものまであります。(客観的な症状が軽い=悩んでいないということでもありません)
ですから、その違いを十分に考慮して、吃音者自身の努力では自立した人生が送れない(就職できない、学校に通えない、など)場合には、福祉政策による国や自治体のバックアップが必要です。が、現状ではゼロに近いようです。

 そのためには、人生の方向性を決めていく大事な時期である思春期において、どもりの悩みのために勉強が手につかなくなったり、そのほかの、その年齢で経験すべきことができなくなってしまわないように、(もちろん本人の努力がまず第一に必要ですが)、必要にして十分なサポートをする体制を作ることが必要です。

 現在では「生涯発達」という言葉があるように、生まれてから死ぬまでが発達の時期であると考えられていますが、そのような哲学的な考え方とは別に、長い人生の準備段階として、「大いに勉強し、友人と語り合い、アクティブに活動すべき時期である青春時代」をどもりの悩みのために無為に過ごしてほしくないのです。

 そのためには、どもることにまつわる様々な悩み(心の悩み、症状そのものについての悩み、学校生活や家庭生活、職場においての人間関係の悩みなど広範囲にわたる悩み)に対応できるような、学識、臨床経験ともに豊富で人間的にも経験豊富なカウンセラーが身近にいてくれることが必要です。

 相談相手には、訓練されたカウンセラーでなくても、身内をはじめ、何でも話せる友達やセルフヘルプグループの仲間などでも良いと思われるかもしれませんが、カウンセリングの訓練や心理学の知識がないと、感情にまかせた言葉や個人の経験だけからの思い込みでアドバイスすることがあり、結果的にどもりで悩んでいる人を大きく傷つけてしまいがちです。
*過去(90年代初め頃まで)にあった民間どもり矯正所でよく見かけた光景です

 特に身内の場合には、経済的環境や心理的環境を共有している場合が多いので、親近感がかえって災いし、家族間の関係を極端に悪くする原因となる場合もあります。ですから、友人や身内のほかに、利害関係のないプロの相談相手であるカウンセラーの存在というのは是非とも必要なものです。

 そのカウンセラーには、普通の学校の先生やそのOB、または、大学を出たての心理学士や修士を終了したばかりの若者などの「間に合わせ」ではない、学識はもちろん人生経験も豊富な「本当のプロフェッショナル」が必要です。
 学校の先生や両親などの吃音者に対する対応に問題がある場合は、はっきりとそれを指摘でき、良い方向に進めるように強力に指導できるるだけの経験と知識、また人間的な力も必要でしょう。
 それらのカウンセラーは子供の場合でも、必ずしも学校内にいてくれる必要はなく、学校帰りや会社帰りに、また、土曜や日曜に気軽に通えるような、「街中にあるクリニック」という位置づけで良いのではないかと思います。

 そういう意味では、街なかにある精神科の病院や心療内科が、短時間のカウンセリングしか行なわず(保険の点数の件で行なえず)投薬に頼るような方法ではなくて、ひとりの患者に1時間くらいのカウンセリング時間を割いても経営が成り立つような保険制度にしたり、また、言語聴覚士が街なかで独立開業しても食べていけるような制度にすることも必要です。

 また、臨床心理士も(必ずしも医師の管理下でなくとも活動できるような形で国家資格化し)独立してカウンセラーとして保険が適用されるような体制にする必要があるでしょう。
*そうすることにより、国民病といわれているうつ病に対しても、効果的な対応ができるようになると思います。

吃音:「その人本来の良さ」を損なってしまうかもしれない子供の頃からの吃音による苦労の連続(たびたび再掲載一部改編:初掲載は2009年5月1日)

 (日常のことばによるコミュニケーションに支障がでるような)ある程度以上の重さのどもりを持つ人のどもることによる「心の疲労」。

 それを、「こころの歪み」まで進めさせてしまい、
 うつ病などの心の病気になり、人生そのものに悪影響を与えてしまわないようにするためには、吃音者本人はどのように生きたらよいか?

 また、家族などのまわりにいる人たちはどのように吃音者をサポートすべきなのでしょうか?
*短い文章で書ききれることではないのは承知の上で!

