吃音の重い軽い

吃音者の会合でよく語られる克服談、(私もかつて得意げにしたことがありますが・・・)
よくあるのは、比較的軽い吃音者が苦労の末就職して活躍している事実を、意識的か無意識にかはともかく、かなりデフォルメして「重いどもりをいかに苦労の末乗り越えて(克服して)就職して現在活躍しているか」と語る場合が多いのです。
*その人が子供の頃からどれくらいの重さのどもりでどんな環境で育ったかは、その場所にいるほぼ全員が知りません。

そのことを非難しようということではなくて、今回書きたいことは、どもりという障害は実につかみどころがないものだということです。
第三者からみた客観的な症状や重さだけでは計り知れないのがどもりなのだと言いたいのです。
そして、それが、どもりの臨床家の吃音者に対する見立てを難しくしているところなのです。
仮に、吃音者を障害者としての認定し障害者手帳を交付するとなった場合にも、見立てを難しくするでしょう。
*いまのところ、どもりの治療法やリハビリ方法の確立は夢の世界ですが、吃音者のどもりの重さを、(第三者から見たとき、そして本人としても)、大きな違和感が出ないように測定する基準を作るべきと考えます。

さて、
親が子供のどもりを心配して、電車に乗って時間をかけて公的機関や病院などにいる専門家のところに連れて行ったとしましょう。
どもりを治してもらおう、相談にのってもらおうと思って行ったところの専門家(言語聴覚士など)が、「私もどもりで苦労しまして・・・」などと顔を歪ませながら、どもりまくりながら話したらどうでしょう。
なあんだ、先生がなおってないのか・・・・となります。
そこで、短い時間で、どもりの意味を哲学的に解説したところで、いま学校で授業中にしゃべれずに悩んでいる、いじめられて困っている子供の心を混乱させるだけかもしれませんし、それ以上に、親はその先生に対して不信感を抱くでしょう。
*仮に週に何回か定期的に長く通えるような施設があり、複数の専門家やスーパーバイザーの指導の下に、どもりについて親子共々時間をかけて話し合ったり遊びながら考えていくような環境を作ることができれば話は別です。良い方向に進むと思います。

吃音の重さということで付け加えるならば、民間の無資格どもり矯正所の問題です。
私が大卒後どもりで就職もできず悩み抜いた末に通った頃の矯正所(80年代末~90年代初め)は、小さな教室のようなところで複数の吃音者が集まって授業を受けるというような形のものでした。(太平洋戦争前から続いていた腹式呼吸やゆっくりしゃべることなどの、伝統的などもり矯正所の最後の頃かもしれません。)
ですから、(矯正所のかなり高い受講料、そしてその内容も問題が大いにありますが)、良い点はただひとつ、いままで出会うことのできなかったどもりを持った仲間と知りあえて語りあうことができ、孤独から解放されることでした。
思春期以降の吃音者に対する公的なサポートが事実上ないなかで、結果的にですが、これで救われた方は多いのではないでしょうか。

しかし、ここでの問題は、治った方・良くなった方の具体的な情報がないか、あったとしても矯正所側の加工された情報なのです。
例えば、矯正所に入る際に「治った実例があれば会いたいので、その人を紹介してください」とお願いしても、断られるか、または、いわるる「サクラ」を連れてきて説明させるでしょう。
そもそも、どもりで悩み抜いた末に、やっとの思いで通いだした吃音者には、矯正所のやり方がおかしいな?と思っても「先生」に意見するような力強さはありません。

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