時代の変化を考えて吃音が人生に与える影響を評価し直すこと(再掲載一部改編:2010年9月20日:原題「吃音が人生に与える影響を過大評価しない、過小評価もしない」)

 ひとくちに「どもり」といっても、ごく軽いものから、人生(進学、就職、結婚など)に大きく影響を及ぼす重いものまで実にいろいろです。

 どもらない人の日常のなかではどもりについてはほとんど語られることはないでしょうが、それでも、ごくまれに語られるときは・・・、
「わたしの家族(友人)のどもりは子供の頃からありかなり心配していましたが、いまではすっかりよくなり社会で活躍しています」というような感じでしょうか。

 一方、吃音者本人が、吃音者の集まりではない一般の方の前で、「私のどもりは大人になっても治らず、学生時代も就職のときも大変な苦労をし、ようやく就職した会社でもどもりのために長続きせず・・・」
というようなことを語ることは、いままでは(インターネットが発達するまでは)ほとんどなかったでしょう。

 どもりのセルフヘルプグループの仲間うちにおいても、場合によっては、「努力の末に治って活躍していると主張する方」や、「どもりながらでも社会でしっかりと生きていると主張する方」の声が(結果的に)大きくなり、
「どもりのために人生をさまよっている最中(いま、悩んでいて困っている)の人が、揺れ動くナマの気持ちをためらいもなくはき出すのをはばかるような雰囲気」があるかもしれません。

 さて、インターネットが十分に発達した2000年以降は、ブログや掲示板などで、「どもりのために人生を立ち止まらざるを得ないような境遇にある方の正直な気持ち」に容易に接することができるようになってきました。
*私も経験した「うつ病」でも同様ではないでしょうか。「うつは精神科にかかれば治ります」というキャンペーンとは裏腹に、うつを抱えながら(病院から処方される薬に頼って)苦しみながらも家族とローンのために働き続けている方の現実にもふれることが出来ますね。

 このように、比較的簡単に吃音者のナマの気持ちにふれることが出来るようになってきた現在、「どもるということ」を再定義する必要があると思います。
 グローバル化の波をもろに受けて足踏みをしている先進工業国である日本に住む我々にとっては、障害を持っていなくても生きていくのに大変だという現実があり、「ある程度以上の重さのどもりをもっていること」で、どれほど生きづらさが増すのだろうかということをプラクティカルに考えることです。

 世の中の高度なIT化とは裏腹に、「言葉によるコミュニケーション能力」が、就職の際や仕事をしている人間を評価するうえでの尺度としてますます重要になってきているという現実を踏まえたうえで、
「現実の社会のなかで働いて生きていくうえで、どもることの大変さ不便さを評価しなおして」、いろいろな立場でいろいろな人生の時間帯を生きている吃音者(小学校に入る前のこども、小中学生、高校・専門学校・大学生、そして就職、それ以降)をサポートする専門家(公的施設にいる言葉や心の専門家、民間の病院にいる専門家、ソーシャルワーカーなど)が、人生をさまよっている吃音者をしっかりとサポートできるようにする必要があります。
*どもりのセルフヘルプグループについても、時代の変化や社会環境の変化を考慮して根本的に考え直す必要があります。

 新しいシステムを作ったりいままでのシステムを大幅に見直したりするには、現状をシビアに見ることによる「現状の正確な把握」とその後の「大胆な改革」がなりよりも大切ですが、
いまの吃音児や吃音者を取り巻く環境を見る限り、いままでの経験値による「ものごとを決めつけるような考え方」や、「ものごとを大きく変えたくないという硬直した考え方」が吃音者に対するサポートの進展を妨げているような気がしています。

*画面右側にあるカテゴリ分けの「吃音と職業」のところも、よかったら目を通してください。

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