吃音者同士の「つぶしあい」について(再掲載一部改編:初掲載は2007年7月14日)

 私は、どもりの人どうしが(結果的にですが)つぶしあってしまっていることが多々あるように思います。
*「つぶしあい」などと刺激的な言葉を使いましたがあえて使いました。

 いつものように書いていることですが、どもりや吃音者は実にさまざまです。
 たとえば・・・、
★どもりを抱えて深く悩み学校や仕事にも通えなくなり、(結果として)引きこもっている人
*傍から見て軽いどもりでも、本人として深く悩み学校や職場に適応できなくなり、通えなくなっている人もいます。

★第三者からみると「どもり」とわからないような軽いどもりを持つ人で、しかし、会社の中ではあたりまえのように電話をかけたりしゃべる人のなかで働いていて精神的にぎりぎりのところまで追い詰められつつも、紙一重で踏みとどまっているような人

*家庭に経済的な余裕があり、また、どもることについての家族の最低限の理解があれば、学校を卒業してからもふらふらしたり専門学校に通うなど、「就職までのモラトリアムが与えられたり」、比較的ゆるやかな環境で過ごせるかもしれませんが、その寛容さが結果として本人をさらに苦しめる場合すらあります。

★家庭が経済的に恵まれていない場合は、生活のために自分のどもりの症状からするとかなりきつい職場で働かざるを得ない場合もいくらでもあるでしょう。

*無理やりにでも学校に行かされたり、家庭の事情から無理をして過酷な職場に出ると皆が参ってしまうかというと、結果として乗り切ってしまう場合もあります。そのあたりがどもりを考える上で難しいところです。そのような過酷な状況下でもなんとかやっているという吃音者の苦労談が、「やればできる」的な精神論として一人歩きしてしまい、いま悩んでいる吃音者の心を余計に追い詰めることもあるでしょう。また、「どもりながらもそれを受け入れて毎日を誠実に生きていこう」的な、「言葉としては美しいが、現実にそれを実行することは精神論以上に大変なこと」も吃音者をさらに追い詰めます。

★重症でもなく、かといって企業や学校のなかで難なくやり過ごせることもないような、「重症でもなく軽症でもない」という中途半端な(ボーダーライン上の)症状の吃音者も多いはずです。

 そのような、さまざまなどもりの症状を持っていたり、また、生きている背景もそれぞれ大きく違う彼らが会合などに集うと・・・、
 それぞれの吃音者の考え方のベクトルが合わさり良い方向に作用しているときは、それが大きな力としてグループ活動が良い方向に進むのでしょうが、悪い方向に作用しはじめると(お互いに良かれと思って発言したり行動していることが)、結果として互いを傷つけあってしまいます。

 ある程度以上の重さの吃音者は、話し言葉を使って外に対しての発信力が弱い人達です。
 そういうメンバーが集まるところでは開放感から、普段、学校や職場で多くをしゃべれない分多くの言葉が交わされることとなります。
 その場合は比較的軽い症状の人たちの独壇場となる場合が多く、軽い人と重い人の間に「見えない心の壁」ができてしまう可能性があります。
*かつて作っていた小さなグループで経験しました。

 そのような吃音者間の「様々な違い」を結果として良い方向に役立たせるためには・・・、
 たとえば、吃音者の集りがあり責任者を決めるときにでも、ある時は一番重いどもりの人に役を担ってもらい、また、あるときは軽い人に担当してもらうというような、「(どもりの重さや症状には違いがあり、同じ重さでもなんとかでも乗り越えられるられる場合も乗り越えられない場合もある)というような違いを認め合えることができるようにするための様々な工夫」が必要と思います。

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