吃音は百人百様、対処法も百通りです。個人の吃音経験は受け継がれません(その1~その3)再掲載一部改編2010年11月

2010年の11月に3回にわたって書いた、「吃音は百人百様、対処法も百通りです。個人の吃音経験は受け継がれません」をまとめて一部改編の上再掲載します。

(その1)
 今回は、
 「どもりは症状も重さも、そして吃音者を取り囲むバックグラウンドも、それぞれ違うので、対処法も百人百様である」ということについて考えます。
 また、「個人の吃音経験は受け継がれない」ということについても触れます。
 それでは、どうしたらよいのか?ということも考えます。

 2~3歳くらいに始まることが多いどもり。 「どもりになって良かった」というような内容をまれにWeb上などで見かけますが、多くの吃音者はそれをただ読んだだけでは疑問や反発を感じるでしょう。

 実は、私にも、「どもりを経験して良かった」思った頃がありました。
私は、子供の頃からどもりに悩みました。小学生3年生の頃から、授業中には先生に指名されないかと常に震えていて、家に帰っても、父が同じどもりなのに厳しく言い直しさせたり怒ったりしていたlこともあり、気が休まる暇がありませんでした。
 それでも、高校まではなんとかがんばって生きていましたが、大卒後にどうしようもなくなり引きこもりました。

 それまでがんばってきたこと、「無理」をすることをこれ以上続けられなくなったのでしょう。「これ以上無理」と深層心理が非常ブレーキをかけたのだと思います。
ぷっつりと糸が切れたように動けなくなりました。

 その後、民間のどもり矯正所になんとか通い出すことが出来て、そこで、同じ悩みを持つ仲間ができて徐々に立ち直り、ハローワークに通いだしてなんとか仕事を見つけ、あえて言葉を使う民間会社の営業職につきました。

 ちょうどその頃でしょうか、
 「いろいろな苦労を経たが、自分の力でやっとここまでたどり着いた。いまでは一人前にスーツを着て毎日通勤電車に揺られて会社に行き、電話をとり働いている、やっと一人前になれた!」
 こんな高揚感からか、「いままでのどもりの経験は自分にとって良い経験だった、良かった」と感じたものです。
*しかし、このブログにもいろいろと書いていますが、社会に出てからが本当のどもりとの戦いになるのです。だって、会社の他の人はどもりではないので、電話など当たり前のようにかけるのですから。(その2に続きます。)

 

吃音は百人百様、対処法も百通りです。吃音経験は受け継がれません(その2)

 なぜ吃音の重さの違いにこだわるのか。
 比較的軽い吃音者は、ある程度まで自分がどもりであることを隠すことができます。
友人間の何気ない会話ではほとんどどもらないか、むしろ饒舌ですらあるかもしれません。
 彼らはどもらない人たちと同じ土俵(職場環境)で仕事ができると思い、言葉を多用する(いわゆる一般の会社の仕事)に無理をしてでも就きます。 就こうとします。
*、厳密に言うと、軽めの吃音者でも、就職の応募から面接まで自力ですることができずに、いわゆる「コネ」での就職する人がいる一方、それよりも重い人でも、自力で応募し面接を受け入社する場合もあります。
このあたりに、吃音者の多様性があり、吃音者に対するサポートやセルフヘルプグループ内での人間関係を複雑にさせている原因があります。

 しかし、比較的軽い吃音者でも、仕事上の会議、電話、リスクを負った交渉ごとなど、ある条件下(多くは仕事上のリスクを負った場合)では、いきなり重いどもりになる場合があります。
 そんなことが続くと、仕事はもちろんのこと、日常生活の簡単な会話にも影響が出るくらいのどもりへと悪化していきます。 いままで問題なく話せていた状況でもどもり始めます。

 「企業」という猛烈な競争社会のなかで、本来の自分の能力がどもることで発揮できないもどかしさから自分で自分を追い詰めていき、症状もますます重くなり、 いままで通用してきたレベルの「言葉を使う仕事の遂行」もおぼつかなくなり、ますます悪い展開になります。
 そんなふうに少しずつ確実に追い詰められていきますが、自分をリカバリーをさせるだけの時間を、現実の社会は与えてくれません。

