「吃音を持ちながら頑張る」という生き方の「弾性限界」 (たびたび再掲載一部改編:初掲載は2008年7月29日)

「弾性限界」、理科系でないので正確ではないかもしれませんが(高校の物理で勉強しましたような・・・)、金属などを曲げるのをやめたときに、もとに戻る限界を超える点を「弾性限界点」というような言い方をしたと思います。

 吃音者の人生においても、
★「無理をしないで自分らしくどもりながら(どもりを受容して)生きていく」、

 または、
★どもることで苦労することをバネとして「こんなことで負けられない!」と頑張って無理して生きていくこと、
 のどちらにも「弾性限界」があるのではないかと思うのです。

 どもることをひたすら気にして、どもらないようにしよう、なるべく人に知られないようにしようと、あらゆる努力をする生き方もたいへんですが…
「どもったまま生きていこう、どもリを治そうと頑張らないで生きていこう」という考え方もそれ以上に大変で、肩肘張らないとそのような生き方ができないのかもしれません。
「たいへんなものは大変」だし、「恥ずかしい」ものは恥ずかしいというのが自然ですから。

 さて、(私もそうですが)ある程度以上重いどもりを持ったまま思春期後半(高校生以降)を過ぎた人、
 つまり、自然治癒が事実上望めなくなった以降の吃音者にとっては、いまの日本の吃音者に対するサポート(医療・リハビリテーション)のレベルや体勢を考えたときに、「事実上吃音者に対する公的なサポートはなし」の状態であることは間違いありません。

 そのような環境下でどもりを持っている思春期以降の人たちが自分達でできることといえば限られていて・・・、セルフヘルプグループに通うことくらいでしょう。
*もちろん、症状の重さや、その人を取り囲むいろいろな状況によって大きく違います。

 そうではなくて、「とにかく治そう、少しでも軽くしよう」と思うのなば・・・、
インチキと思いつつ半信半疑で通う、(治療費??)に何十万円を払う民間の無資格どもり矯正所(最近はいろいろな変化系もあり)に行くしかありません。
*悲しことに状況は、私が利用した二十数年前と何ら変わっていません。
*かつて(90年代初め頃まで)の伝統的などもり矯正所とは様相は異なり、複数の吃音者が小さな教室で寺子屋のようにわいわいがやがやするのではなくて、1対1のカウンセリング形式やセミナー風のものが多いようです。つまり仲間が作りにくくなっています。
*たとえ、日本に数カ所くらい吃音に精通した専門家がいるきちんとした施設があったとしても、通える範囲にそれはなければそれはないのと同じことです。

 ですから、必然的に、かつて私たちが作ったような私的な小さなセルフヘルプグループが行なっていたように、仲間うちで工夫するしかありません。

 仲間で集まって公民館などの部屋を借りて(専門書なども参考にしながら)、
 例えば、心理劇(サイコドラマ)なような方法を使って、電話が苦手ならば電話練習を、ある特定な状況(発表・交渉)で話すことが苦手ならばその状況を再現して練習します。

 私たちの場合は、グループには、様々な年齢層(高校生くらいから成人まで)や様々な仕事の人が集まっていたために、サイコドラマの途中でどもっているときに、いろいろな立場の方の意見を聞きながら進めていくことができました。

 練習日以外にも日常的に電話をかけ合っていました。携帯電話が一般に普及する少し前の時代でしたから、電話といえば固定電話でした。
 親と同居している家に電話する場合、どもりの友人本人がひとりで住んでいる家に電話する場合、と、条件設定をして練習することができましたのでとても役に立ちました。

 たぶん、これがいまの日本でできる、吃音を軽くしよう治そうという考えにとどまらず、どもったまま豊かに生きていこうとする人たちもが日常的にできる対策なのではないでしょうか?
*所詮、我々は素人の集まりでしたがそれしか方法がありませんでした。そして、この状況は、悲しいかないまでも変わっていません。
*もちろん注意事項はあります。メンバー間のどもりの重さの違いに注意して、ある人が疎外感を感じないように常に注意を払いながらリーダーが責任を持って運営することです。

 そのような小さなセルフヘルプグループで活動していたとき(90年代初め頃)から感じ始め、現在でも思っていることなのですが、
小学校や中学校などのことばの教室では、どもりを持つ子供や両親に対するサポートがきちんと行なわれているのだろうか?
*そもそも、吃音に精通した言語聴覚士や臨床心理士などの専門家が対応しているのだろうか?

 例えば、
★どもりの研究と治療・リハビリの現状、つまり、どもりはいまの医療レベルで治るものなのかどうなのか? ということと、
★どもりを治す、という考え方や、どもりを持ったままでも自分らしく生きる
 などが先生からきちんと説明されているのかどうか?

 また、利用者側の視点に立った、利用者本位のサービス(放課後や、休日などに利用できるか?)がきちんと提供されているか?
つまり、お役所仕事になってはいないか?

 これらのことがしっかりと行なわれていれば、思春期以降までどもりを持ち越した人たちが「どもりに対する正確な知識とそれなりの心構え」を持てるのですが、いままで多くの吃音者やその親御さんに接してみた実感として、実に幼稚な知識しか持っていないことが多いのです。

 どんなにどもりで日常的に苦労をして「もうこれ以上頑張りたくない」と感じていても、それぞれの人が置かれた境遇の中で、毎日をなんとかでも生きていくためには、「がんばらないと」生きていけません。

 しかし、そのがんばりにも限界があります。特に個人でできるがんばりには限界があります。

今回は歴史学者、市井三郎、のことばでしめます。
「歴史の進歩とは、自らに責任のない問題で苦痛を受ける割合が減ることによって実現される」
*講談社現代新書「発達障害の子供たち」(杉山登志朗:愛知小児保健医療総合センター保健センター長)より

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