吃音は、合理的に(治したり、軽くしたり、受け入れたり)できるのか?(再掲載一部改編2009年2月)

*、年末の大掃除のため再掲載バージョンですみません・・・

 あるTV番組で評論家が、大不況と派遣切りなどの問題に関して、
「今の経営者はビジネススクール的発想でものを考えすぎているのではないか。つまり帳簿上の帳尻合わせのために引き算することしか考えなくなってしまったのでは」という発言がありました。

 私は、もしもいま、松下幸之助、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎、土光敏夫などが生きていたら、この厳しい状況下でどのような対策をとるかみたいです。

 21世紀に入り、より良い世界になるどころか、戦争やテロの頻発、今回のような世界中を恐怖のどん底に落とし入れる経済の大混乱などを見ると、欧米的な理論に基づいた合理的な発想や方法論の限界が見えてきたのではないかと思うのです。
 そして、同じようなことが経済以外の場面で言えるのではないかと思いました。

欧米的合理性の限界、
 今回の大不況で、アメリカ発の金融工学なるものをもとにしたマネーゲームがいかにインチキであったかは証明されましたが、
経済問題ではなくて、このブログのテーマの「どもり」のように心理的な要素が大きい問題の場合はどうなのかと考えます。(もっとも経済も心理的な要素が大きいともいわれていますね。)

 どもりで悩んでいる方が各種の「心理療法」といわれるものを受けることにより症状を軽減させたり合理的にどもりを受け入れやすくなったりすることはできるのでしょうか?

 そもそも、今の日本で心理療法を行なっている方々は必要にして十分な学識と臨床経験を有した方なのでしょうか?
 日本には「臨床心理士」という資格がありますが、これがいちばん「信用されている」資格です。指定された大学院を卒業後資格試験を受けるなど厳しい条件が課されています。しかしこれとて国家資格ではなく学会ベースの民間資格です。
(国家資格されない背景には患者不在のどろどろしたものがあるようです。興味のある方はネットで調べてください)
そのほかにもいろいろな民間資格がありますが、資格など一切持っていなくてもカウンセラーと名乗ることはできます。

 一方、もと暴走族、元引きこもり、など、かつては自分がその問題を抱えていた方がその後立ち直ってその分野のカウンセラーになって活躍されている場合もあります。
 当事者であった彼らのアドバイスは、今、同じ悩みで悩んでいるクライアントの心にダイレクトに届くことがあり、大きな成果を上げることもあります。
 大学や大学院を経て資格を取ったような方との「人間的なスケールや人生経験」の違いは決定的でしょう。
*、もちろん弊害がある場合もあります。所詮素人ですから・・・

 病気、例えば癌にかかったときには、余程ひねくれ者でない限りはできるだけ評判のよい癌の専門医(いわゆる有名病院)を捜しますね。
 町の小さな病院よりも確実に生き残る確率が高まるからです。
 病気を治せるのは国家資格者である「医師」だけであり、その医師のなかでも良い医師とそうでない医師がいるということもわかっています。

 どもりの場合には、事実上、街中に専門の医師が存在しません。
これは、医師がサボっているということではなくて、薬を処方するわけでもなく手術をするわけでもないどもりの特質(病院の経営から考えて儲からないどころかお荷物になる)
まして、原因も治療法も確立していないわけですから、専門のカウンセラーやSTをおいたとしても、治療やカウンセリングに非常な長期間を要し、治療の効果もはっきりせず、保険の点数も低い、では、医療の現場で扱うはずがありません。
(どもりで悩んで心の病気になりそうだ・・ということで精神科にかかることはできますが、その精神科とて、どもりに関する知識は驚くほど少ないのが実態です。)

 さて、合理性との問題ですが、日常生活に支障が出ているようなある程度以上より重い吃音児が、相談するべき専門家が身近に見つからないか、恥ずかしいので相談することをためらっているうちに成長し思春期以降まできてしまった場合です。
 こんな場合には相当大きなトラウマを抱えている場合が多いようです。

 それはそうですね、小さな頃よりどもるたびに笑われたり、家に帰っても家族にも悩みをわかってもらえないという生活を続けていれば、どもりの悩みを超えて生きているのがいやになってきます。
 そのようなケースに対して(理論的には正しいとしても)中途半端な回数と、中途半端な質のカウンセリングを行なっても効果はきわめて限定的でしょう。
 もしかしたら、クライアントの心に無用な混乱を招くだけかもしれません。

 それでは、子供の頃より、心理療法を受けていれば良いかどうか?
小学校から大学まで、と、就職後(社会人)、という大きな違いを考えると、難しいところです。

 学生時代までと社会人以降の大きな違いは「生きるために働くこと(金を稼ぐこと)」です。
 本人が意図しようとしまいと、職場で「必要とされる人間」になり、「それなり以上の成果」を上げないと淘汰されてしまう(お金を稼げず死んでしまう)という現実に向き合うこととなります。
 つまり、どもりでない人と同じように電話ができ交渉ができないと仕事の成績に差が出てきてしまうということです。
(どもりながらでも、結果的にどもりでない人と同じかそれ以上の成果を残せれば、また、しゃべるのは苦手だがほかの人にできないような卓越した能力や技術があれば全く問題はないのが大人の社会です。)

 こんな現実が、子供のころに受けてきた、たとえば「どもってもよい」という価値観と大きな齟齬を生む場合があるのではないか?

 昭和30年代前半くらいまでのかつての日本には、今で言う「セーフティーネット」が社会のなかに内在されていたようです。(私はこの世にいませんでしたが)
 都市といっても今ほどの規模ではなくて近くにも農村があり、国民の多くがサラリーマンということではなくて、個人商店も多く、町にはパン屋さんも魚屋さんもありましたね。
 どもりの人が無理してサラリーマンのまねをしなくても生きていける社会がありました。

 何万人にひとりの割合で輩出するような優秀な人は別にして、我々普通の人間は何かに失敗し痛い思いをしてはじめて自分の今までの生き方の間違いに気づき対処します。
 どもることは個人の生き方に起因する間違いではありませんが、どもることを原因として、学業や仕事日常生活などに大きな影響が出てきた時点ではじめて具体的に動き出すというのが本当のところでしょう。

 親の側で考えると、子供は親の前ではどもりの悩みをなかなか打ち明けたりしませんし、どもっているところできるだけ隠しますから、我が子がどもっている実態をなかなか把握できません。
 そのタイムラグが原因で、親が気がついたときには引きこもりになったりいじめられている場合が多いのかもしれません。
(自分の忙しさを理由として、我が子のどもりに対して無関心な場合もあるでしょう。そんな親ほど我が子が引きこもるとパニックになるのではないでしょうか?)

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