 一方、かなり重い場合はどうでしょうか。
 どもりが重いと、学校までは卒業できたとしても、現実的には民間企業の一般の職種(事務職・営業職)にはなかなか就くことができません。
 小さな頃からの家の中での会話、学校での会話など、あらゆる場面で大きくどもる経験をし、数限りなくいやな思いをしてきた「圧倒的などもり体験」。
 どもりでない人がそのことを理解できないのはもちろんのこと、軽い吃音者が「自分は苦労した」と思っていても、重い吃音者はそれとは比べものにならないくらいのつらい思いをしていることは間違いありません。

 比較的軽い吃音者は、(あるレベルまでは自分のどもりを隠せるので)、自分はどもりという言語障害を持っていることを人に知られたくないのはもちろんのこと、自分でもそれを認めたくない気持ちが非常に強いようです。
 日常会話では大きくどもらないことが多いかほとんどどもらないので、まわりから、どもりであることを知られていないか、つっかえ気味に話す人くらいにしか思われていないと「自分で」感じています。
 ですから、それ以上に大きくどもることを人に知られたくないし、そういう自分を認めたくありません。
 仕事も、どもらない人と対等か対等以上にやりたいと考えると、「このままでよい」、「どもったままでよい」、という考えにはなりにくいです。
*、これも厳密に言うと、比較的軽いどもりのなかでも「重いほう」のどもりの人は、ある場合や状況下では、「治したい」「がんばりたい」と強く重い、また、ある場状況下では、「どもったままを受け入れて言葉の面で無理のない生き方をした方が良いのではないか」というところを常に行き来する、自我が揺れ動くような安定しない人生となります。

 吃音にまつわる「様々な違い」、これはどもりに限ったことではなくて成人病を例にとって考えてみても同じようなことがあります。
同じ診断名がついていても早期発見ならば命には別状がないことが多いが(早期発見でも助からない場合もあります)、進行すると死ぬか生きるかの話になります。
それでは早期発見の人は皆こころは安らかかというと、必要以上に心配し心の病気になり、人生を悪い方向に進めてしまう人もいるのです。

その3に続きます。

吃音は百人百様、対処法も百通りです。吃音経験は受け継がれません(その3)

 吃音を決めつけないこと

 様々なバックグラウンドをもち、いろいろな症状や重さのどもりを持っている子供から大人に対して相談にのる側、(例えば、セルフヘルプグループの仲間、小中高校の先生、臨床心理士、言語聴覚士)は、決めつけるような話をしてはいけません。
 特に子供に対しては、生き方の選択を迫るような話し方や指導はいけません。

 毎日の学校生活のなかで数限りなくつらい思いをしている彼らが「どもりを治したい」と思うのはごくごく自然です。
 そんな彼らに「どもってもいいよ」と説いたとしても、「もちろん」大人の話はその場ではそれなりの説得力があり「そうかな!」と思い同意するかもしれませんが、 また日々の生活に戻れば、いままでと変わらない毎日の繰り返しです。

 「治したい」という当たり前の気持ちを否定せず大切にしてあげて、つかず離れずの距離で彼らと話せる場所を作り、彼らの悩みをひたすら傾聴する。
そのなかで、場合によっては、治したい軽くしたいという彼らの希望があれば、いまできる限りの言語訓練やカウンセリングをする。
 家庭(多くは親)の態度に問題がある場合には、親に対する指導を強力にすすめる。

 そのような長い時間の流れのなかで、それなりに症状が軽くなってくる子もいれば、いままでと変わらない子もいる。
症状はそのままだが心の面でだいぶ楽になってくる子もいる。
家庭内のいざこざから、かえって悪化する子もいる。いろいろと違いが出てくるでしょう。

 少し長い時間の流れのなかをできるだけ寄り添って、それもしつこくなく彼らが必要とするときにいつでも通える環境にサポートする側がいて見守る。
こんなのが良いのではないでしょうか。
 彼ら自身が自分の生きている環境で彼らなりの答えを出すのを見守り手伝うのです。

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