吃音:「哲学的な議論」はそろそろやめにして・・・

木漏れ日2私は、大卒後約2年間の引きこもりを経てハローワークで小さな会社の営業職を見つけて就職し、30歳前後のちょっと自信がついた頃に、自慢げにそれを話していたことを思い出しますが、
「自分がどもりを持っていることを覚悟を持って自分なりに受け入れて生きていく」ということ、

それは文章にすると格好いいですし、また、吃音者の会合などで、どもりを持ちながらもそれなりに生きてきた方の力強い話を悩んでいる人が聞くと、会場の雰囲気も影響してその場では感銘を受けるかもしれませんが、
「現実の毎日」を、ある程度以上の重さのどもりを持ちながら生きている人(特に子供)にとっては、こんな話(人生論)は酷かもしれません。

なぜならば、日常生活に支障が出ているようなある程度より重い吃音者が、自分がどもっていることをそれなりに受け入れられるようになるには、子供の頃から、どもりによる耐えがたいような経験を数限りなくして七転八倒をして、その後にそのような境地になるのがほんとうと思うからです。決して誰かに言われて達する境地ではありません。
*就職できなかった方が就職できたり、引きこもっていた方が学校や会社に通えるようになったなど、自分でも良い方向に向かってきていると実感できた時にそんなふうに思える余裕が出てくるのかもしれません。

学校でも、それ以上に職場でも、(どもりが重い場合は日常生活のすべてのシーンで)ある程度以上の重さのどもりを持っていると大きな支障が出てきます。
そのような過酷な毎日を過ごしている人にとっては、「自分がどもりを持っていることを覚悟を持ってこころから受け入れて生きる」ことはなかなかできないでしょう。
多くの場合は、生きていくために仕方なくでも共存していくしかないので結果的にそうなっているだけです。
「自分がどもっていることを受け入れていく」という考え方は、誰かに言われてできるものではなくて、自分のこころのなかで自発的に出てきてはじめて意味をなすものです。

ですから、「どもりを受け入れる」とか、「治そうと努力する」など、吃音者が持つ考え方に優劣をつけるのはやめにして、
★吃音者それぞれのどもりの重さや症状の違い、
★生きている環境(主にどもり出した子供の頃から就職くらいまでの家庭の経済的・精神的環境)の違い、
★性格の違い、
★本人のどもり以外の能力(学力、仕事の能力)の違い
などを考えながら、

ある人はできるだけ軽くなるように努力する、またある人は今のどもっている状態を受け入れながら無理をしないで生きていく・・・などというように、個々のケースごとに現実的な対応をしていけば良いと思います。
*ある程度より重いどもりのために結果的に、(就職できずに経済的に困窮する、性格が結果的に暗くなる、学習意欲が落ちたり授業中の発表が怖くて成績不振、電話や会話が怖かったりうまくできず職場での仕事にも支障が出る)ということも考える必要があります。極めて深刻な問題です。

サポートする側は、できる限り吃音者の今の悩みや直面しているつらい状況をしっかりと見て、いまできる援助を確実にすることにより、結果としてどもりを持って悩んでいる人が深い考えを持ち、どもりを自分なりに人生のなかで位置づけて頑張っていくのを見届けることしかできないのです。

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