吃音のために○○ができないということ(再掲載一部改編:初掲載は2011年9月28日)

 「どもるために○○ができない」ということ。
 ある程度より重い、つまり日常生活や学校生活・仕事に支障が出るようなどもりを持っていると、どもるために○○ができなかったり、また、実際に何かをするまえに○○ができないと思い体かこわばってしまう(結果としてもできない)という経験をしている方は多いと思います。

 それに伴い精神的にも参ってうつ的な症状になり、ついにはうつ病にまで進行してしまうこともあります。(私はその経験者です)
 これが「どもり」というものの本質かもしれません。
*どもりの重さの違いにより事情は大きく違ってくることを考慮する必要があります。
 軽いどもりが人生に与える影響と重いどもりのそれとでは天と地の開きがあります。また、子供(思春期後期くらいまで)のどもりの場合には、育っている家庭環境(精神的・経済的)の違いや学校でのいじめなどの有無により、少しでも良い方向に向かうか、さらに神経症的なものも伴った苦しい状況に陥るか違ってきます。
*一方、傍から見て軽く見える・ほとんど気づかないようなどもりでも、本人として深く悩み生活に影響がでていたり、自殺まで考えるほど追い詰められることもまれではありません。

 たとえば・・・、
★授業中に答えが分かっていても(どもることがわかっているので)手をあげることが出来ない。クラスで役員をしたくても言い出せない。
★買い物ができない、寿司屋で注文ができない、電話で予約ができない。
★仕事で、顧客の新規開拓のために、いままで取引のなかったところへの積極的な動きができない。
★親が死んでも、どもるために葬式で挨拶ができない。
*どもりは、まったくしゃべれないのではありません。症状により様々ですが、最初のことばがなかなか出てこない、つまりつまりしゃべる、顔を歪ませおおきくしゃくり上げるような仕草を伴いつっかえながらまたは繰り返しながらしゃべる、意味のないことばを発してからいいたいことばがやっと出てくる、など様々です。

 また、「治った」または「良くなった」と言っていた同じ方が、ある日、自信のなさそうな顔をしているので聞いてみると、
「またどもり出してしまった、それもかなりの重症で・・・」ということもまれなことではありません。

 90年代はじめまでとは違い、ある程度以上の規模の企業に勤めるサラリーマンでさえも会社はもはや安住の地ではありません。
 確かに会社自体はしっかりとしていてなくならないかもしれませんが、そこに勤める人間は、海外シフトにより家族と離れて海外に赴任、または、いままでの畑とは違う部署や子会社に出向するなどは当たり前の話。(リストラされないだけラッキーというところです。)

 こんなことはサラリーマンにはありがちなことですが・・・、
 ある程度以上の重さのどもりを持っていて、不断の努力の末「治った、良くなった、どもりを残してはいるがそれなりに仕事に対応できるようになった」という人には、こんな、いまのサラリーマンには当たり前の出来事が鬼門なのです。

 自分に合った、生きる・働く環境を不断の努力の末に作ってきて、仕事にも自信がついて精神的にも安定し、結果としてことばの方でもかなりの自信がついた。
 たまに参加する吃音者の会合でも、自分の経験をもとにしてそれなりのサクセスストーリーのひとつも言うようなことが多くなってきた。

 そんなときに突然の職場環境の大きな変化。
 いままでは当たり前のように言えていた電話での会社名や名前、会議での発言がうそのように詰まりだしてきます。
その後はどんどん悪化し、日常会話にも影響が出てくる。
 こんな経験をしてはじめて、どもりで苦労している人の心が「こころから分かった」という「吃音者」にも会ったことがあります。

 どもるために○○ができないということ。
 あえて無理してトライしてみたら、心配していたほどではなくて案外うまくいき、その後自信をつけて結果的にどもりの症状もだいぶ緩和された例、
 逆に大失敗してしまい「トライするんじゃなかった」と後悔するばかりか、今まで以上に悪化する場合もあります。

 こういうふうに考えていくと、おとなが、どもりで悩んでいる子供に対して・・・
「どもっても良い」という呼びかけは正しいのか?
「どもりながらでもなんでもしよう、していこう」ということは妥当なのか?
 という疑問がわいてきます。

 もしも、こどもに対してこういうことばを発するのでしたら、発したおとな(親、先生、その他どもりの子供をサポートする専門家など)は、どもりで悩んでいる子供が家庭内や学校などで、どもりながらでも必要以上の大きなストレスを感じたり、陰湿ないじめを受けないように最大限のバックアップを「日常的に」行なっていく必要があるでしょう。

 また、これも意見が分かれるところですが・・・、
「少しでも軽くしたい」「治したい」との本人の希望があれば、いまの時点でできる最善の言語訓練、心理カウンセリング(本人、家庭に問題があれば家族も)をタイムリーに提供することは・・・、
「本人の納得感」、そして「良い意味での結果としての諦めと現実をかみしめた上での生きていく力の獲得」、
 さらには、矛盾するようですが、「どもりが治り切れなくても自分なりに生きていこう」というという生き様を結果的に獲得できるような気がします。

 ものごとは、子供でもおとなでも本人がこころから納得してこそ、良い方向に進むものなのです。
*いまという時代が、私が子供の時代を生きた高度成長期後期から末期(70年代半ばからの10年くらい)のように活気があり安定している世の中であれば良いのですが、東日本大震災など大規模災害が続く国難の日本、失われた20年で経済的にも大きく疲弊していて人間関係もとげとげしくなり、仕事の世界でも「努力している姿」よりも「具体的な結果」を求められるだけという厳しい現状であること。
そして、それは家庭のあり方や家族の人間関係、学校内の人間関係にも少なからぬ悪影響を与えていることを考えたうえでの行動が必要です。

 我々に必要なのは・・・、
 こうあるべきという考えかたを硬直的に語ることではなくて、どもりを持って悩んでいる人が、いま生きている現実の人生をできるだけ気持ちよく生きていけるようにしていくことです。
*もちろん、甘やかされて楽に生きていこうということではありません。

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