「吃音にこだわる」と「吃音で困る」の違いは (再掲載一部改編:初掲載は2011年10月22日)

 吃音者が生きていく上で・・・、
どもりに「こだわる」ことをやめて、毎日の生活、つまり「生きていくこと」を優先させていこうという考え方があります。
*どもりの重さの違いや環境(特に子供のときの家庭環境)の違いによって、こだわり方、こだわる度合いも大きく変わってくるでしょう。

 一方、どもりで悩んでいる人(私もそのひとりですが)と深く話し込んでいくと、どもりに「こだわっている」のではなくて、もっと単純な話しで「どもることで困っている」ということがよく分かります。

 おとなの場合で言えば、
★どもることで仕事に大きな支障が出て困っている。このままでは職場に居づらい

★どもるために就職・転職できないで困っている。
*他の能力は十分にあるのに、どもりのために希望する職種に就職できないということも含む

★日常生活や親戚付き合いにおけるコミュニケーションに支障が出てこまっている
ということなのです。

 子供でいえば、
★学校の授業中や休み時間に大きくどもったり分かっていることが言えずに困っている。劣等感にうちひしがれている。

★どもることを笑われたりからかわれたりすることにより恥ずかしい想いをし、劣等感の塊になっている。(陰湿ないじめを受けていることを含む)

★死にたいと思うほど深刻に悩んでいるのに、家族はその想いを受け止めてくれずに困っている。

 つまり、哲学ではなくて生活(生きていくこと)に根ざした問題なのです。
子供でいえば将来(進路)のことで大きな不安を感じて困っているということ。
大人でいえば、人と関わって、話して、働いてお金を稼いで生きていくのに困る、という問題なのです。

★どもりが軽くなるか治る(そうするために自分でいろいろと努力する)
★ことばで勝負しない仕事に変える
★いじめられている学校から転校する
 などにより、どもることにより困る割合が減るか、減らしていけば、結果的にどもりにこだわる割合も減っていくでしょう。哲学ではなくて身体感覚なのです。
*現実的には、転校先の学校でまたいじめられる、転職先の職場でも同じような苦労をすることもあり得ます。

それを実現するのにはふた通りあるのではないか。
★ひとつ目は、自分の生活環境、生活圏を変えることです。
 極端な話しでいえば、どもりをもっている人たちが独自のコミュティーを作り(解放区のようなもの)そのなかで生きていくことです。
 かつて、「〇〇運動」という名前で独自の人生観を持った人たちが集まって村のようなものを作り集団生活するようなことがあったらしいですが、それに近いかもしれません。
 もう少し現実的にいえば、UターンやIターンで都会から離れることです。たとえ、収入が大きく減っても、地方でゆったりと過ごすことにより自分が取り戻せるかも知れません。
 また、現在地を離れない場合でも、生活レベルを下げてもよいという覚悟ができれば、ことばの面で必要以上に無理をしない職業に変わるということで困る度合いを減らせるでしょう。

★もう一つは、自分を、いま生きている環境やこれから生きたい環境に自分を適応させるべく努力することです。
 それには、心理カウンセリング(本人、家族)やリハビリテ-ション(言語訓練)を行なうことにより、どもりを少しでも軽くすることがあります。
 また、仕事に支障が出ないように、どもりの度合いを低いレベルで維持するように努力することも含まれます。
*現実にはどもり(特に思春期以降)に精通した言語聴覚士は極めて少ないので自分で工夫する必要があります。どもりのセルフヘルプグループなどで知り合った気の合う仲間で集まり公民館などの部屋を借りて、どもりそうな場面を再現し、問題点や対策を話しあい考えるサイコドラマと学習会を行なうのも効果的だと思います。

 自分なりに努力しても、どうしても仕事に支障が出てしまい精神的に耐えられないならば、自分の心と体を守るために、計画的に転職・転業していくことも含まれます。

 しかし、これらがなかなかうまくいかないから、いまに至るまで、ある程度以上の重さの吃音を持つ人は困っているのです。
*背景には、どもりの原因が医学的にわかっていないのでしっかりとした治療法がない、効果的なリハビリテーションができない、社会的にどもりの苦しさが認知されていないのでしっかりとした対策がなされない、ということがあります。

