吃音:無理をすることの是非

 1960年代生まれの私は、高度成長下で、学校には子供も多く教育も詰め込み教育といわれた時代に育ったので、
今の時代の「無理をしない」「がんばらない」という考え方には、表面的には賛意を示しても、
こころの中や体の中からは「もっとがんばらないといけない」という気持ちが起きてしまうのです。
*、そんな私も社会に出た80年代後半には、団塊の世代であった上司の「もっとがんばれ」という言葉には反発を感じました(笑)
*、今の時代でも「がんばっている」方は確実にいます。良い意味で言えばスポーツ選手、悪いことで言えば不況下で人数が減らされた職場で懸命に働かされているサラリーマンなど・・・

 父や母の世代は戦中派ですからもっとそうなのかもしれませんが。
*、同じ時代を生きている人のなかでも、生まれや育ち、学んだことなどによっていろいろな考え方をもっている人がいることは言うまでもありませんが、大きな傾向について言っています。

 どもりについて考えるときでも、私は「少しでも良くしよう」という気持ちがこころの中にあります。
どうしてかな?と考えてみますと、私は、「比較的軽いどもりでこころのどこかに余裕があるからかな」と考えます。
 どもりのために大卒後には引きこもった時期があり、なんとか就職できてからも、どもることで仕事上でも明らかな問題を抱えていることが多いのですが、それでも「良くしよう、軽くしよう」と思うことができて、いろいろとトライしてみることが多かった。

 今でも電話や仕事上の会話ではどもりのためにそれなりの苦労はしますが、日常生活での何気ない会話には苦労しないくらいの重さのどもりでることが「少しでも良くなりたい」と思わせるのかもしれません。
*子供の頃は、日常生活の何気ない会話でも苦労した時期がありました。特に季節で大きく波があったのを覚えています。症状が不安定なのが比較的軽いどもりの特徴かもしれませんね。

 「日常会話レベルでも常に大きくどもり、基礎的な意思の疎通に支障を来すくらいのどもり」と「比較的軽いどもり」を同じ俎上でで議論してしまっては、大きな間違いをしてしまいます。
*、比較的軽い吃音者は一般の職場(たとえば企業の営業職、事務職など)のなかで、どもらない他の社員との競争で人知れず「死にたくなるほどの苦労」をしているかもしれませんが、
「本当に重い吃音者」は、もっと本質的なところで苦労をしていることが多いのではないでしょうか?
 それは、どもりを「福祉のレベルで考えるのか、考えないのか」ということでもあると思います。

 そして、同時に、いろいろな立場の吃音者が一堂に会してフランクに話し合って、お互いの「違い」を理解した上で共同して行動することの意義も大きいと思います。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中