熊本・大分の地震お見舞い

TVの報道は地震一色です。
東日本大震災のときに流されていたような「AC」のコマーシャルも流れはじめました。
東北在住ではありませんが東日本大震災の被災地入っている地域に住んでいる自分としては、あの日々が思い出されてきます。
しばらく常に揺れている感覚からのがれられませんでした。

どうか早く一連の地震が収束し、平安な日々が戻りますように!

おしらせ:kayさんのブログ「ことばのふしぎ」終了について

 「管理人のお気に入りのブログ」のところでリンクさせていただいてきた、アメリカ在住のスピーチパソロジストkayさんのブログ「ことばのふしぎ」は、まもなく終了し閉鎖されます。
 kayさんにはアメリカの吃音事情について寄稿していただくなどお世話になりました。ありがとうございました。
kayさんのブログが閉鎖され次第リンクも削除します。

東日本大震災2年にあたって

少し前のアキバ

少し前のアキバ

 東京近郊の都市(湾岸)に住む私は、2011年3月11日午後2時46分を地元の5階建てビルの4階の耳鼻科の待合室で迎えました。
ビルが倒れるのではないかと思うほどの大きな振幅の揺れ・・・
ワンセグでは三陸沖の震源を告げていました。
*ということは、東北はどれほどの揺れなんだろう?と思いました。

 急いで帰宅してテレビのスイッチを入れてからは画面の前に釘付けになり、携帯の緊急地震速報の独特の音と振動におびえながら翌朝を迎えました。

 この震災で亡くなられた方のご冥福を祈りますとともに、福島も含めた復興が着実に進むことを祈り、個人としてなにができるか考え、すこしずつでも実行していきたく思います。

吃音:肩の力を抜いて、他人(ひと)と自分を比較しない生き方ができるか?(再掲載一部改編:2008年10月)

 どもりをもっている人は、小さな頃から、どもる自分をどもらない人と常に比較しながら生きているように思います。(というか、「そのように考えてしまうように育てられてしまった」というほうがほんとうのところでしょう。)

 人間において最も重要なコミュニケーションの手段である「話し言葉」に明らかな違いがあることは、ものごごろついてくればわかってきます。
(これも、自分で意識するというよりも他人の指摘によるところが大きいでしょう。)

 高度にIT化されつつある現代社会において要求されるものは、「話し言葉による高度なコミュニケーションのスキル」であることは、吃音者にとっては皮肉なことです。

 どもらない他人と、どもっている自分を比較してみても、あまり良い考えや、前向きな気持ちは出てきません。
 でも、悲しいかな、普段は「どもることは気にしない」と思っていても、何か言葉の上での大きな失敗をするごとに、「どもっていないIFの世界の自分」を思い浮かべて現実の自分と比較していることがあります。 

 「肩の力を抜く」ということは、無理してまで、「どもる自分をそのまま認めてあげよう」と思うことではなくて、「気持ちが揺れ動き、迷いに迷う自分」も認めてあげることではないでしょうか。

吃音とそれに耐える心の閾値(しきいち)について(再掲載一部改編:2007年10月7日)

 いつも書いていますが、どもる人は、第三者から見ても「どもり」だとはっきりとわかる症状の「重い人」から、ほとんどわからないような軽い人までいます。

 しかし、「重い=大きく悩んでいる」という図式ではなくて、傍から見るとほとんどわからないような「軽い人」が、実は自殺を意識するほど悩んでいたりするような不思議な障害です。

 それはどもらない人から見れば理解しがたいかもしれませんが、同じどもる人の間でも理解されない場合があります。

 2~3歳に始まることが多いとされるどもりは、その半数以上が就学年齢までに自然治癒されるということです?が、(この割合も調査によっては幅があります)、私のように(不幸にして)それ以降に持ち越すと、人生にいろいろな次元で影響を与えます。

 ある人には耐えがたい苦痛を与えるかもしれませんが、また、ある人はどもる経験から自分の人生がかえって豊かになったと感じられている人までおられます。
どもりが耐えがたい苦痛になるかどうかは、心の閾値(しきいち)によってきまるのではないでしょうか。
*大前提として、どもりの重さの違いという大きな問題があることを忘れてはなりません。重いどもりが人生に与える影響は軽い人のそれとは比較になりません。

 それは、「打たれ強さ」などという簡単なものではなくて、どもりの客観的な重さや、小さなころよりどもりっている自分が、家族のなかでどもったままで受け入れられていたかということ、
 また、自分の人生にはっきりとした目標があり、それを実現するのに自分のどもりがどこまで影響するかなど、いろいろな条件があって、その人のどもりに耐える心の閾値を作っているように思います。