 今回書いてきたことも、「重さや症状の違い」や「育った環境の違い」によって大きく変わってきてしまいます。
どもりの問題は、ケース毎にすべて違うものだと考える必要があります。
*違うからこそ、吃音者どうしで違いを意識しつつ協同してできることがあるのではないか、と思います。

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吃音:自分の名前がいえない

 このところ、このブログに来ていただくキーワードのなかで「自分の名前がいえない」というのが急増しています。

 この時期は、新入生や新社会人が大勢生まれているとともに、様々な理由で就職できなかった人や学校の受験に失敗した人の失意と再生の季節でもあります。
 私もかつて学卒後、どもりのために就職出来ずに失意のうちに満開の桜を見ていました。そして、その後しばらく続く引きこもりへの入り口でもありました。

「ああ、いまはそういう時期なんだな」と思うとともに、どもりの本質的なところである・・・、
「言いたいこと言わなければならないことを言うべきときにいえないか言いにくい」という、どもりの本質的な問題に多くの吃音者が直面しているんだなと思い、感慨深く今年の桜をみています。

 2015年のいまでも、どもりを確実に治したり軽くする方法はありません。
 しかし、それでも、多くの先輩たちが人生のなかでどもりと格闘しながら得た貴重な経験はたくさんあります。
・・・が、
 それらがうまく生かされていない、どもりで悩んでいる子供や若者、職場にあってどもりのために追い詰められている社会人にうまくフィードバックされていない、そのようなことを歯がゆく感じながら今年の満開の桜をみています。

吃音者同士の「つぶしあい」について(再掲載一部改編:2007年7月14日)

 私は、どもりの人どうしが(結果的にですが)つぶしあってしまっていることが多々あるように思います。
*「つぶしあい」などと刺激的な言葉を使いましたがあえて使いました。

 いつものように書いていることですが、どもりや吃音者は実にさまざまです。
 たとえば・・・、
★どもりを抱えていて学校や仕事にも通えなくなり(結果として)引きこもっている人
*傍から見て軽いどもりでも、本人として悩んで学校や職場に通えなくなっている人もいます。

★第三者からみると「どもり」とわからないような軽いどもりを持つ人で、しかし、会社の中では(あたりまえにしゃべる人の中で)精神的にぎりぎりのところで踏みとどまっているような人、
*家庭に経済的な余裕があり、また、どもることについての家族の最低限の理解があれば、学校を卒業してからもふらふらしたり専門学校に通うなど、「就職までのモラトリアムが与えられたり」、比較的ゆるやかな環境で過ごせるかもしれませんが、その寛容さが結果として本人をさらに苦しめる場合すらあります。

★家庭が経済的に恵まれてない場合は、生活のために自分のどもりの症状からするとかなりきつい状況で働かざるを得ない場合もいくらでもあるでしょう。
*無理やりにでも学校に行かされたり、家庭の事情から無理をして過酷な職場に出ると皆が参ってしまうかというと、結果として乗り切ってしまう場合もあります。そのあたりがどもりを考える上で難しいところです。過酷な状況下でもなんとかやっているという吃音者の苦労談が、「やればできる」的な精神論として一人歩きしてしまい、いま悩んでいる吃音者の心を余計に追い詰めることもあるでしょう。また、「どもりながらもそれを受け入れて毎日を誠実に生きていこう」的な、「言葉としては美しいが、現実にそれを実行することは精神論以上に大変なこと」も、吃音者をさらに追い詰めます。

★重症でもなく、かといって企業や学校のなかで難なくやり過ごせることもなく、重症でもなく軽症でもないという中途半端な(ボーダーライン上の)症状の吃音者も多いはずです。

 そのような、さまざまなどもりの症状を持っていたり、また、生きている背景もそれぞれ大きく違う彼らが集うと・・・、
 それぞれの吃音者の考え方のベクトルが合わさって良い方向に作用しているときは、それが大きな力としてグループ活動が良い方向に進むのでしょうが、悪い方向に作用しはじめると(お互いに良かれと思って発言したり行動していることが)、結果としてかえって互いを傷つけあってしまいます。