 もともとは素直で積極的な子供だったのが、どもることによる耐えがたい経験を継続的にすることにより、「暗く消極的な性格」になってしまう(または、そのように見えてしまう)ことは希なことではありません。
*自殺に至るような学校や職場での陰湿ないじめの問題もありますので、それらも考えなくてなりません。

 しかし、どもりのセルフヘルプグループなどの集まりに出てみると、「これがどもりの人たちか?」と思うほど、明るくよくしゃべり積極的な人が多いのに驚かされます。
*どもりの重さにより、また、その人がどのような環境に生きているのかによっても、このあたりも大きく変わってきます。

 その場で思うことは、本来はこういう性格の方々が「無口で暗い性格」に思われてしまうことの問題。
 また(学校や職場や家庭の)ある環境下では、そのように思われるような振る舞いを(結果として)してしまう。
 いわゆる「いい人」ほど、本当は深く悩んでいるのに周囲に心配をさせないように明るく振る舞うこと。どもることによる生活上の悩みや心の疲労を心の隅に無理矢理押し込んでいると、こころの疲労がどんどん蓄積していってしまう、ということがあるのです。

 心の疲労はあるレベルまでは我慢できてしまいますが、我慢しすぎると「うつ病」をはじめとする心の病になってしまいます。
症状が体に表れてきた時点では、治癒に何年もかかるような重い病状になっていることが多いのです。

 こんな事態に陥らないように・・・、

★(家族、友人、精神科医など)ひとりで良いので、どもりの悩みを何のためらいもなく話せて受け止めてくれる人を持つことです。
*できれば何でも話せる親友をひとり、持てれば良いですね。

★(現実にはなかなかたいへんなことですが)家族や友人・上司などに、できるだけどもりのことを理解してもらうように働きかけること。どもりを理由にして、いじめられたり馬鹿にされたりしないような環境を自分で作り上げるように工夫する。

 以上のことをいま生きている環境では実現できなかったら、
例えば家族からの自立、Iターン、会社の転職、転業などで、生きる環境を大きく変えることも必要かも知れません。

 遠慮せずに思いっきり安心してどもれる場所(時間)があれば良いです。

★自分を責めないこと。(ジコチューに生きること)
 まじめで良い人ほど、「どもっているのは自分の心が弱いからだ」などと自分を責めてしまいます。

 そんなことをしても良いことはありません。かえって症状も悪化するだろうし、心も痛むだけです。

 いまの世の中、ほとんどの人は自分が生きるので精一杯です。
 思いっきり「ジコチュー」に生きてください。自分では「自己チューすぎるかな」と思っても、たぶんそれで、傍から見ると普通に生きているくらいになると思います。

★(本人が望むならば)少しでもことばの流ちょう性を高めるための「言語訓練」をすることも良いことだと思います。

 この考え方には両極端の議論があることは承知しています。
「どもったままでよい」という考え方と、「少しでも流ちょうにしゃべれるようにいろいろとトライすべき」という考え方です。

 ある場面では「どもったまま生きていこう」と考えた同じ人が、違う場面では「それでも少しでも軽くしたい」と思うことがあたりまえのようにありますが、
それは人間としてあたりまえのことです。そのような「人間的なところ」を大切にしましょう。

 いまの日本では、思春期以降(中学生以降)のどもりの方々に対して継続的にしっかりとしたカウンセリングを行ったり言語訓練を行う病院やリハビリ施設などは事実上ありません。あったとしても全国に数カ所では通えません。
*それ以前の子供に対しても残念ながら同じような状況ですね。

 ですから、現状では、仲間うちでサークル的な活動をするしかないのです。
 しかし、その仲間うちのサークル活動が、思いのほか(結果としてですが)どもりを軽くしたり、ことばの症状はそのままでも、しだいに元気が出てきて、いままではできなかったこと(例えば就職など)ができたりすることがあるのです。

*この際に注意しなければいけないことは、グループ内での「重い人」と「軽い人」などのいろいろな「違い」を常に考えながら活動していかないといけないということです。注意を怠ると、結果的に心が傷ついてしまい集まりに参加できなくなる方が出ることがありますので、「違い」を尊重し互いのことを思いやりながら進めていくことが必要です。

 とにかくいろいろな考え方がありますが・・・
 いま、自分が生きている場所(職場・学校など)に少しでも「適応」できた方が現実を生きていくのが楽ですから、ここであえて提案しています。

 人生にはどもりでなくても苦労の種はいくらでもありますので、これ以上ふやさなくても良いでしょう。
 とにかく自分を大切にしましょう。
 必要以上の無理や我慢をして、こころの病気にならないように工夫して、自分を上手に守って良い方向に持っていきましょう。

吃音:理解してもらえない人たちのなかで自分(の人生を)を見失わないためには(たびたび再掲載:初掲載は2014年12月23日)

どもり・・・、
 それも日常のコミュニケーションに支障が出るような重さや症状のどもりか、
または、傍から見て気づかないくらいの軽いどもりでも自分としては深く悩んでいる場合は・・・、
 どもりでない人にはなかなか理解できないことですが、一年中、24時間が辛い人生かもしれません。
*私の場合は、小学生(3年生くらいかな)の頃からはっきりと自覚し悩みました。授業での発表時や教科書を読まされるときの恐怖から、少しの間だけでも逃れられる週末や長期の休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです。しかし明日は学校のある日曜の夜や長期の休みの最後の日はとても辛い時間でした)
就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました

