吃音と現実感覚

奈良の釜飯やさんで

奈良の釜飯やさんで

(ある程度より重い)どもりを持った方が、学校で困ったり職場で悩んだり家族の理解が得られず悩んだりした末に自分で判断して、精神科医などの心の病気の専門家に相談する、ネットで調べたセルフヘルプグループに参加する、治りますと謳う民間の無資格矯正所のようなものに通うなどの行動に出ます。

しかし、それらの専門家や施設・グループに通ってみても、もうひとつしっくりとこない。
「どもりはこんなもんじゃないぞ」、
「こんな対応方法ならば自分でやったほうがまし」、
「もっと現実的に対処してほしい」などと思うかもしれません。
*、そのあたりの吃音者の感情をうまく利用したような、ネット上で見受けられる怪しげな宣伝も多くあり、残念ながらだまされる方も多いようですね。
かつて(90年代前半くらいまでの)の、電信柱や週刊誌や漫画雑誌などに小さく載っていた広告につられて、大金をはたいて通ってはみたけれど・・・・というのと同じようなものです。

結果として、その医者に通うのをやめるか、セルフヘルプグループから次第に足が遠のくということになりますが、
これは自分の持っている「どもりに対する現実感覚」と「その専門家やグループの持っている感覚」がかい離しているからではないかと思います。

その背景には、悩んでいる方のどもりの症状の重さの違いや置かれた環境(精神的、経済的)の違いがあるのではないかとも思います。

たとえば、かつての私のように、
就職を考えるくらいの年齢になった時点でのどもりが、日常の何気ない会話でも常にどもってしまうような重症ではなくても就職できずに悩んでいる場合。
または、いままで勤めていた職場を辞めたが次の仕事がなかなかみつからない場合で、「なんとかしたい」と思っていた場合、

そんな状況から徐々に追い詰められて、医者やカウンセラー、セルフヘルプグループなどに、いざ、通ってみると、
簡単な形だけのカウンセリングと投薬のみ(日本の精神科医療の問題点です)
文化人を呼んでのセミナーのようなことをしている、
「少しでも軽くしたい、できれば治したい」と思って来たのに、「いまのままで良い」とか話し合っている。

みんなここに何年も通っているはずなのに自分よりも遙かに重い症状だし、ちゃんとした仕事に就いていないか、ことばをあまり使わなくてもいいような仕事にしか就いていない人が多い。

「なあんだ、こんなもんなのか・・・」、ここでがっかりですね。
*、これがどもらない人たちの世界での話でしたらクレームものですね。
医者やカウンセラーだったら「カネ返せ」という話に、グループだったら「悪 たれついて出ていって」しまうかもしれません。

逆の感情もあるでしょう。重いどもりの人から見れば、
なんで、この人はこんなに軽いどもりなのに、何を悩んでいるのだろう。
だいたい、すらすらしゃべっているじゃないの!、どこがどもりなの?

この背景には、重さや症状の違いがあり、それぞれの吃音者が置かれた精神的経済的環境の違いがあります。
同じくらいの重さのどもりを持っていても、家庭が裕福で学校を出てからも比較的楽なバイトをする、専門学校に行ったり大学院に進学して時間を稼ぐ、または多少ぶらぶらしていても許されるような環境と、
「どもりくらいで甘えるんじゃない」ということで、無理矢理でも就職させられて、毎日を針のむしろのように感じられる職場で過ごしている場合とでは、その人の持っている吃音に対する現実感覚が全く違います。

また、学歴も能力も十分にあるのに、重いどもりのためにその能力が生かせる仕事に就くことができない方と、
比較的軽いどもりなのに、なかなか仕事に就けなかったり(就かなかったり)、どの音がいいにくいとか言っている場合も、どもりに対する現実感覚や切迫感が違います。
*、どちらが、より苦しんでいるのか?というと、これがなんとも言えないのが「どもり」という障害の特殊なところです。一般の方に理解されにくく、結果として本格的な対策がなされない理由です。

これらは、どちらが良いか悪いか、などということではなくて「違う」ということなのです。

この違いを冷静に見つめて、
自分はこれくらいの重さでこういう境遇で生きているので、こんなふうに感じるけれど、この前グループの集まりに来たあの人は、第三者から見たどもりの重さは私と同じくらいだけど全然違う考え方をしていたな、と感じることは大切なことと思います。

私より軽いどもりのはずのあの人が、なんであれほど深く悩んで仕事にも就けずに落ち込んでいるのだろう・・・・と考えてみることの必要性とでも言うのでしょうか。

こういうことがフランクに話し合えるグループ活動ならば、様々な立場の方がお互いに刺激を受けて得るものは大きいと思いますし、いろいろと発展的な話になると思いますが、
現実には、「自分のやり方で良くなってきたと思っている、自称元重症の吃音者」が、他のメンバーに、(結果的に=悪気はなくても)お節介となってしまうような自分のいままでの生き方やどもりに対する対処方法をくどいほどに話すということがあり、人間らしいと言えばそうですが、グループ活動としては残念な結果になってしまうことがあるのです。

または、
学生や一般企業に勤めている比較的軽いどもりを持っている方で、もう少し流暢に話せるようになれば皆と同じくらいに活躍できるのにという想いが募る。(世の中は競争社会ですから、生き残るのはたいへんです。)、
何気ない会話ではほとんどどもらないのだが、仕事になると影響が出るくらいにどもってしまう(つまり、会社にいられなくなる可能性があるということ)、という他人にはなかなか理解してもらえないような大きなストレスを抱えている場合においては、「どもってもい」「いまのままで良い」という考え方だけでは何の助けにもなりません。
こんな場合には、そういう考え方だけにとらわれているグループに参加したとしてもストレスばかりがたまるでしょう。
これも、現実感覚のずれですね。

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