 ある程度以上の重さの吃音者は、話し言葉を使って外に対しての発信力が弱い人達です。
 そういうメンバーが集まるところでは開放感から、普段、学校や職場で多くをしゃべれない分多くの言葉が交わされることとなります。
その場合は比較的軽い症状の人たちの独壇場となる場合が多く、軽い人と重い人の間に「見えない心の壁」ができてしまう可能性があります。

 そのような吃音者間の「様々な違い」を結果として良い方向に役立たせるためには・・・、
 たとえば、吃音者の集りがあり責任者を決めるときにでも、ある時は一番重いどもりの人に役を担ってもらい、またあるときは軽い人に担当してもらうというような、「(どもりの重さや症状には違いがあり、同じ重さでもなんとかでも乗り越えられるられる場合も乗り越えられない場合もある)というような違いを認め合えることができるようにするための様々な工夫」が必要と思います。

吃音:連絡網の恐怖

 私が小学生だったのは主に70年代前半ですが、学校の連絡網で電話連絡をしなければいけないときは心臓が破裂するほどの恐怖でした。
*電話がない家もありました。戦後がまだ微かに残っていたのでしょうか。いまでは別の意味で「生活に困窮しお風呂はもちろん電話もない家」もいくらでもあると思います
*当時は携帯電話はなく(多分、電電公社「現NTT]で研究中」)、固定電話の黒電話でしたからなおさらです。

 普段から、「連絡網がまわってきたときはどうしよう」と先回りして心配していましたから、台風が来ているときなどはこころのなかも大嵐でした。
 
 ある日連絡網がまわってきたときにはどうしようもなくなって自転車を飛ばして次の人の家まで行き、「ついでの用事があったから直接来た・・・」などと言い訳して伝えたものです。

 その後もいろいろな方法で、例えば、家で電話すると家族に聞かれて余計にどもりそうなので、ちょっと離れた公衆電話のボックスまで行って、自分で「エイッ」とかけ声をかけてから電話したものです。
*もちろんどもりながらの電話でした・・・

吃音:「ことばの教室」はプロの手で(再掲載一部改編:2008年5月22日)

 どもりを持つ小・中学校(一部高校?)の子供は、地域の一部の学校で行われている「ことばの教室」に「通級」という形で通うことができます。
*地域差がかなりあるようで希望者は全員が通えるという状況ではないようですし、先生からことばの教室の存在すら教えてもらえないケースもあります。

 しかしその多くは、通常の授業を抜け出す形で親同伴で通わなければいけないこと(らしいこと)。(共働きの場合はどうするのでしょうか?)
 さらに、ことばの教室の先生は言語聴覚士や臨床心理士などの(ことばや心のプロ)ではない場合が多いようで、普通の先生も担当しているようです。
こんな状態で質の高いケア全国共通に実現できるでしょうか。

 明らかに「ノー」ですね。

 このブログではこの問題には何回も触れていますが・・・、

1,通常の授業を抜け出して参加するのではなくて、放課後や休日にもサービスを受けられるようにすること。

2,学校で受ける場合は、専門家が各学校を放課後や休日に巡回し親の同伴を必要としない形にすること。

3,普通の先生が担当するのではなくて、言語聴覚士、臨床心理士、臨床発達心理士などのプロが、常にスキルアップのための研修を受けながら担当すること。
*普通の先生でも、大学(院)で一定の期間専門的な研修を受けてからスーパーバイザーの指導の下に担当すれば良いと思います。

 これくらいは、先進国で経済大国の日本では「常識」だと思うのですが、いかがでしょうか?

