吃音と我が思春期(再掲載一部改編:初掲載は2008年3月24日)

 私が「どもり」の問題を考えるにあたり、考えるテーマがいくつかあります。
「どもりの重い軽い」
「どもりと就職」
「吃音者と自己不一致」
「どもる人の心の病気(うつ病など)」
「どもりの人を取り囲む環境(家庭・学校・職場)の問題」
「民間矯正所と公的機関の抱える問題」
「セルフヘルプグループ」
「吃音と子供、思春期」
 などです。

 今回は、どもりを持っていた自分の思春期を振り返ります。

 3歳くらいからどもりだした私が、自らどもりを意識したのは小学校3年くらいです。
授業中に指名されて立って教科書を音読するのに明らかな問題が出てきたので意識しはじめたことを記憶しています。
*最初の言葉が出てこないタイプ、ブロッキング、のどもりでした。

 家庭内では、どもりを持っている父から、どもるたびに言い直しさせられたり、「ゆっくりしゃべりなさい」と言われ続けたことで、子供心にもかなり傷ついていました。
 家庭の環境は、父と、同居していた祖母(父の実母)の仲がたいへん悪く、毎日のようにけんかをしていたこと(アルコールが入ってからの喧嘩なのでたちが悪い)から、暗い家庭でした。

 このような、どもりのこどもが育つ家庭としては良くない環境下でしたが、小学生時代が70年代前半から半ばという、ちびまる子ちゃんくらいの世代?のために、東京近郊在住の割りには、まだ、ところどころに野球ができるくらいの広場があり、近くには付近の子供が集まる駄菓子屋があるという、戦前から続いてきた日本独自のゆったりとした雰囲気のなかで生きられた最後の世代だったこともあってか、今のように陰湿ないじめに遭うようなことはほとんどありませんでした。
*このあたりが、いまのこどもとの決定的な違いです。

 どもりながらも一緒に遊ぶ友達がいて、
 遊びも部屋の中で遊ぶことよりも広場で野球をしたり駄菓子屋に近所の子供と遊びに行く行くという、子供たちのコミュニティーのなかにいることができたのです。

 時間が過ぎて・・・、
 高校受験の時には私立高校を受験しませんでしたが、それは面接の時にどもってしまうという恐怖心からでした。
しかし、親にも先生にもそんなことは絶対に言えませんでした。
 成績も良かったので、公立一本ということで押し通しました。

 いまでもはっきりと覚えているエピソードがあります。
 当時、最寄りの私鉄の駅が、その鉄道で唯一の自動券売機がない駅でした。
口頭で、「どこどこまで一枚」と言って切符を買わなければならなかったので、受験当日の朝の心配は、試験の心配よりも切符を買えるかどうか?という情けない状況でした。

 高校時代は、今思えば明らかに重症のうつ病か神経症でしたが、精神科や神経科にかかろうなどとは考えもせず(80年前後はまだ精神科にかかるという選択肢は一般になかったように思います)、とにかく、我慢しまくって卒業までこぎ着けました。
 入った高校は進学校でしたが勉強はまったく手につかず、授業中に指名されるのをドキドキして待つだけの毎日を3年間過ごしました。
自殺もせずよく乗り切ったなと思う反面、ぐれていれば違う生き方もできたかもしれないと思うこともあります。

 私にとってさらに悪かったのは、学校で疲れ果てて帰ってきて、ほんとうは癒されるべき場所である家庭では、アルコールが入った父と祖母が毎日のように大声を上げての喧嘩・・・、つらい日々でした。

 こんな状態なのに、学校でも家庭でも明るく振る舞っていました。
 よく、「いじめにあっている子供が突然自殺してしまい、親が全く知らなかった」という報道がありますが、私には子供の気持ちはよくわかります。

 いまの時点で思うことは・・・、
 こころの病気になるまで追い込まれながらも無理をして学校に通うことはせずに、通信制の学校などに通っていれば、あそこまで追い込まれることはなく、受験にも良い結果が出たと思います。
家庭環境が劣悪ならば、公的機関に相談するという方法もあったでしょう。
*いまのお子さんには同じような経験をしてほしくありません。ぜひ、いろいろと工夫してください。

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