吃音と職場(再掲載:初掲載は2013年4月4日)

 このブログには簡単な解析ツールがついていて、
「どんなキーワードでこのブログに来たか?」「どのページが何回見られたか?」などが分かります。
*もちろん個人の特定はできません。

 そのなかのキーワードで「同僚の吃音にイライラする」というのがありました。

「なるほどな、そうだろうな」というのがどもり持ちの私の正直な感想です。
なぜならば、私にも、口に出して言われた経験があるからです。

 私が大卒後に就職できず引きこもった後に民間どもり矯正所に通い、初めてどもりについてこころから語り合える友人を得て少しずつ生きる自信をつけていき、職安に通い2年遅れで小さな会社の営業マンになったことはいままでに書いていますが、
その後に、自信をつけて大手の会社の営業マンに転職し落ちついてきた頃の話しです。
*社内での研修中に電話番をしていた頃のことを、もう少したってから上司から言われました。

 上司と楽しい酒を飲んでいると、上司が、
「会社に電話をすると君がでて用件を伝えてくれたが、どもりながらの話しには正直のところイライラしたよ・・・」という話しをされました。
*まだ携帯が一般的でなかった頃の話しです。

 私は一般的な企業において、同僚やチームの仕事の流れに障害を起こさせるようなことがなければ、その人のそのどもりはその職場においてはセーフだと思います。

 逆に言えば、どもることによりチームとして動いている職場の仕事に障害を生じさせるようなことがあればアウトでしょう。
*もちろん人間的な価値を言っているのではなくて、その職においてのビジネス上の話しです。
*現実には、いまの職場での仕事に支障が出るくらいのどもりを持っていて、でも家族の生活を支えていくために同僚からの冷たい視線を感じながらも日々働いている方もいらっしゃるでしょう。

 これも何回も書いていますが、仕事と言っても実に様々です。
 職場毎に、必要とされる社会的な意味でのことばの流暢性は大きく違います。

 民間企業の営業職の他にも、同じ企業でも事務職、工場の現場、工場の管理。
また、農林水産業、福祉関係(これも幅広いです)、地方公務員、国家公務員(キャリアから高卒程度までありますね)、自営業。
*同じ職種でも、例えば、田舎の役場と大都市の役所では仕事上のスピード感や緊張感も違ってくるでしょう。

 様々な職業のなかから、どもりを持っている自分に合った仕事(職種)を見つけて、こころの病気になってしまうような強いストレスがかからないように工夫しながら生きていけば良いのだと思います。
*このあたりまで分かっている、吃音者の心の機微が分かる「ことばや心の専門家や小中学校のことばの教室の先生」がサポートしてくれれば、どれほどの子どもたちが救われるでしょうか?

 もしも、いましている仕事において言葉上の自信がついてきて、自分として違う職種にチャレンジしたいという気持ちが出てくれば、そのときにチャレンジすればいいと思います。
*チャレンジした結果が良くなければ、また前の職種に戻れば良いでしょう。

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吃音は人を創るのか(再掲載一部改編:2010年7月15日)

 今回は、どもることで苦労をすることはどもりを持った人の人格を陶冶(とうや)することになるのか、ということについて考えてみます。
 *いつものように場合分け、条件付きの書き込みになるとは思います。

「若いうちの苦労はかってでもしろ」という言葉があります。
私としてはこの言葉は、ごく少数の天才を除いたほとんどの人は、失敗によって人生の多くを知らされ失敗を乗り越えることによって何かをつかんでいくので、若い頃のトライ、アンド、エラーは、その後の人生にとっての良き指針となるくらいの解釈をしています。

 また、カルロス・ゴーンは・・・、
「われわれは間違いや挫折からしか学べない」、
「失敗や挫折はキャリアを成功させるために大切なこと」
 などと言っています。

 それでは、子供の頃からどもりで苦労してきたことはどうなのでしょうか?

