自分がどもるという現実を真正面から見つめる必要性と、それが出来るように、きちんとしたバックアップ体制が必要ということ

東大寺二月堂からの景色

東大寺二月堂からの景色

どもっている我が子に対して、「たいしたどもりではない」とか「大人になれば治る」と言って慰めることはよくあることで、多くの吃音者が子供の頃から体験していることです。
それでも小学校高学年・中学生になっても治らないどころか、学校の勉強が大変になってきて、また、青春まっただなかこその出来事もあり・・・「どもりの症状と、どもることによる様々な悩み」により、がんじがらめになって大いに悩んでいる方が大勢いることでしょう。
*がんじがらめ=曇りガラスのざらざらした面を爪を立てて引っ掻いている感覚です。

私の場合は、思い返してみると、小学校高学年のころから高校・大学受験、大学を経て就職の頃まで、人生で一番大切な時間帯において、どもりに翻弄されてきたと思います。
(しかし表面的には、たまにしか会わない第三者から見れば、ちょっとどもる程度の、むしろ明るく活発な少年だったと思います。)

しかし、それは(悩みでがんじがらめになっていたことは)、仕方なかったとも思っています。
なぜならば有効な対応策がなかったからです。

高校の授業中、英語や古典の時間に指名されやしないかと、順番がまわってくるのを数えて心の中で震えているような、そしてまわってきてもやはり言葉が出ないでどもってしまうという経験を数限りなく経験してきました。
自らで心を傷つけてうつ状態に持っていくような訓練をしているようなものですね。(いま私が少年で同じ立場におかれたとしても、悩んでいるこどもに対するサポート体制がほとんど変わっていないことが実に悲しいところです。「社会は激変しているのに!」)

私のどもりの症状は、何気ない日常会話でもどもりまくるような重いものではありませんでしたが、家庭環境に明らかな問題がありました。それにより症状や重さ以上に神経症的などもりへと深化してしまったのです。
家庭内がいつも険悪な雰囲気でした。特に父が実の母である祖母と毎日のように些細なことでエンドレスな口けんかをしているような、また、自分がどもりであるにもかかわらず我が子(私のことです)に対して、絶えず、「ゆっくりしゃべれ」とか言い直しをさせるなど、いま思えばどもりを持っている子供にしては最悪の環境だったのです。
*自分のどもりの悩みを聞いてもらおうなどという雰囲気ではありませんでした。

それでは何が必要か(何が必要だったか)ということですが、
どもりを持つ子供、それも日常生活の意思疎通でも支障が出るような重さのどもりをもっているか、かつての私のように、それほど重くなくても家庭環境に問題があるがある場合に、気軽にひとりで相談に行ける公的な専門機関が必要です。

家庭環境が劣悪な場合には、子供が一時的に避難できるようなシェルターが必要です。
自治体が責任を持って預かってくれて、かつ、権限を持った専門官が家庭内に立ち入り、問題を解決すべく親に対して強力に指導する必要があります。

*どもりの問題とは関係なくても、こどもの虐待事件の報道は絶えませんね。ご近所は気づいていて役所に通報しているが対処が遅れたり中途半端なものだったりで、結果的に大きな事件(死亡など)になってからはじめて大騒ぎになる・・・このパターンが延々と続いています。(お役所間の責任のなすりつけが実に醜いですね)
人が足りなければ他の暇な部署の人数を減らしてでも対応すれば良いし、お役所的な人事異動で違う部署から人を持ってくるということはしないで定年までしっかりと関わっていくようにすれば良いわけです。公務員の基本的な意識改革と関係する法律の整備が必要です。

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