吃音者の人生が「結果的に良い方向に進むための」心のバランスの取り方(再掲載改編:初掲載2009年4月)

このブログで取り上げているテーマのひとつに、「どもりの重さの違い」があります。

たとえば仕事をしているときに、「短い時間のなかでてきぱきと話し合い、必要に応じて電話で連絡をとる」というような、あたりまえのことをあたりまえにすることの重要性と、それができないかできにくい「どもりの人」が抱えるジレンマについて考えてみます。

どもりで悩んでいる人を元気づけるために、「どもっても良いじゃないか」ということがよく言われます。私も子供の頃よりそういう言葉で慰められたことがあります。
もしも今、どもりで悩んでいる人が目の前にいれば、同じような言葉で元気づけるかもしれません。

それはそうなのですが・・・・・・・・
どもりで悩んでいる人が真剣に仕事を探している場合に、
「どもっていても良いじゃないか」などと言ってしまっていいのか?ということになるのです。
それが、責任あるアドバイスなのか、ということなのです。

「どもっていても良いじゃないか」と、今、困っている人を勇気づけることは良いことだと思います、
しかし、やさしい言葉に癒やされたり勇気づけられたその人も、その場を離れると、すぐ現実の世界に放り出されることになります。
仕事を探すには、電話もかける必要があるし、面接も受けなければなりません。

人間には、働いて生きていくためのお金を得る、という宿命があります。
*、心身の障害が重く、どうしても生きていくために十分なお金を得る仕事に就けない場合には、国や自治体が公的な援助することが必要です。社会福祉ですね。
*、今という時代、障害がなくても様々な理由から働き場所が得られず、不本意にも長い間失業状態に身を置いている方がどれだけ多いことか。 多くは政治の責任でしょうしその政治家を選んでいるのは我々です。

仕事を探していても「どもり」のために面接で落とされ続けたり、やっと入った会社では電話の応対や社内の会話などで心がぼろぼろになり、どうにかなってしまいそうな方に「どもっても良いじゃないか」とは言い難いのです。

どもりを持った状態で仕事に就いた場合に、ある人にとっては、そこでのことばの苦労が「結果として」吃音を軽くするための大きなステップとなり得ますが(私の場合がそうでした)、
逆に、仕事上でことばの苦労をすることによりかえって重くなったり、大きな失敗をしたりいじめを受けたりすることにより、「自分は社会では通用しないのだ!必要のない人間なのだ!」と自己不信に陥る場合もあるのです。
「生きるためのお金を稼いで、健康で文化的な生活を作り上げていくということ」と、
「どもりを自分のなかでどうとらえるかという心のなかの問題」は別次元の問題なのですが・・・
この両者をどのようにバランスさせて「結果として」自分なりの幸せをつかむか!ということが大切だと思います。

この「心のバランス」をとる手伝いをしてくれるような専門家(どもりについて高度に訓練され臨床経験豊富な言語聴覚士や臨床心理士、精神科医など)が身近にいてくれて、学校や会社の帰りに気軽に寄れる、また、引きこもりになった吃音者が相談できる体制を作っていかなくてはなりません。

それが、どもりでさんざん苦労した、ちょっと前を生きてきた人間である我々が後世に残す遺産だと思うのです。

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