吃音の「重い」「軽い」は時として容易に入れ替わる(再掲載一部改編:2007年7月16日)

 どもりの「軽い」「重い」というテーマでよく書いている私ですが、この両者の立場は実に微妙です。

 客観的にみてどもりの症状が軽い人ほど、まわりの人から見れば「普通にしゃべる人」と見られますから・・・、
例えば学校生活や仕事上でのことばの要求も、当たり前のように電話をしたり、発表したり、交渉に臨んだり、大きな会議に出ることを求められます。

 しかし、客観的な症状はともかく、それらの学校生活上や仕事上の言語的な要求が、本人にとっては常にギリギリの線であったらどうでしょうか?

 毎日の生活が針のむしろで心の中では常にギリギリであるのに、それを隠しながら生きている毎日。
深層心理(心の底)に、少しずつかつ確実に蓄積される「負の力」は、ある限度を超すと表に(心の病気や体の病気として)姿を現し、吃音者を苦しめます。
 例は良くありませんが、学校でいじめにあって苦しんでいる少年少女が、家庭では全くそのことを口にせず、ある日急に学校に行けなくなり引きこもってしまうようなものです。

 今の生きている環境では、とりあえず「軽いどもり」かもしれませんが、あくまでも「とりあえず」であることを考えなければなりません。
 いま「重い人」も、いま「軽い人」も、いつお互いの立場が入れ替わるかもしれないことを意識しながら、それぞれの心の内をさらけ出し、お互いの立場を尊重しながら生きていく必要があると思います。

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