吃音を「治したい」、それがダメでも「少しでも軽くしたい」と考えることは・・・

 私たちが病気になったときには「治したい」と思い病院に行きます。
また、心身に障害を持ったときに(本人がその障害を自覚できる場合は)、「出来れば治したい」、または、「完全に治せなくても出来るだけよくしたい」とも(多くの場合は)思うでしょう。

 どもりについても同様で、どもることを自覚し、どもることによる不便を感じ始めると・・・「治せないか?」と、本人、家族ともに思います。
 どもりの多くは2歳~3歳くらいに始まりますが、早い場合は幼稚園の頃から、多くは小学校に入る頃に自分がどもりであることを自覚します。
 その「自覚」も、学校で笑われたり、家で家族からどもるたびに注意されるなど、まわりの人からマイナスの評価をされることにより、「どもることがいけないこと、恥ずかしいこと」という感情を持つことにより深化していきます。

 この、どもりを治したい、少しでも良くしたいという吃音者が当たり前のように持つ感情を、第三者が否定してみても、また本人が心の中で無理に否定してみても、決して良い結果を生まないのではないでしょうか?

 子供の頃に「どもり」を自覚し悩みだす。思春期を迎え傷つきながらも人生をなんとか進めていく・・・
その過程には、治そうとして試行錯誤したり、ちょっと良くなったかと思えばまた悪くなる。
(軽いどもりの人の苦労と、重いどもりの人の苦労には比較も出来ないほどの違いがあります。)

 そして、傷つきながら試行錯誤したうえでの境地として(年齢的には社会人になってからくらいでしょうか)、
「いろいろトライしてみたが、これからはあまり治すことだけにこだわらない方が良いな、いままでにはいろいろなことあったが、自分なりの人生を進めていこう」という感情が心の中で醸成されていく場合もあり、これが吃音の克服と言うのかもしれません。
*、この頃には、比較的軽いどもりでしたら(結果としてですが)それなりに(場合によっては大幅に)、どもりの重さが軽減されている場合があるのです。(もちろん、そうならない場合もあります。)

 しかし、このようなモデルは、私や先輩方が経験されてきた「20世紀型モデル」です。
結局、「自分でなんとかしなければならない」と言う自己責任型で、これからのあるべき姿である、公的なサポート、たとえば、どもりに通じている経験豊かな言語聴覚士や臨床心理士の助言が受けられるなどいうことには関係のないものです。
*、この20世紀型モデルも、もはや成り立たなくなっています。最悪の経済情勢とグローバル化により障害がない人が学校を出ても就職できない時代です。限られた市場のなかで生き残るために同業他者がシェアの奪い合いをしています。こんな状況のなかで仕事をする社会人に求められるのは、世の中のIT化とは裏腹に言葉による高度な交渉術なのです。

 さて、なぜ、「どもりを治したい、少しでも良くしたいという吃音者が当たり前に持つ感情を無理に否定してみても良い結果を生まない」と考えるのか?
 それは社会的な存在である人間の生き方にあります。
人の人生は社会生活をすることにより、他者との協力・協働で成り立っているからです。

 たとえば仕事をするにしても(ひとりでもこなせるような職人や小説家などの特殊な場合は別として)、多くの場合は、他者との共同作業により進めていきます。
 それには、他者との円滑なコミュニケーションを保つことが第一です。コミュニケーションの多くは会話により成り立っています。
 たとえば、社内において自分の考えを会議で発表し同意を求め、プロジェクトが進んでいく。
他社に製品やサービスを売り込むために電話をしたり直接訪問し口頭による売り込みを行なうこと・・・
 この仕事などをする上でのきわめて重要なツールである「話すこと」がうまくできないどもりを持つ人(私もそうですが)は、この「どもり」により、社会のなかで生きていくことに苦境に立たされる場合が多いのです。

 学校生活、さらには、就職や仕事に「どもること」がはっきりとした影響を及ぼすくらいの、ある程度以上の重さのどもりを持っている場合は・・・
社会のなかで生きていくうえで、「どもる」ことが人生に与える不都合やマイナス面を自分として率直に認めて、
さらに、自分の才覚(行動力、仕事力、経歴など)も考えながら、プラクティカルに人生を構築していく必要があります。。

 このあたりで21世紀のモデルとして・・・
今までの自己責任主義ではなくて、どもりで困っている(ひきこもり、不登校、就職できない、会社でギリギリでうつ状態)人たちが気軽に公的な(プロフェッショナル)なサポートを受けられる体制が必要になってきます。
*、社会問題となっている「うつ病」にも、同じモデルが使えます。

 そして、自分の心の奥にある「治したい」「軽くしたい」というごく当たり前の感情を無理に否定ししないで、自分の心にこう話しかけて生きていってはどうでしょうか?
「君(自分の心の奥底)のいうことはもっともだ。毎日を生きていくうえで、自分の名前をいうにも、ものの名前をいうにもいちいちどもっていては不便だし、恥ずかしいし、かっこわるいね。でも、僕は生きていかなければならない。精一杯君に抵抗させてもらうよ。でも、君とはケンカばかりするのではなくて、仲良くしながらなんとかうまくやっていこうとも思っている。」

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