吃音が人生に与える影響を過大評価しない、過小評価もしない

 ひとくちに「どもり」といっても、生活に影響を及ぼさないようなごく軽いものから人生(進学、就職、結婚など)に大きく影響を及ぼすようなものまで実にいろいろあります。

 一般の人(どもらない人)の日常のなかでは、どもりについてはほとんど語られることはないでしょうが、それでもごくまれに語られるときは・・・
「わたしの家族(友人)のどもりは子供の頃からあり、かなり心配していましたが、いまではすっかりよくなり社会で活躍しています」というようなパターンでしょうか。
 一方、吃音者が本人が、吃音者の会合などではない一般の方の前で、「私のどもりは大人になっても治らず、学生時代も就職のときも大変で、苦労の末にようやく就職した会社も長続きせず・・・」というようなことを語ることは(いままでは=インターネットが発達するまでは)ほとんどなかったでしょう。
*、どもりのセルフヘルプグループ内ではどうなのでしょうか? 
どもりのセルフグループといっても、ネットが十分に発達した現在ではごく少人数で構成されたクローズドのグループもあるでしょうしかなり多様化していると思われます。
それらのなかでは、場合によっては、「努力の末に治ったと主張する方」、「どもりながらでも社会でしっかりと生きていると主張する方」の声が(結果的に)大きくなり、どもりのために人生をさまよっている最中の人が、揺れ動くナマの気持ちをためらいもなくはき出すのをはばかるような雰囲気があるかもしれません。

 さて、インターネットが十分に発達した2000年以降は、ブログや掲示板などで、どもりのために人生を立ち止まらざるを得ないような境遇にある方の正直な気持ちに、比較的容易に接することができるようになってきました。
*、私も経験したうつ病でも同様ではないでしょうか。うつは精神科にかかれば治りますというキャンペーンとは裏腹に、うつを抱えながら(病院から処方される薬に頼って)苦しみながらも働き続けている方の現実にもふれることが出来ますね。

 そこで、比較的簡単に吃音者のナマの気持ちにふれることが出来るようになってきた現在、「どもるということ」を再定義してみる必要があるのではないかと思います。

 それは、グローバル化の波をもろに受けて足踏みをしている先進工業国である日本に住む我々にとって、障害を持っていなくても生きていくのに大変だという現実があり、「ある程度以上の重さのどもりをもっていること」で、どれほど生きづらさが増すのだろうかということをプラクティカルに考えることです。

 世の中の高度なIT化とは裏腹に、「言葉によるコミュニケーション能力」が、就職の際や仕事をしている人間を評価するうえでの尺度としてますます重要になってきているという現実を踏まえたうえで、
「現実の社会のなかで働いて生きていくうえで、どもることの大変さ不便さを評価しなおして」、
いろいろな立場でいろいろな人生の時間帯を生きている吃音者(小学校に入る前、小中学生の頃、高校、専門学校、大学の頃、そして就職、それ以降)をサポートする専門家(公的施設にいる言葉や心の専門家、民間の病院にいる専門家など)が、人生をさまよっている吃音者をしっかりとサポートできるようにすることです。

 新しいシステムを作ったりいまのシステムを見直したりするには、現状をきわめて冷静にみつめることによる「現状の正確な把握」がなりよりも大切ですが、
いまの吃音児や吃音者を取り巻く環境を見る限り、いままでの経験値からの決めつけに近いような硬直した考え方が、吃音者に対するサポートの進展を妨げているような気がしています。

*、画面左側、カテゴリ分けの「吃音と職業」のところも、よかったら目を通してください。

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