吃音者は、結局は、仕事(就職・就業)がうまくいってはじめて、「吃音の受容ができた」「吃音を持ちながらでもなんとかでも生きていける」などと言えるのでは?(定期的に掲載一部改編:初掲載2008年5月)

どもりについては、治す、少しでもよくする、克服する、受容する、どもりを持ちながら生きる・・・など、いろいろな考え方がありますが、吃音者ごとに重さも症状も、そして本人を取り囲む事情も違いますので、それぞれの考え方が尊重されるべきだと思います。

最終的には、「どもりを持つ人がそれぞれの状況に応じて、少しずつでもよいので、仕事という形で社会参加ができてはじめて」それらの言葉が使えるのではないかと思います。

小学校から最終学校卒業までの学生時代は、どんなに苦しくてもどもりで学校をクビにはなりませんね。そもそも親の庇護下にあります。
(もちろん、どもりが原因で、学校で陰湿ないじめを受けたり、引きこもりなどの深刻な状況に陥っている方のことも忘れてはなりません。特に引きこもりについては心配する家族のことがクローズアップされていますが、いちばん苦しんでいるのは本人です。)

しかし、学校を出てから、または、引きこもっている状態から意を決して仕事を探し仕事に就いてからのことを考えると・・・
どもりを持ちながらも仕事を継続的に続けていくことができて(正社員として身分が保障されて)、給与も生活を維持していくのに十分な金額がもらえてはじめて、「仕事に就けた」と自信がついてくるのではないでしょうか。

また、別の考え方として、こういうとらえ方もあるかもしれません。
ある程度以上の重さ(日常会話に支障があるくらい)のどもりを持った状態では、(日本の経済や就職の現状では)、 自活していく、または家族を養うのに十分な給与を得られる仕事に就くことが困難な場合がかなり(ほとんど?)ありますので、その場合には障害者として国による福祉政策としてのサポートが必要です。
*20年以上まえ(1990年代初頭以前)の、「吃音者が苦労して就職してその後頑張って・・・」という話は、いまとなっては昔話でしかありません。それくらい世の中は激変しています。

「就職すること=一人前」、という考えだけがひとり歩きすると、どもりで本当に苦しみもがいている人( たとえば、就職がうまくいかず自信をなくし、でも家族からは責め立てられているような負のスパイラルに陥ったような人)をさらに追い詰めることになります。(私がそうでした)
(どもりを「障害」ときちんと定義して、福祉の枠のなかできちんとしたサポートを受けられるようにしなければければなりません。)

ほんとうは就職活動の前に、または、進学の面接の前に、(虫歯があれば歯医者で治すように)病院のようなところに通ってスッキリと治してから臨めれば楽にきまっていますが、そのようなことは夢のまた夢であることはどもりを持った人ならばわかっていることです。

軽いどもりの人が就職に臨むときの苦しさと、ある程度より重い人が臨むときの苦しさは、(それぞれの人にとってはそれなりに苦しいのかもしれませんが)、やはり天と地ほどの開きがあることも考えないと、どもりの問題を考えるうえで大きな間違いをおかします。

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