 もっとも、「どもりに耐えていく」という発想そのものが、ネガティブな考え方なのかもしれませんが、それ以上に大切なことは、弱音を吐ける環境(友人、専門家、家族など)があることではないでしょうか。

吃音者が、自分の人生で自分なりの「立ち位置(生きる場所)」を見つけられるようになるには、どのようなサポート体制を構築していけばよいのだろうか?(再掲載一部改編:2008年9月24日)

 「ある程度以上の重さのどもりを持った人が自分の立ち位置を自分で見つけられるようになる」ためのサポートというのは、言い換えれば、
「どもりを持っている人が自分なりの生き方をできる場所を社会(家庭、地域社会、職場)のなかで見つけることができて、生活していけるだけのお金を自分で稼ぐことができ、それなりの生きがいをも持つことができる」ということです。
*どもりには第三者がほとんど気づかないようなごく軽いものから、しゃべる言葉のほとんどがどもるような重いものまであります。(客観的な症状が軽い=悩んでいないということでもありません)
ですから、その違いを十分に考慮して、吃音者自身の努力では自立した人生が送れない(就職できない、学校に通えない、など)場合には、福祉政策による国や自治体のバックアップが必要です。が、現状ではゼロに近いようです。

 そのためには、人生の方向性を決めていく大事な時期である思春期において、どもりの悩みのために勉強が手につかなくなったり、そのほかの、その年齢で経験すべきことができなくなってしまわないように、(もちろん本人の努力がまず第一に必要ですが)、必要にして十分なサポートをする体制を作ることが必要です。

 現在では「生涯発達」という言葉があるように、生まれてから死ぬまでが発達の時期であると考えられていますが、そのような哲学的な考え方とは別に、長い人生の準備段階として、「大いに勉強し、友人と語り合い、アクティブに活動すべき時期である青春時代」を、 どもりの悩みのために無為に過ごしてほしくないのです。

 そのためには、どもることにまつわる様々な悩み(心の悩み、症状そのものについての悩み、学校生活や家庭生活、職場においての人間関係の悩みなど広範囲にわたる悩み)に対応できるような、学識、臨床経験ともに豊富で人間的にも経験豊富なカウンセラーが身近にいてくれることが必要です。
相談相手には、訓練されたカウンセラーでなくても、身内をはじめ、何でも話せる友達やセルフヘルプグループの仲間などでも良いと思われるかもしれませんが、カウンセリングの訓練や心理学の知識がないと感情にまかせた言葉や個人の経験だけからの思い込みでアドバイスすることがあり、結果的にどもりで悩んでいる人を大きく傷つけてしまいがちです。

 特に身内の場合には、経済的環境や心理的環境を共有している場合が多いので、親近感がかえって災いし、家族間の関係を極端に悪くする原因となる場合もあります。ですから、友人や身内のほかに、利害関係のないプロの相談相手であるカウンセラーの存在というのは是非とも必要なものです。

 そのカウンセラーには、普通の学校の先生やそのOB、または、大学を出たての心理学士や修士を終了したばかりの若者などの「間に合わせ」ではない、学識はもちろん人生経験も豊富な「本当のプロフェッショナル」が必要です。
学校の先生や両親などの吃音者に対する対応に問題がある場合は、はっきりとそれを指摘でき、良い方向に進めるように強力に指導できるるだけの経験と知識、また人間的な力も必要でしょう。
それらのカウンセラーは子供の場合でも、必ずしも学校内にいてくれる必要はなく、学校帰りや会社帰りに、また、土曜や日曜に気軽に通えるような、「街中にあるクリニック」という位置づけで良いのではないかと思います。

 そういう意味では、街中にある精神科の病院や心療内科が、短時間のカウンセリングしか行なわず(行なえず)投薬に頼るような方法ではなくて、ひとりの患者に1時間くらいのカウンセリング時間を割いても経営が成り立つような保険制度にしたり、また、言語聴覚士が街中で独立開業しても食べていけるような制度にすることが必要です。
 また、臨床心理士も(必ずしも医師の管理下でなくとも活動できるような形で国家資格化し)独立してカウンセラーとして保険が適用されるような体制にする必要があります。(そうすることにより、国民病といわれているうつ病に対しても、効果的な対応ができるようになると思います。)

ちょっとお休み

明治神宮の花菖蒲はもうほとんど終わってました。
代わりに一時流行って大変だった清正の井戸の写真です。
たぬきもいました。

またまた ちょっとお休み

新宿御苑です。こんな景色が見られるとは!