 話は脱線しますが、小学校で本格的に行われようとしている英語教育も「先生」「先生のOB」が担当しているする模様。
 中学・高校と6年も勉強している割にはまともに会話すらできない日本の英語教育ですから、せっかくのチャンスということで、日本人の先生が教えないで、例えば大学を出たばかりの欧米のネイティブスピーカーの青年を「ワーキングホリデー」のような制度を利用して呼んできて、「英語だけ」の授業を楽しく行えばどうだろうか?
 若いお兄さんやお姉さんが簡易な英語だけで行なう授業は人気も出るだろうし、いちいち日本語に置き換えてから考えるような英語ではなくて、直読直解の感覚を身につける良いチャンスだと思います。
*今までの日本の英語教育から脱する良いチャンスだと思うのですが。ネイティブスピーカーのお兄さんやお姉さんに教わった発音の良い子供が中学に上がってくるのが、中学側にとって都合が悪いのかと勘ぐってしまいたくなります。

 もっとも、私が今こどもだったら、そして楽しく話し合う英語の時間ができてしまったら、どもりを持ったこどもである私にとっては「恐怖の時間帯」となることは間違いありません。

吃音は人を創るのか(再掲載一部改編:初掲載2010年7月15日)

 今回は、「どもることで苦労をすることは、どもりを持った人の人格を陶冶(とうや)することになるのか?」ということについて考えてみます。
*いつものように場合分け、条件付きの書き込みになるとは思います。

 「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉があります。
 私としては、この言葉は、「人は、失敗によって人生の多くを知らされ、失敗を乗り越えることによって何かをつかんでいくので、若い頃のトライ、アンド、エラーは、その後の人生にとっての良き指針となる」というような解釈をしています。
 また、私は彼の信者ではありませんが、あの、カルロス・ゴーンは、
「われわれは間違いや挫折からしか学べない」、
「失敗や挫折はキャリアを成功させるために大切なこと」などと言っています。

 それでは、子供の頃からどもりで苦労してきたことはどうなのでしょうか?
極論すれば「終わりよければすべてよし」ではないかと思います。
*ということは、最後まで、どもりによる苦労だけを感じながら、どもりである自分の運命を恨みながら人生を終える人もいるということです。

 また、その人の人生のなかで、人生が進んでいく(単に年齢が上がってくるということではなくて、いろいろと経験すること)につれて、それなりの妥協(良い意味でのあきらめ)がこころの中で出来上がってくるようになれば、それはそれで良いのではないかとも思うのです。
 いちばん苦しいのは、いつまでも、どもっている自分を不完全な自分(本来ある自分ではない)と思いこんでしまい、ひたすら治すことや軽くすることに人生の多くを使ってしまうこと(そうしないと自分で自分が許せないこと)でしょうか。

 人生において、どもることによる苦労が「それほど悪いことではなかった」とか「どもりを経験することで自分の人格が陶冶された」と思えるのはかなり限られた場合だと思います。
 たとえば、どもりが比較的軽く、子供の頃はそれなりにどもっていたとしても入試や就職には大きな支障がでないくらいのどもりで、人生の節目をどもりにより大きく妨げられることなく生きてこられて、その後(社会人になってから)も、どもることはあるが、それにより社会的地位を脅かされることがないくらいの場合。

 また、たとえ重いどもりでも、自分のこころの中のどこかで「生きている意味や、人に必要とされているという気持ちを少しでも感じることが出来るような場所や時間が持てた」場合、つまり、仕事や家族にそれなりに恵まれた場合。
その他、小説や映画にでもなりそうな、とてつもない苦労の果てに、吃音を持ちながら(または、努力の末に治すか軽くして)社会人として、また人間として大成したという場合もありますが、そういう例を取り上げてしまうと、私のような凡人の心を追い詰めることになる場合が多いのではないでしょうか。

 私が思うのは、たとえどもりでなくても、人生を生きる上での苦労はいくらでもあり、尽きません。
あえて、どもりであることを哲学的に意味づけることには無理があるように思います。
 自分自身の考えとして、どもることで自分の人格が陶冶されたと思うことは自由ですし、そう思えるということは人生を真摯に生きてきた証でもあるとは思いますが、それは誰かに言われることではありません。

