「吃音を持ちながら現実を生きる」ということ(再掲載、改編:2006年8月)

 どもりを持ちながら生きていくということ・・・
 どもりの人たちの会合でそれぞれの経験を発表する場合などに、よく、「感動的な苦労話」が語られます。
*、ときには、「これは明らかな嘘や作りすぎだな」とわかってしまう程デフォルメされた話や必要以上に説教くさいものもありました。それには、どもりで悩んでいた20歳代の私でさえも聞きづらく反発を感じた記憶があります。

 それはともかく、現実に、ある程度以上の重さのどもりで深く悩んでいるときの苦しさには筆舌に尽くしがたいものがあります。
特に、「言い換えることによって回避できる」、「少しは詰まるが大きな破綻がなくしゃべることができる」くらいより重いどもりの場合は毎日が精神的苦痛との戦いです。
*、客観的にみてほとんど気づかないような軽いどもりでも、心理的に苦しんでいる人の存在は承知したうえでの話です。

 さらに、どもりを持つ人の経済的事情の善し悪しも、その人の「どもり問題」に大きな影響を与えます。
 家庭の事情で、家族を支えるためにどうしても自分が働いてある金額以上の収入を継続的に得なければならず、でも、自力では就職できなかったのでコネで入れてもらった会社で働いている場合などです。
 それも、自分としては言葉の問題で精神的にぎりぎりのところで常にがんばらなければならない職場にとどまらざるを得ない場合は大変です。

 現在の民間企業の雇用状況は、
「リストラ」という名前の首切りが日本でも常態化してしまったことから、なんとしても、いまいる職場にしがみついて、無理をしてでもがんばり続けなければならない現実があることも考えなければなりません。

 人生を生きるなかで、なかなか治らないある程度以上の重さのどもりとうまくつきあっていくには、どこかに「余裕」が必要だと考えます。

 それは「時間的な余裕」かもしれません。
 どもりを原因として新卒時の就職に失敗しても、家族を支えるために、仕事を選ばずにすぐにでもフルタイムの仕事に就かなければいけないということではなくて、少ない収入でもアルバイトをしながらでも自分を見つめられる時間を持てるような余裕。

「心の余裕」
 厳しい現実にさらされながらも、どこかに自分の弱音を吐ける場所、や、人がいること。

 これら、どちらかの「余裕」がないと、たぶん「苦しみ」を超えて、「パニック状態」になり、大変なことになります。

 体の不調は一定期間の休養でなおりますが、心を壊してしまうとその回復には非常に長い時間を必要とするのです。
 
 心が疲れ果てている場合には、
「自分はいま疲れ切っていて、このままだと危険な領域に入るということを認識できて、場合によっては自分を守るために大胆な生き方の変更が必要だ」などという柔軟な考えかたができなくなりますので、
こういう場合には心の専門家である精神科医などの援助が必要です。
(親友の優しい言葉も必要ですが、あるレベルを超えるとやはり専門家の助けが必要となります。)
 日本人の苦手な、自分を冷静に見つめる人生の「危機管理」が、どもりの問題においても必要とされます。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中