「吃音をあきらめる」は20世紀の考え方か?(再掲載一部改編:初掲載は2008年11月24日)

 自分の意見を言いはじめても、つっかえて言葉がなかなか出てこないのでやめてしまう。(タイムアウトとなり、やめさせられてしまう)、
 言おうとしても、どもることが予期されるので怖くてやめる、など、
どもりを持つ人は、言いたいことがありながらも現実は言えない状況に数限りなく遭遇しているはずです。

 蛮勇をふるってしゃべったときに大きくどもって皆から笑われた、からかわれたというような経験を重ねると心がなえてしまいます。

 子供のころよりこのような経験ばかりしていると、
「自分の意見はあるが、どもるのがいやであえて言わない」、
から、次第に、
「どうせ言えないのだから考えることすらしない・・・」というような心境に陥ってしまうかもしれません。

 声に出して話す、ということは、人間が心のなかにある想いや考えを表現する手段として極めて重要なものです。
 それに大きな障害があることは、感受性が強く心のなかに多くの言葉や想いを持っている人ほど、苦しむのではないでしょうか?

 確かに、文章で表現したり歌で表現することもできます。言葉が不自由な面があるので、その分、より良いものができるかのしれません。
 しかし、詩人でも作家でもない凡人は、日常生活や仕事のなかで、せめて人並に話せるようになりたいし、電話をかけられるようになりたいと思うのは当たり前のことです。

 この「普通」「人並み」などという感情は、人間の根底をなしている感情で、無理に否定してみても自分を苦しませるだけです。
 ですから、誰かに「どもる今の自分のままでいよう、治すことはあきらめよう」と提案されたとしても、にわかには「そうですね」と受け入れることはできないでしょう。

 表面的にはともかく、心の底では簡単に受け入れられるものではありません。
 特に、高校生くらいまでの子供の場合は、同じ年齢のクラスメイトのなかでの競争環境に置かれながらの毎日であることもあり、
「授業中の発言が常にどもって上手くしゃべれない状況や、クラスメイトと話が円滑にできない状況」が子供に与え続けるストレスと劣等感は筆舌に尽くしがたいものがあります。(四十歳代になった今でもたまに夢にでてきます。)

 どもることを「あきらめる」という境地。
 言葉では表現できないような数々の苦労の末に、また、ある程度の年齢になって、力ずくであきらめさせられてはじめて「諦観」の境地に達するのでしょう。
 その副産物として、心のなかや体に入っている余計な力が抜けて、どもりが大幅に改善されたり、治る?こともあるのかもしれません。(私の場合は改善されました)

 このあたりのことで・・・、 どもりの症状は人ごとに違うし、本人を取り囲む精神的・経済的な環境も大きく違うし、また、どもりに対する考え方にも個人差があるために、「どもる」という同じ悩みを持っていながらも不要な対立を作りだしているのかもしれません。

 しかし、いままで書いてきたことは、相変わらずの20世紀までの考え方です。
 21世紀に入ったのですから、脳の研究を踏まえたうえでの何十年後を見据えた総合的な研究が必要です。
 また、いま現実に困っている人を少しでも楽にするための社会的なバックアップや対症療法的なリハビリの研究も必要でしょう。

 いまの30歳代以上の吃音者が経験してきたようなどもりであることが故の苦労をこれからの人たちに経験させてはいけません。
 それが進歩というものだと思います。それらの努力は決して諦めてはいけません。

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