吃音:子供の頃からの「負の緊張」の連続がもたらす悪影響(再掲載、2008年6月、2009年4月)

 我々がなんとなくどもりの原因について考えるとき・・・・・・・
「緊張するからどもるのだ」という考え方と、
「まず、脳の機能になんらかの障害があるからどもり、そのうえに、笑われたりすることが繰り返されることにより固定化し悪化する」という考え方など、いろいろあります。

「心地よい緊張」ということばがあります。
だらだらしないで、一定の秩序を心の中に作り出す「良い緊張感」とでも言うのでしょうか・・・・・

 それに対して、どもる際の緊張は、「良い緊張感」ではなくて、しゃべろうとする意志をくじくような「負の緊張感」に思えます。
負の緊張感の背景には、社会的に「この場ではどもっってはいけないという暗黙の要請」があり、または「吃音者自身が要請があると思いこんでしまって」ということがあるでしょう。
 そして、その「負の緊張感」は、人間の各発達段階においてレベルが変わり、次々と課題のように吃音者にもたらされるものでもあります。

 それぞれの発達段階に応じてということ・・・・・
例えば、小学生のときは小学生なりの、「まわりの雰囲気から読み取るところの(どもってはいけない度)」により、
また、就職するときは就職するときなりの「どもってはいけない度」というように・・・・・・
人生のステージごとに、次から次へと課題のように与えられるので、子供の時に「私はこれから気にしません」などと思ったとしても、それ以降にまたどもりで悩み出すことはいくらでもあり得るのです。

「雰囲気として感じる、人生の各ステージごとの(どもってはいけない度)」に対する耐える力は個人差が大きく、それぞれの人生観とも絡んできますので、対策をマニュアル化するのはきわめて難しいだろうと思います。

 よく言われる各種の心理療法も国内外のものがいろいろと出ては来ますが、一時はもてはやされても、いつの間にか下火になってしまうというのが本当のところです。 (私も、80年代の大学生の頃、雨後の竹の子のように出てきた各種(日本のものも欧米のものも)の心理療法を試しましたが、理論的にはなるほどとは思いますが、実際その通りにはなかなかならないでそのうちに忘れてしまいました。)

 結局、現状では、「あきらめる」などという宗教的・哲学的な境地を要求される方法でしかどもりを持ちながらの人生は乗り越えられないのかもしれませんし、その「あきらめる」に至る近道などはなくて、「どもりを持ちながら人生を切り開かれてこらえた先人」のように薄氷を踏むような想いで生きて苦労の末にたどり着くことが要求されるのかもしれません。

 民間どもり矯正所に10万円以上のお金を払って通ってみたけれども、結局は無駄だった・・・・という経験は、「あきらめ」に至る道筋としては(多大な出費が必要ですが)ある意味では、無駄ではなかったのかもしれません。(でも、もったいない!)

 こんなことを考えると、やはり、これからは、
我々がしてきたようなたいへんな苦労をこれからの子供の世代に繰り返させないためにも、

 どもりを持った小さな子供や思春期以降の少年少女、また、就職を控えた学生が、まずは、自分の苦しい想いをおもいっきりはき出せて(「まず傾聴する」というのはカウンセリングの基本中の基本)、心の面でのバックアップも受けられて、さらに本人の希望があれば適切な言語訓練も受けられるような「気軽に通える場所」(クリニック)と「相談しやすい人」(専門家)が必要です。

 これだけで、どれだけのどもりを持った子供が救われることでしょうか。
どれだけ多くの引きこもり予備軍が引きこもらなくて済むか、そして、場合によっては自殺しなくて済むか。

 そのうえに、(上記のことと同時進行で)、吃音の治癒を最終的な目標とした、長期にわたる本格的な研究が計画的に行われればベストではないかと思います。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中