 極論すれば「終わりよければすべてよし」ではないかと思います。
*ということは、最後まで、どもりによる苦労だけを感じながら、どもりである自分の運命を恨みながら人生を終える人もいるということです。

 また、その人の人生のなかで、人生が進んでいく(単に年齢が上がってくるということではなくて、いろいろと経験すること)につけて、それなりの妥協(良い意味でのあきらめ)がこころの中で出来上がってくるようになれば、それはそれで良いのではないかとも思うのです。

 いちばん苦しいのは、いつまでも、どもっている自分を不完全な自分(本来ある自分ではない)と思いこんでしまい、ひたすら治すことや軽くすることに人生の多くを使ってしまうこと(そうしないと自分で自分が許せないこと)でしょうか。

 さて、どもることによる苦労が「それほど悪いことではなかった」とか「どもりを経験することで自分の人格が陶冶された」という方がいらっしゃいますが、そのように思えるのはごく限られた場合ではないかと思います。

 たとえば、
 どもりが比較的軽く、子供の頃はそれなりにどもっていたとしても入試や就職には大きな支障がでないくらいのどもりで、人生の節目をどもりにより大きく妨げられることなく生きてこられて、その後(社会人になってから)も、どもることはあるが、それにより社会的地位を脅かされることがないくらいの場合。

 また、
 たとえ重いどもりでも、自分のこころの中のどこかで「生きている意味や、人に必要とされているという気持ちを少しでも感じることが出来るような場所や時間が持てた」場合、つまり、仕事や家族にそれなりに恵まれた場合。

 その他、小説や映画にでもなりそうな、とてつもない苦労の果てに、吃音を持ちながら(または、努力の末に治すか軽くして)社会人として、また人間として大成したという場合もありますが、
そういう例を取り上げてしまうと、我々のような凡人の心を追い詰めることになる場合が多いのではないでしょうか。

 私が思うのは、たとえどもりでなくても、人生を生きる上での苦労はいくらでもあり、尽きません。
あえて、どもりであることを哲学的に意味づけることには無理があるように思います。

 自分自身の考えとして、どもることで自分の人格が陶冶されたと思うことは自由ですし、そう思えるということは人生を真摯に生きてきた証でもあるとは思いますが、それは誰かに言われることではありません。

 どもりの問題を個人の問題としてでなく社会問題として考えるときには、吃音は自分が背負っている言語障害であると「リアル」に思っていた方が良い結果が出るような気がします。「冷めた頭と熱き心」こそ必要であると思います。

吃音をもつ子供の親ができること(再掲載一部改編:初掲載は2011年4月28日)

 いつも書いていますが「どもり」は実に多様です。症状も重さも人それぞれ大きく違います。
 自分のなかで、どもることをどのようにとらえて生きていくのか(いけるのか)。
 また、どもることが結果として人生にどれだけ悪影響を与えるのかも、人ごとに大きく違います。
*「どもり経験が自分にとって結果的に良いことだった」とまで言う人もいますから。

 これもまたいつものように書いていますが、どもりの子供の家庭環境(精神的、経済的)が、その後の人生に大きく影響することも忘れてはいけません。

 どもっている子供がいる家のなかが、たとえば・・・、
★常に夫婦喧嘩をしているような険悪な雰囲気の家庭
★おじいちゃんおばあちゃんと同居している場合に、孫がどもることで嫁を責めたり、聞きかじったとんちんかんな治療法(お灸?)を強制するような雰囲気
★権威主義的な雰囲気に満ちた家庭
★親兄弟がどもりを持つ身内に「どもることくらいで悩んでいるおまえは甘い、世の中にはもっと苦労している人が大勢いる」などと言うような雰囲気
*これをしなければどもりが治るということではありません。でも、学校などの外の世界でさんざん傷ついて帰った家庭がこんなふうでは、うつ病などの心の病気になってしまいます。

 大人になれば人生は自己責任です。誰も守ってくれません。
*思春期以降の年齢の吃音者に対する公的なサポートは事実上ありません。

 そのときになってどもりという「余計なこと」で必要以上の苦労しないように、どもりを持つ子供の親がしてあげられれることと言えば、子供の頃(幼少期~思春期)の環境を良くしてあげることくらいしかありません。
*もちろん、必要に応じて、言語聴覚士や精神科医などに相談したり、学校のことばの教室に通う、(親む含めて)どもりのセルフヘルプグループに参加するなどの工夫も必要です。