「吃音を持ちながら現実を生きる」ということ(再掲載一部改編:初掲載は2006年8月7日)

 どもりを持ちながら現実を生きていくということ・・・、

 どもりの人たちの会合では、よく、「感動的な苦労話」が語られます。
 ときには、「明らかな嘘や作りすぎだな」とわかってしまう程デフォルメされた話や必要以上に説教くさいものもあります。
それには、どもりで大きく深く悩んでいた20歳代後半の、当時の私でさえも聞きづらく反発を感じた記憶があります。

 それはともかく、現実にある程度以上の重さのどもりで深く悩んでいるときの苦しさには筆舌に尽くしがたいものがあります。
 特に、「言い換えることによって回避できる」「少しは詰まるが大きな破綻がなくしゃべることができる」くらいより重いどもりの場合は毎日が精神的苦痛との戦いです。
*傍から見てわからないくらいの軽く見えるどもりでも、本人としては自殺を意識するほど苦しんでいる人もいくらでもいます。このあたりがどもりの難しさです。

 さらに、どもりを持つ人が育つ家庭の(子供の頃から就職するくらいまでの)経済事情の善し悪しも、人生に大きな影響を与えます。
 家庭の事情で、自分が何が何でも働いてある金額以上の収入を継続的に得なければならず、でも、自力では就職できなかったのでコネで入れてもらった職場で働いている場合などです。
それも、自分としては言葉の問題で、精神的にぎりぎりの状態で常にがんばらなければならない場合は特に大変です。
*現在の雇用状況は、90年代以降、「リストラ」という名前の首切りが日本でも常態化してしまったことから、なんとしてもいまいる職場にしがみついて無理をしてでもがんばり続けなければならない現実があることを考えなければなりません。

 人生を生きるなかで、ある程度以上の重さのどもりや傍から見て軽いどもりでも自分として深く悩んでいて人生に影響が出ている場合には、どこかに「余裕」が必要だと考えます。

★それは「時間的、経済的な余裕」かもしれません。
どもりを原因として新卒時の就職に失敗しても、家族の生活を支えるために仕事を選ばずにすぐにでもフルタイムの仕事に就かなければいけないということではなくて、少ない収入でも良いので、アルバイトをしながらでも自分を見つめられる時間を持てるような余裕。
または、専門学校や大学院などに通い直して再起を期すなどの余裕。
*それを理解してもらえる家族の雰囲気、どもりに対する理解

★心の余裕
厳しい現実にさらされながらも、どこかに自分の弱音を吐ける場所があり、自分のことをわかってもらえる仲間がいること。

 これらの、最低でもどちらかひとつの「余裕」がないと、その人の人生は、「苦しみ」を超えて「パニック状態」になり大変なことになります。
 体の不調は一定期間の休養でなおりますが、心を壊してこころの病気になってしまうと、その回復には非常に長い時間を必要とするのです。

 どもりにより心が疲れてくると、次第に以下のようなことができなくなります。
★自分のこころが疲れてきていて、このままだと危険な領域(うつ病などのこころの病気)に入ってしまう、ということを冷静に認識し、自分から精神科医にかかったりすること
★自分(のこころと体)を守るために、熟慮と十分な準備の上に、生き方の変更をすること

 学校や職場に通えなくなり引きこもったり、自殺を考えたり、こころの病気になり長期間苦しい思いをしないためにも、早めに心の専門家である精神科医などの援助をうけてください。
*親友の優しい言葉も必要ですが、あるレベルを超えるとやはり専門家の助けが必要となります。

 日本人の苦手な、自分を冷静に見つめる人生の「危機管理」が、どもりの問題においても必要とされます。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中