(比較的軽い)吃音者が本来希望する仕事に就くために、ことばの流暢性を高める工夫をすることと、努力しても希望通りにいかないときに諦めて別の生き方見つけること (その4、まとめ)

「がんばってもできないことがある」ということは、人生をある程度生きてくれば、誰でもいくらでも体験することです。
その仕事につくには、絶対的に能力が不足している。
能力もかなりあり努力もしたが、その仕事の定員は少なく基準に達しなかった。
能力もあるが、会社側の意向に合わせることができない。
いろいろなことがあり得るでしょう。

しかし、吃音を持っている人の場合はちょっと違います。
どもることで、自分の努力の外側にある原因で、何かをあきらめなければいけないということを子供の頃より連続的に経験する(させられる)からです。
(重さの違いにより事情は大きく異なりますが)子供の頃からのどもりによる苦労の連続により、その子本来の良い部分や向上心が削がれて、心が腐ってしまうことも現実には多くあり、私もそういう場面や友人多く見てきました。

平成の時代に入って、というよりも21世紀に入ってしばらくたったいまの日本でも、残念ながら未だに昭和的20世紀的な「あきらめの効用」に頼らざるを得ない現状があります。

子供の頃からどもりで苦労してその苦労の結果「良い意味でのあきらめ」「諦観」に達したから、どもりながらでも自分の人生をそれなりに生きていけるようになったり、
また(あくまでも結果としてですが)どもりが改善され企業等で活躍できるようになる・・・というようなあり方や考え方に頼るしかないのです。
*、2006年12月の書き込みにありますが、当時放映されていた「五木寛之の百事巡礼」のなかで、あきらめるとは仏教用語で「明らかにきわめる」ということということから、私の「あきらめ」について書いています。

子供の頃からどもりによる人には言えないような苦労をして、それでもなんとかしぶとく生き残って、その末に得られた境地「良い意味での諦め」により、余計な肩の力が抜けてそれなりの人生を歩み始める、という「リ・スタート」

しかし、そろそろ、こういうやり方に頼るのではなくて、
子供の頃(どもりはじめ)から、吃音に対する豊富な知識と臨床経験のあるSTが街中にいて、臨床心理士や精神科医とチームを組んで継続的に看てくれるという形にしていきましょう。
日本は先進国なのですから、これくらいのことは当たり前にしていきたいものです。
(保険適用の有料でも良いと思いますので、子供が街中にある歯科医院に気軽に通うように、子供だけで通えるところにきちんとした言語クリニックが必要です。これくらいたいしたことではありません。)

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