 どもりの問題を個人の問題としてでなく社会問題として考えるときには、吃音は自分が背負っている言語障害であると「リアル」に思っていた方が良い結果が出るような気がします。
「冷めた頭と熱き心」こそ必要であると思います。

吃音:外の風にふれる(再掲載一部改編:2012年6月5日)

 どもりによる悩みが高じて学校に行けなくなる、
高校・専門学校・大学などを卒業後に就職できず(せずに)に引きこもりがちになっている、
一度就職したが、どもりのつらさから辞めてしまってその後は引きこもりがち・・・

 どもりを原因としての引きこもりはいろいろなパターンがあります。
ほとんどの場合「ほんとうは外に出て行きたい」のだけれども、また同じようにどもって失敗したり、笑われたりすることが想像できてしまい、新しいアクションを起こそうという力が出てこない。

 まずは、外の風にふれることから、
「それでは外出しましょう」ということではなくて、窓を開けて外の風を入れたり、外の音を入れてみましょう。
(いまはまだ寒いのでもう少し暖かくなったら)
レースのカーテンや、ホームセンターで安く買えるすだれを窓にかければ、部屋のなかからは外の景色が見えますが、外からはほとんど見えません。(夜は見えてしまうので注意)
 少しずつはじめてみれば良いと思います。

 気分の良い日は、近所を散歩してみるのも良いですね。
ちょっと歩いて本屋さんに行ったり、図書館に出かけてきても良いですね。
*できれば午前中の陽の光を受けながらゆっくりと歩くと良いです。
*近所の目が気になるのならば、ジャケットでも羽織って電車にのって、比較的近くにある散歩しやすい場所(大きめの公園、川岸、観光スポットなど)に行ってゆっくり歩いてくるのも良いでしょう。
参考:この時期「冬期うつ」にも注意ですね(2013年2月16日)

脳活動マップ計画

 アメリカは言うまでもなく超大国です。
 経済、軍事、そして文化の面でも、世界に大きな影響を与え続けています。

 いままでも
★我々日本人には特に忘れられない広島・長崎に落とされた原爆は1940年代のマンハッタン計画という巨大プロジェクトで開発されました。
★1960年代の初めにケネディ大統領が「1960年代のうちに(10年以内に)人類を月に送る」と宣言してそれを実行したこと(アポロ計画、アポロ11号)
★そして1990年代からのヒトゲノムの解析も、アメリカの主導により行なわれた巨大プロジェクトですね。

 そして、昨日の報道では、オバマ政権が・・・、
脳の機能の全容を解明するために、「脳活動マップ計画」という10年がかりの巨大プロジェクトを立ち上げるとのことです。

 脳神経の機能を探り、アルツハイマー病、パーキンソン病、うつ病などの治療法の開発や、人工知能の開発の促進に寄与する。
いままでは対症療法しかなかったような脳に関わる病気について、「治す」ということに近づいていくような気がします。
 日本の脳科学ブームとは次元が違うのでしょう。

 吃音についても、私がいつも書いているような27世紀?でなくても、もう少し早い時期にどもりの原因が医学的に解明され治療法が確立するかも知れないという希望が出てくるようなニュースでした。

フレデリック・P・マレー著「吃音の克服(A STUTTER’S STORY)」を読みなおす(再掲載一部改編:初掲載2008年1月)

 お正月(注:2008年1月)に、おすすめの本の欄で紹介している「吃音の克服」(A STUTTER’S STORY)を読みなおしてみました。
この本は、子供の頃から重症の吃音を経験され、その後各大学に学ばれニューハンプシャー大学の言語病理学の教授になられたアメリカ人の半生の記です。

 この本には、子供の頃より重症のどもりで苦労された著者の心情の変化が率直に書かれています。
 青年期以降には言語病理学をこころざし各大学で学び、どもり専門の言語病理学教授になるのですが、偏りのない、そして、専門家でなくてもわかる平易な文章で書かれていますので、どもりのお子さんを持つ親御さんや、いまどもりで悩んでいる方々に是非読んでいただきたい一冊です。

