重い吃音と軽い吃音を同じ土俵上で考えることの必要性と危険性。(再掲載一部改編:2009年4月)

私のブログのテーマの中心軸をなしているもののなかに、
「どもりの重い軽い」と「自己同一性」というものがあります。

「重さ」には、「第三者からみてはっきりとわかる客観的な症状の重さ」と、「客観的な症状はそれほど重くないのに、自分のどもりを心のなかで過大に評価してしまい、悩んだ末に鬱や引きこもりになるようなもの」が考えられます。

「自己同一性」の問題とは、どもることを自分のなかで現実として受け入れられずに、「治った自分が本当の自分だ」とか、「どもらない自分が本当の自分だ」ということに固執してしまい、現実(日常生活)がおろそかになって、学業や仕事に影響が出る場合です。

今回のテーマ「重いどもりと軽いどもりを同じ土俵上で考えることの必要性と危険性」には、上の二つの要素が複雑に絡んでいます。

「重い」、「軽い」と簡単にいますが、実に複雑な背景があります。

○、客観症状が重く、家族や同級生、先生、同僚などの理解が得られず心理的にも孤立感が大きい場合。
○、客観症状は重いが、家族など周りの人の理解が得られていて、のびのびと「どもれている」場合。(実際にはきわめて少数派「ほとんどいない」でしょう。)
○、客観症状は軽いが、家族など周りの理解が得られず心理的にも孤立感が大きく、自ら心理的に追い込んでしまうような場合
○、客観症状が軽く、家族など周りにいる人も理解があり協力的である。(実際には客観症状が軽い場合には家族は無関心のことがほとんどですね。「重くても無関心も多いです」)

わかりやすく単純に場合分けをしましたが、実際はどもりの人の数だけケースがあると思います。

◎、重いどもりと軽いどもりを同じ土俵上で考えることの必要性
吃音者が自らのどもりを考えるときに、自分のどもりの問題だけではなくて他人のケースを広く知ることにより、自分のどもりを客観的にとらえられるようになる可能性が大きくなります。
他人を知るということは、自分をより深く知るために重要なことであるということは人生一般に言えます。

◎、重いどもりと軽いどもりを同じ土俵上で考えることの危険性
自我が確立していない子供や、思春期後期以降でもどもりの悩みから心が乱れている場合は、他人や親や先生などの意見に過度に影響されてしまうことが多いようです。
そのような状況で重い人も軽い人も同じように「どもり」という大きな枠でくくってしまい、どもったまっまで良い、とか、治すべきだ、などという議論をしたり、どもりについての勉強会を行ったりやカウンセリングを受けたりすると、本来は良い方向に行くことを目的に行われているそれらのことで、かえって吃音者の心を大きく傷つけてしまうこともあり得ます。

症状が軽い人で、適切な言語訓練をや心理的なカウンセリングを行うことにより、いま勤めている職場により適応することが結果として本人の幸せにつながるのならば、治そう・軽くしようとすることを否定する理由はどこにもありませんし、
重い症状の人に、あえて同じような言語訓練やカウンセリングを課すことは(本人があえて望むならば別ですが)苦痛でしかないかもしれません。
心理的に苦しめて症状そのものにも悪影響が出るでしょう。

近い将来には、是非、今までのような思い込みや個人の経験値のみでのアドバイスなどにならないように、また、「様子を見ましょう」としか言えないような名前だけの専門家にもならないように、「子供から大人までのどもりの知識をしっかりと持った臨床経験豊富なプロ(STや臨床心理士)」の育成が必要となります。

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