 さて・・・、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが・・・、
子供の頃からのどもることによる様々な悩みを、いちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)が、実はいちばん分かってくれていないことが多い、ということについて考えます。

 生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。

 特に子供のうちからそれを経験することは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあると思います。

 自分の「努力」の外にある「どもる」ということ。
(緊張しやすいから、恥ずかしがり屋なのでどもるのではありません。一般的にはそんなイメージですね。むしろ、それらはどもることで、あとからついてくる症状です。)

 日常の簡単な挨拶、
 様々な場面(対面・電話)で自分の名前を言うこと、
 授業中に指名されて教科書を読むこと、指名されて質問に答えること、など、

 日常、当たり前のように繰り返されることができないか、できにくいという「どもりという言語障害」の性質を考えるときに、まじめに努力しようとしている人ほど、そのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせるのではないでしょうか。

「下手な治す努力」や精神論は、吃音者をかえって落ち込ませます。
戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた、日本の民間無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。

 いっぽうで、どもり矯正所は、そこでの「訓練」よりも、同じどもりという悩みを持った仲間とはじめて出会えて、こころのなかのことを、なんのためらいもなく語り合えるという意味では「結果的にですが」大きな意味がありました。
 しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)
 いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。

 吃音者を取り巻く環境は、残念ながらいまでも、大きくは変わっていません。
 例えば、街なかに、どもりで悩んでいる人が日常的に気軽に通えるような言語クリニックはありません。
「どもりに精通した言語聴覚士や臨床心理士、精神科医などがかかわり、どもることによる生きずらさをサポートするソーシャルワーカーなども関わってくれる」
そんな組織(病院、公的機関、など)は存在しません。
*たとえ日本に数カ所あったとしても、日常的に通える範囲にないと、それはないのと同じことです。

 こんな現実のなかで我々吃音者ができることは

★子供の場合は、学校(小中学校)の通級教室である「ことばの教室」のサービスですが、しっかりと受けられているでしょうか?
 そこではどもりに精通した専門家の指導が継続的に受けられていているでしょうか?
 子供本人ははもちろん親御さんもしっかりとしたカウンセリングや相談が受けられる体制になっていますか? チェックしてください。

★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える自分のことを話せる友人を作ることです。
 そして、必要に応じて彼らと小グループを作りいろいろと動いてみることでいろいろと見えてくるものがあります。

 こども(小・中・高校)の場合は、セルフヘルプグループが主催するこども向けの集まり等を利用して同じ悩みを持つ友人を作ることができますし、親御さんも交流できるでしょう。

★どもりで悩んでいる自分のこころが危機に陥らないように(うつ病などのこころの病気や、不登校や引きこもりにならないように)、危機管理のために、ホームドクター的な精神科医や臨床心理士を見つけて日常的にカウンセリングを受け心の健康を保つことができます。

★家庭内や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ることができます。

 工夫して、少しづつで良いので、良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。

どもりと学校、仕事

 前回は、テレビ報道で見た吃音カフェについてとりあげました。

 私がこの報道から感じたことは、現実(特に仕事の現場)との乖離です。

 吃音カフェがいけないとか意味がないということではなくて、
 ひとりの吃音者がいて、次に吃音カフェのような立ち位置があり、もうひとつ、もうひとつと、階段を上がるように現実に近づくような負荷がかかる現場で、「話すこと」をしていかないと、
 「仕事の現場」(学校も同じようなもの、子供の分だけかえって厳しいかもしれません)は、どもりを持つ人のいろいろな事情(いままでのいろいろなことなど)を常に考慮して配慮するほどの余裕のある現場ではないので、吃音カフェでの経験が、かえって現実の職場の厳しさに耐えきれなくさせることになるかもしれません。
*どもりを持ちながら様々な現実の仕事の世界で試行錯誤されてきた、いままでの大勢の先輩方の貴重な経験があるはずなのですが、それらがうまく生かされていません。(前回書いたように、吃音者個人、セルフヘルプグループ、吃音カフェのような試行、言葉や心の専門家が有機的につながっていない)

 また、吃音にはその重さの違い(傍から見てわかるどもり具合の違いと、どもっていないように見えても本人はかなり悩んでいる心理的な重さの違い)があり、
特に心理的に追い詰められている吃音者の場合は、自分がどもりであることを開示して誰かと分かち合ったり、吃音カフェのような、仕事の現場の前段階、に進めない吃音者も多いのです。
*吃音者のこころはとてもセンシティヴです。

参考:真面目で向上心のある吃音者がむしろ追い込まれる