 ネット上にはさまざまなどもりに関する情報があふれていますが、この本はそれらのスタンダードに位置する、そして素人でも十分に読める本です。

 邦題は「吃音の克服」ですが、原題(A STUTTER’S STORY)のほうが、この本の内容をよく表しているように思います。
 著者は、この本が書かれた時点(1985年)ではニューハンプシャー大学の言語病理学教授で、どもりを専門に研究されてきた方です。(2013年現在では80歳代後半になられるはず・・・)

 私は、二十数年前に初めてこの本を読んだ時には、一気に読んでしまうほど興奮しました。
 過去に大きな書店や公共の図書館で見つけた「日本の専門家?」と言われる方の書いた吃音に関する本は、どれも外国の文献からそのまま持ってきたような説明の羅列か、実例(カウンセリングや治療の臨床例)にしてもほとんどが学齢期の子供でした。

 実際に自分で動いて、新しい考え方、新しい治療法を開拓するというのではなくて、吃音の査定法の研究や、おもにアメリカで研究された治療法の検証的な研究に終始しているだけなのです。(私にはそう思えました。)

 話を戻します。著者が子供のころと言えば、1930年代です。
 アメリカでは、すでにアイオワ大学でどもりの研究が活発に行われていました、(日本では巷に腹式呼吸による民間矯正所があったはずです??)、
そんな時代の話です。

 そのころからすで街には言語クリニックが存在し、治療費を払って通っていたフレデリック少年が出てきます。治療法は、精神分析的な療法、直接の言語療法、です。
 言語障害や心理学を学んでいる学生を自宅にまで招いて治療している様子も描かれており、両親もかなり心配していたことがうかがわれます。(家庭は比較的裕福で、どもりにはかなり神経質になっており、吃音をおおらかに受け止めるというよりも、どもりはよくないものという受け止め方のようです。)

 いろいろと試してはみるもののどもりの症状はいっこうに改善されず、一時的に良くなったかと思えば、なにかのきっかけで(またはきっかけもなしに)重症のどもりがぶり返すのは、よくあるパターンですね。
 その後スタンフォード大学やアイオワ大学など複数の大学で学び吃音を専門とする言語病理学者になりますが、彼がこの本で結論的に言っているのは、「吃音は器質的な基盤があると思う」ということです。

 どもりを持っている方で知的好奇心の強い方は、ご自分で内外の言語病理学関連の書籍をあさったりするでしょうが、現在はネットでも容易に検索される、大脳半球優位説やDAF(聴覚遅延フィードバック)の理論は、20世紀の前半か中頃からすでに盛んに研究されていることがこの本を読むだけでもわかります。
 皆さんもぜひ読んでみてください。

吃音者の本当の声は反映されているか?

こどもの頃からどもり持ちだった私が書いているこのブログですが、
どもりであることでの「ほんとうの苦労、くやしさ、焦り、後悔・・・」などは、私のつたない文章ではとても表現しきれないなと思いつつも、
どもりをよく知らない一般の人に、「どもりとはこんなものでこんなふうに悩んでいるんだ」と分かっていただきたく、
また、いま、どもりで悩んでいて、でも身近に理解者や相談できる人もいないで精神的に追い詰められている人にとって、何かの情報源になればとも思い書いています。

私の場合は、どもりはじめたこどもの頃から大卒後引きこもるまでは、自分のどもりについてフランクに話せる人がいませんでした。家族の理解もありませんでした(家族の理解のないのはどうやら多数派のようです)
大卒後の引きこもりを経て、20代の後半に民間のどもり矯正所で知り合った同じ悩みを持つ仲間と接してはじめて、同じ悩みを共有する仲間ができ精神的に大きく救われました。
なんとか立ち直ることもできて、ハローワークで営業の仕事を見つけて2年遅れの社会人をスタートさせた経歴を持っています。
当時の仲間とは20年以上の時間をちょうど良い距離を保ちながらお付き合いさせていただいてきました。
*長い時間ですから、なかには、ケンカ別れやなんとなく疎遠になっていく人もいます。でも彼らもどこかで、かつて一緒に悩んだり騒いだりしたことを思い出してくれているのかなとも思っています。

