吃音の、「言わなければいけないことが言えない、言いにくい」ということ(再掲載:2010年3月)

どもりには、「話すたびに最初の言葉が出ない(出にくい)ようなかなり重いもの」から、「学校や職場で、仕事上の電話、会議や授業中に発表するときなどにどもることが多くなる」ような比較的軽いもの、また、「まわりからはみるとむしろ能弁な人と思われているが、自分の名前など特定の言葉を言うときのみ、いきなり重症のどもりになる」、というようなごく軽い症状まであり実に多様です。

言わなければいけないことが言えない、言うべきとき(時間、場所)になかなか出てこない、大きくどもりながらでないと出てこない、というのがどもりの症状ですが、現実的には「かなりの頻度で破壊的に大きくどもるようでは(一般企業の事務系・営業系の職場)で仕事を遂行する(できる)」ということは考えることができません。

小学校の低学年くらいまでの子供に対しては、「どもっていいんだよ」と、学校でも家庭でも安心してどもらせてあげるべきだと考えますが、大人になり社会に出れば、ある程度以上のことばの流暢性が要求される場所では、その場所に応じた水準以上の話ができることが当たり前のように求められます。
(どもることで職務ににはっきりとした支障がでると、潜在的な能力があるのにもかかわらず仕事ができないと評価される=(結局は仕事ができないということになる)

その「理想と現実のギャップ」を思春期以降にどのように無理なく埋めていくか、できれば吃音者のこころの中で軟着陸させていくかということが、ある程度以上の重い吃音(精神的に重い吃音者も含む)を思春期以降に持ち越した人が人生を大きく踏み外すことなく生きていくために必要になります。

ことあたりのことは、不完全でありながらも存在する小学校(一部中学校)までの公的サポート(言葉の教室)の問題でもあります。
なぜならば、吃音の問題は、実はそれ以降(中学、高校から大学)のほうが深刻になることが多いにもかかわらず、現実には、サポートなしの世界に放り出されてしまうのです。

そのサポートなしの世界では何が起きるかというと、たとえば以下のようなことがあります。
○、家族との軋轢
どもることで悩んでいることが、家庭の中で家族からも「甘えである」と言われることが、吃音者の孤独感を倍加させ、悩みを心理的に重くする。
○、進路を考えるときに、「どもりを持ったままの自分」で人生設計をしていくべきなのか、「将来は治る」と仮定して考えていくべきなのかわからず混乱してしまう。(それに答えてくれる専門家がいない=余計に孤独になる)

結局、どもりで大きく悩んでいるときに、気軽にそして継続的に相談に行けるような経験豊富な専門家が存在しない状況で、ひとりで悩み苦し紛れに民間のどもり矯正所に駆け込むしかないと言う状況が、21世紀に入り10年以上たった今でも延々と続いているのです。
*、もちろんセルフヘルプグループもありますが、どちらかというと、どもりで悩んで試行錯誤した末に駆け込むところで、どもりの「玄人」が通っているところ、敷居が高いというイメージは未だにあります。
ネット時代になったいま。悩んでいる本人や家族が情報を得るために使うツールは圧倒的にインターネットです。悩んでいる人が、WEB上の「治る」という言葉に惹かれて、民間の矯正所に足が向くのは自然なことです。

*、今、世の中では、学生の就職難が言われていて社会問題化していますが、ある程度以上の重いどもりを持った方にとっては(そして、心理的に重いどもりであればあるほど)、かつての高度経済成長やバブル期でさえも、就職難、だったのです。
多くの場合は(私もそうでしたが)、「本当に就職できない」のではなくて、「怖くて就職しない、就職活動に踏み出せない」のですが、それを、ただ「甘え」という言葉でくくってしまってはどもりの本質はまったく見えてきません。

いま、日本中のサラリーマンなどを襲っていて「国民病」とまで言われている「うつ病」の問題も、これと同じ構図です

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