吃音を客観視する

奈良 白毫寺山門

奈良 白毫寺山門

 *、ひとつ前の書き込みを修正しようとして書き始めましたがまとまった文字になりましたので、書き出しは同じですが違う題名でアップしました。

 さて、ひとくちに「どもり」といっても生活に影響を及ぼさないようなごく軽いものから、人生(進学、就職、結婚など)に大きく影響を及ぼすようなものまで実にいろいろです。

 それだけ幅が広い「どもり」ですから吃音者本人の「自分がどもることの受け取り方」は実に様々で・・・
「なんとか治そうとトライしていく生き方」、「現状を受け入れていこう」とする考え方、「悲観的になり引きこもりがちな生き方」、「場合によっては暴力的になる」など、
(また、最初は治すことにこだわって生きていたが、実社会に出て人生経験を踏んでいくうちにこだわりが少なくなるとともに結果的に症状も軽くなるというような、時間の経過によっても考え方が変わってくることもあります。)
どもりの重さや症状、その人がどもりながら育った家庭環境(精神的な環境、経済的な環境)、学校時代の環境、就職するまでの大変ささのちがい、就職してからの職種の違いや職場の理解度の違いなどによって、「自分の人生のなかでのどもることの評価」が大きく変わってきます。

 どもりの会合などでそのような主観的などもりに対する想いをお互いに述べあったところで、よほど優れた仕切り役がいない限り表面的には活発で有意義な意見交換がされているようでも、それぞれのこころの中でなにか受け入れがたいものが生まれてくる、ちょっと気まずいようなことになることもあるでしょう。(おとなの世界ですから、酒でも入らない限りケンカにはならないでしょうが)
*、それでも、それぞれのメンバーが自分なりに良いように解釈しそれなりに得るところがあればよいのですが、本当に困っている人(追い詰められている人)にはそこまで考える余裕はないでしょう。

 「どもり」を社会問題の「吃音問題」と考えて、
これから生まれてくる子供がどもり出したときに我々がしたような苦労をさせないために、
できれば子供のうちにどもりが治るように、また、治らないまま思春期以降に持ち越したときにも自分らしさをできるだけ失わずに社会のなかで生きていけるように、
 吃音者を取り巻く環境が30年前40年前とほとんどかわらない貧弱な状態なのに、就職や仕事環境は遙かに厳しくなっていることを考えると、なおさら、
いままでのような「結局は自分でなんとかしていくしかない」という自己責任的な方法ではなくて、
公的機関や民間病院にいる言葉やこころの専門家(言語聴覚士、臨床心理士、臨床発達心理士、精神科医などのチーム)が、吃音者(児)を効果的にサポートしていけるように、安心して活躍していただけるように、どのようにしたら良いのかを真剣に考えていく必要があります。

 その場合に必要なことは「どもり問題」を俯瞰することでしょう。
 我々吃音者は苦労しているせいか、どうしても自分の問題としてとらえすぎるので客観視が苦手なようです。
自分のどもり歴やどのように対処してきたかなどの、どもりでない人の前では全く関心をもたれず聞いてもらえないようなことを、うち解けた仲間内の会合などでは、こことばかりにどうしても話したくなるのでしょう。
 そして、自分の(治った、軽くなった、どもりながらでもうまく共存して生きている)経験を、ほとんどの場合は善意から話すのですが、結果として他者への無言の押しつけのようになってしまうことすらあります。
*、どもりのことは経験者でないとわからないとよく言われます。しかし、どもりでない第3者からでないと見えてこないこともあるのではないかということです。

 いま、現に、どもりで悩み困っている人達(自分も含めて)が孤独にならないために集い、人間的にふれあって(場合によってはぶつかり合うかもしれませんがそれも恐れずに)という場(セルフヘルプグループ)は、これからも必要であることはいうまでもありませんが、そういう場所とどもりを社会問題として考える場は違うところにした方が良いと思います。

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