吃音の「重さ」は相対的

 いつも書いているように「どもり」の症状や重さは人それぞれです。
本人としては「重いどもり」と思っていても、第三者から見ればほとんど気にならない「軽いどもり」だったり、その逆の場合もあります。
*、子供の場合はともかく、大人の世界では、たとえば職場で○○さんがどもっていようとも、自分に被害(自分の仕事に悪影響がなければ)がなければ、(よほど程度の低い人でない限り)必要以上にからかったり傷つけるようなことは言いません。今の職場では人にかまっているほど余裕はありません。

 今回はどもりの重さの絶対性・相対性について考えます。

 吃音者の集まりで、こちらから見てかなり重いどもりの方が「おかげさまでだいぶ良くなりました」と言っている。
一方、かなり軽いどもりに見える方が深刻な顔をして悩んでいる。
*、同じような重さのどもりを持つ方でも、どのような仕事をされているか(就こうとされているか)によって、どもりが仕事や人生に与える影響は大きく変わります。

 どもりの重さは社会的に言えば相対的なものですが、どもっている本人からすれば絶対的なものです。

(どもらない)第三者からみて、あまり気にならないような軽いどもりでも、本人としては死をも意識するくらいに悩んでいる例はいくらでもあります。
 個人として感じる「どもりの重さ」の背景には、子供の頃どもり出した頃からの家庭環境の違いや、学校でどもりを原因としていじめられたような経験があることは間違いないでしょう。

 そのような複雑な「どもりを持つ人」をサポートする側も気をつけなければなりません。
 吃音者の間でよく言われることに、「吃音経験者がアドバイスしないと本当のところはわからないし、説得力がない」ということがあります。
 これは、言語障害や関連領域を学び、それなりの資格を取った専門家といわれる人が、どもり(特に思春期以降のどもり)にはうまく対応できないことがある(というか、多い)・・・ということの反語なのです。

 ですから、よけいに、「どもりの経験のないものには吃音者の気持ちはわからないだろう。治すこともできないだろう。」という感情がわいてきてしまいます。

 本来、障害や病気に対応するには、治療する側が同じ病気や障害を経験している必要などはありません。
極論すれば、「投薬や手術、リハビリテーションで確実に治せるのならば」どもりを持った人の気持ちなどわからなくても良いですね。
 しかし、確実に治すことの出来ない「どもり」の場合は、専門家と言われる人の吃音者に対する説得力が低いのです。(だって、確実に治せないのですから・・・)
*、これは「専門家」が能力がないとか努力していないということではなくて、吃音は未だに原因がわからず治療法も確立していない現状があり、それ以上にどもりに携わる専門家や専門家になろうとする学生に充分な教育がなされていず、結果として臨床経験(特に思春期以降のどもり)が乏しいために、きちんと対応が出来ないことが多いし、医療保険のシステムや病院の経営という観点からしても「どもり」の治療やカウンセリングに時間を割くことが出来ないという事情もあります。

 今まで書いてきたような状況がここ数年のうちに大きく変わるとは思えません。
 検査により吃音者の脳の機能不全または故障を特定し、手術や投薬によりそれを治す(どもらない状態にする)などということが「夢のまた夢」であることは医師や研究者でなくてもわかります。

 
 吃音者自身で出来ることは、自分のどもりをできるだけ客観的に見られるような工夫をするということです。

 たとえば、多少無理をしてでも、人の波の中に入りどもりながらでもコミュニケーションをとろうとすることもひとつの方法ではあります。
*、事と次第によっては、かえって自信を大きくなくしてしまう危険性があります。

 自分で考えていた自分のどもりのも重さと、第三者から客観的に見た重さの違いを実感することにより、どもりに対する考え方や生き方が変わってくるかもしれません。

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