今回のテーマですが、
吃音者(どもりを持った人の)本当の声はきちんと反映されているのだろうか?
小(中)学校の通級教室のことばの教室に
どもりの人が集まるセルフヘルプグループに
いまでも形を変えながら残っている民間のどもり矯正所(のようなものも含む)に
国や地方の行政に

いまではインターネットが広く普及していますから誰でもどもりについての情報を家にいながらにして得ることができます。
*もちろん玉石混淆ですが・・・。石が圧倒的におおいようで(笑)

最近気づいたこと、それはどもりのセルフヘルプグループ関係のホームページが相次いでリニューアルされていることです。
造りがきれいになることは見やすくなり良いことですが・・・私にとっては「かなりつまらないもの」となってしまいました。

(私は直接関わったことがないのですが)言友会というどもりのセルフヘルプグループがあります。
私の学生時代はインターネットが一般に普及する前だったのですが、言友会という名前だけは地域の図書館で読んだ本で知っていました。が、とても敷居の高いところに感じられて行ってみようとは思いませんでした。
(ネットを使えば情報は簡単に取れ、問い合わせもたやすくできるようになったいまでも、セルフヘルプグループの門をたたくまでには、かなりの葛藤がある方が多いようです。)

そのリニューアルしたHPをみると、なるほどレイアウトは整然として見やすくはなりました。(街のなかの古くからある洋食屋が大改築し現代的に生まれ変わったような感じです)
しかし、新しく整然となったことで、かえっていままであった親しみやすさ、気軽さ、自分達で運営しているという雰囲気がなくなったような気がします。(洋食屋のおじちゃんは古い建物の中でこそ生きてくるという感じでしょうか。)
意見を書き込めるところ、問い合わせのリンクがないのかとしばらく探してしまい、よく見ると、上の方の見えにくいところにかろうじてありました。
数年前までは自由に書き込める掲示板があり、いろいろな意見が飛び交い、言友会とはお付き合いのない私はもっぱら読む方専門でしたが、その内容には考えるところが大でした。
あるとき、激しい意見が飛び交ったときを境に閉められてしまいました。

これにはがっかりしました。
このときに、むしろこれがチャンスと、掲示板でもめていたことをこの場で終わらせずに、会場を借りてでも大会などを開いて一晩中でも大いに自由闊達に話し合えば・・・
たぶん、ネット上では感情的になっていたかに見えた人も、顔をつきあわせて話してみれば、自由闊達な議論のなかで次第にクールダウンされて、本当の意味での建設的な良い議論がされたのになあ・・と、(部外者ながら)がっかりしたものです。
*実は、内部では、そういう議論がされていたのかもしれませんね。

もちろん、そういう、なにが出てくるか分からないような激しい議論をするときには、その場をうまくさばける人、間的魅力あふれるリーダーが必要です。
(テレビなどでの討論会で考えてみても、「国難」と言われているいまの日本では、お上品なキャスターが司会をしていたのでは激しい本質的な議論はなかなか期待できないでしょう。田原総一朗さんのような、老練でタブー領域にもあえて入り込むような司会者がさばかないと、本質的な議論など期待できません。なにしろ国難なのですから。)

いまは私がこどもの頃(昨夜BSで放映されていた3丁目のの夕日は私の世代よりも前ですが、私のこどもの頃はまだあの雰囲気が都市近郊でも残っていました)のような右上がりの時代ではありません。経済も下降して、何よりも人々のこころが萎えてしまっています。
こんな国難のときは「かっこ」はどうでも良いのです。
いまが、幕末、太平洋戦争の敗戦後に匹敵する国難ならば、がむしゃらに本気で取り組むときでしょう。

どもりについても、まさに、同じような状況だと思います。
本当に困っている深刻な状況にいる人が相談を受けられたり、仲間と巡り会えたり、会合に参加できているのだろうか?、地下に潜ってはいないだろうかと?
これは、セルフヘルプグループの問題ではなくて、個人単位で情報が発信できるようになったいま、ひとりひとりの吃音者にも突きつけられた問題でもあると思っています。