日常生活に支障が出るくらいの「ある程度より重い吃音を持っていること」は、人生を「自分らしく生きる」のを妨げるのか(再掲載:初掲載は2010年10月)

 子供の頃より日常生活に明らかな支障が出るくらいのある程度以上の重さのどもりを持ち、その過半数以上が自然治癒する(とされている?)という就学前までには治らず、思春期以降にどもりを持ち越した場合は、どもりが「自分らしく生きること」をどれくらい妨げるのでしょうか?
*言葉で自分らしくと言うのは簡単ですが、実際にそう生きるのは難しい。そもそも、自分らしくとはどんな生き方でしょうか?難しいですね。

 自分らしくとは・・・
 吃音者で考えると、その人がどもりでなかったら(どもりが治ったら)本来生きられるであろう人生にすることなのでしょうか?
 それとも、今のまま、つまりどもっている今のままで生きていくことを言うのでしょうか?考えてしまいます。

 でも、今回は、
「何とかして治したいと試行錯誤する」生き方も、
「今の(どもりのまま)まま生きていく」という生き方も、どちらも「自分らしい生き方」と考えることとします。

 なぜならば「自分らしく」は、他人から与えられるものではないからです。
  自分で納得した生き方(つまり自分の心の奥底の声にしたがうこと)をしないと「自分らしく」なんてあり得ませんね。
*自分の心のなかの声に大きく反するような生き方をしていると心が悲鳴をあげはじめて(心の病気)、最後には体にも影響が出てきます(体の病気)。

 また、毎日を生きていくなかで、どもりながらでも仕事や学校生活がうまくいったときや、今日は比較的すらすらと言えたな、というときには・・・
「どもりを受け入れて自分らしく生きていく」という考え方を受け入れることをできるかもしれませんが、
 同じその人が、次の日にどもりを原因として仕事上で大失敗したりすると、
「なんとかしてでも治せればな・・・」という感情がふつふつとわき出てきます。

 どちらも自分らしい感情の吐露で、自分らしい生き方といえるでしょう。

 その「自分らしく」に影響を与えるのがどもりの重さです。

 多くの場合どもりは2歳~3歳の頃に始まります。
ですから、どもりの人は、ものごころついたときから吃音者なのですが、同じ吃音者でも軽い人と重い人ではどもりが人生に与える影響がまったく違います。

★あらゆる場所で発する言葉がことごとくどもるような場合
★教室内やオフィスのなかで電話をする場合や交渉する場合に勉強や仕事に影響が出るくらいに はっきりとどもる
★オフィスで電話をするときや大勢の前で発表をするときにちょっとどもるくらい(それでも、自分としては、かなりストレスが蓄積され る)
 か、
そして、「もっと軽い」場合も含めて、実にいろいろなどもりの重さや症状があるものです。

 単純に考えてみても、どもりは重ければ重いほどたいへんですね・・・
*その重さは客観的な症状の重さのほかに、第三者から見て軽いものでも、自分でそのどもりを必要以上に重くとらえて悩んでうつ状態になっているような重さもあります。これも深刻です。

 学生時代には、自分の名前を言ったり授業中の発表はもちろん、「はい」という出席の返事をしたりすることすら大きな負担になります。(私もそういう時期がありました)
★また、先生に指名されたときに、答えがわかっているのにもかかわらず、どもるという恐怖心や恥ずかしさから「わかりません」で逃げてしまう
★先生に指名されないように目をあわさないようにしている、
 などなど、学校でのイヤな、本当は忘れたいけどトラウマになっていて忘れられない出来事はいくらでもあります。

 こんなある程度以上の重さのどもりが、日常生活や学校生活、職場での仕事に具体的な悪影響を与え続けると、自分らしくなどという人生の哲学的なテーマのまえに、「毎日を前向きに生きていこう」とがんばっている人の気持ちを萎(な)えさせてしまいます。

 それでも、学生時代は吃音から逃げることができます。
*もちろんその重さの違いにより事情は大きく異なりますが・・・

 就職の時期を迎えると、電話連絡、面接など、子供の頃からいままでひたすら逃げてきたことが日常的に繰り返されるようになるのです。

 私は、それが怖くて一時、人生から逃げ出しましたが、 今(40歳代後半)の時点で、その頃(就職の時期)は自分らしく生きていたのか?と考えてみました。

 たぶん、自分らしくというよりも、目の前の問題をどう乗り切るか、ということで必死だったのでしょう。
 どもらない、「普通の」クラスメートは、当たり前ですが一生懸命に就職活動をしている。しかし、自分はできない(今思えば、逃げていてしなかった)といいうことの焦り、敗北感は半端ではありませんでした。

 今の時点だから思えることかもしれませんが、「いたたまれなくなり現実から逃げてしまう自分もまた本当の自分」だったと思いますし、これから先もそういうことはあって良いと思います。

 いままで書いてきたような吃音者の複雑な感情を感じることできる感性が、吃音児や吃音者の家族はもちろん、対応する専門家といわれる人には必要と思われますが、たいへん難しいことです。

*どもりで悩んでいる人(こどもから大人まで)が歯医者にかかるように気軽に通うことができるどもりに精通した言語聴覚士がいる言語クリニックや、こころの相談に行けるこれもどもりに通じた精神科医や臨床心理士が街なかにあれば、
そしてそのスタッフは言語聴覚士、精神科医、臨床心理士などがチームを組んで、継続的にカウンセリングが受けられ必要に応じて言語的な訓練を受けられるようなシステムがあれば、事態は大きく変わることでしょう。(決して実現不可能な夢のような話しではありません。)

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