吃音:理解してもらえない人たちのなかで自分(の人生を)を見失わないためには

 今年も終わろうとしていますが、皆さんもこの一年、いろいろな出来事のなかでそれぞれの感慨をお持ちのことと思います。
 特に、生きていく上での大きな問題を抱えている方(子供から大人まで)にとっては、その問題が解決していないのならば良い年の瀬にはなっていませんね。

 どもり、それも、日常のコミュニケーションに支障が出る以上の重さのどもりか、傍から見た症状は軽くても自分として深く悩んでいる場合は、いつものことかもしれませんが、こころの重い年末になっているかもしれません。
*私の場合は、学生時代で言えば、発表時や教科書を読まされるとき恐怖から少しの間だけでも逃れられる冬休みは心が安まりました。(家ではしゃべらなくても良いからです)。就職してからは(特に自分の名前よりも言いやすい会社名の職場にいたときは)あえて年末ぎりぎりまで休日出勤してでも仕事の電話をして言葉の調子を整えていました

 さて・・・、私もそうで、このブログにコメントを寄せていただく方の多くもそうなのですが、子供の頃からのどもることによる様々な苦労をいちばん身近にいて理解してくれていても良さそうな「家族(配偶者、親・兄弟、祖父母)」が、実はいちばん分かっていないことが多いということについて考えます。

 生活の基盤である家庭において、どもりの苦しさを家族に理解してもらえていないことによるストレスはたいへんなものです。
 特に子供のうちは、そのストレスが(今後の)人生に与える悪影響は大きなものがあるでしょう。

 自分の努力の外にある「どもる」ということ。
 簡単な挨拶から、自分の名前を言う、授業中に指名されて教科書を読む、指名されて答えること、など、日常的に当たり前に繰り返されるべきことができないかできにくいという「どもりという障害」の性質を考えるときに、まじめに努力しようとしている人ほどそのこころは腐りやすく、生きる力をなえさせます。
*「下手な治す努力」は、吃音者をかえって落ち込ませます。戦後(一部は戦前から)から90年代前半くらいまで連綿と続いてきた民間の無資格どもり矯正所で行われていた方法などはその良い例です。どもり矯正所はそこでの訓練よりも、同じ悩みを持った多くの仲間と出会えて語り合えるという意味で「結果的にですが」大きな意味がありました。しかし、費用が高すぎるのと、そこで治った良くなったと称する一部の人がサクラ的に介在して、高い費用を払って遠方からきた悩める吃音者の多くを結果的に落胆させてしまったという大きな問題点がありました。(どもり矯正所の功罪については何回か書いています。)いまでは、同じ悩みを持った人と出会えるのはどもりのセルフヘルプグループがその役割を果たしています。

 こんな環境のなかで我々吃音者ができることは、いつも書いていることですが。
★まずは、セルフヘルプグループなどを利用して、どもりについてなんでも話し合える、自分のことを話せる友人を作ること。そして、必要に応じて彼らとグループを作りいろいろと動いてみること。

★自分の心の危機管理のために、自分のことを話せるホームドクター的な精神科医や臨床心理士を見つけて日常的にカウンセリングを受けること。

★家庭や学校・職場の人間関係に問題がある場合(どもりによるいじめ、からかい、パワハラ)は、年齢や立場に応じて、児童相談所、公的な相談の電話、弁護士会、法テラス、役所のソーシャルワーカーなどを利用して問題の解決を図ること。

 少しづつで良いので良い方向に向かうようにがんばっていきましょう。

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