吃音:自己不一致に陥る危険を回避する(2)

京都八坂神社暮色

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前回は「どもりでさえなかったら○○はできるのに」と思うことで、いわゆる「自己不一致」の状態になる危険性から書き始めました。

どんなに自分で哲学的な思考をめぐらせようと前日にどもる仲間で集まって気勢を上げようが、現実は残酷です。

買い物をする際「お客様のお名前を・・・」と聞かれても、しばらくの間出てこない。
最初はきょとんとしている店員はしばらくするとその異常さに気がつき始めます。 そして、こちらが体ををこわばらせながら口を曲げながら絞り出すように名前を言おうとするのを吹き出すのをこらえるようにしてじっと待っています。

それでも、こちらがお客なのだから待っているのが当たり前、と開き直れるようになってくればそれはそれで良いのですが。 (しかし実際には難しいです。多くの方がそのような経験をするたびに劣等感を持つことでしょう。特に子どもの場合は友達から容赦なく笑われることでしょう。)

しかし、仕事の場合は違います。あちらがお客様の場合が多いのです。
オフィスで電話を取ったときに、相手から自分の名前を聞かれても答えられない場合などです。
それでも、話す内容ほとんどどもりまくりならば、相手から「ちゃんと話せる人に変わってください」と言われるかもしれませんし、
「またかけなおします」と切ってしまうかもしれません。
*もしも、そのような状況で毎日働いているとすれば、その職場に居づらくなります。

そんなことにならないようにするには、
つまり、自分の言葉のなめらかさの限界を明らかに超えてしゃべることを要求される仕事に無理をしてまで就くのではなくて、
今の自分の力(言葉のなめらかさ、仕事をする能力)で、大きな無理をすることなく安心して働けるように、自分の力で就職することではないでしょうか?

いわゆる「コネ」で実力以上の職場に入ることは、どもりの問題だけではなくて仕事の実力という面からしても、周りに迷惑をかけることはよくあることですね。
まして、どもりで苦労しながら無理をしてその職場に留まってみても、自分自身を疲れさせてしまいます。回復に長い時間のかかる心の病気になってしまいます。

*私もかつて得意げに語っていた時期がありますが、
「比較的軽い吃音者が努力して、また、大変な苦労をして、仕事や職場に慣れて、結果としてどもりも大幅に改善されて・・・」というストーリーは、その人固有の話(ひとつのケース)として扱うべきです。
あえて厳しい環境にチャレンジしたい人は、周りがどんなに反対してもチャレンジするものです。
そういう人の生き方を例として、「こうしなければいけない」ような雰囲気に持って行くことは、どもりでいま本当に苦しんでいる人をさらに苦しめ追い込んでしまうだけです。

*自分や家族が生きていくために十分なお金を安定的に稼いでいくという観点から考えれば、「大きな会社に入る」ということは、20世紀以上にこの21世紀の日本では必要なことかもしれません。
卒業して最初の就職でどこに入るかが収入に大きく影響する日本の雇用システムでは、80年代、90年代のころよりも、企業側が学生の能力(学力、当然のようにコミュニケーション能力)をはるかに厳しく見て選別していますので、当然のように、ある程度以上の重さのどもりを持った学生には(特に文化系は)厳しい環境となっている現実を考えなければなりません。今回書いてきた「ある程度以上の重さの吃音者が無理をしないで生きることができる(そして生活することができるくらいの収入を安定的に得ることができる仕事」を見つけるのはかなり厳しいと言わざるを得ません。

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